8号室―泣星病

雨が降っていた。

しとしと、地面を滴が打ち付けている。

雨の日は嫌いではないから、見ているとなんとなく心地いい。


ここ、暁病棟の雨は、湿気も酷くないし激しくもない。

にわか雨のような規模の小雨が時々降るくらい。

外を見つめれば、そこには生き物がまるでいなくなったような、どこまでも静かな世界が広がっている。


だからなのだろうか。

雨が降ると、蘇ってくる声がある。

優しい、流れるような子守唄が、脳をかすめる。


『眠れ、眠れ、母の胸に――眠れ、眠れ、母の手に――』


談話コーナーの一角で窓から外を覗いていたあたしは、ふぅと息を吐いた。

まただ。雨の日には、必ずこの歌を思い出す。


「思い出せるのが、子守唄だけとはねー……」


窓のふちに腰かけ、床から離れた足をぶらぶらと揺らしながら、あたしは独りごちた。

まだ早朝と呼ばれる時間帯で、あたしの他に談話コーナーに人はいない。

雨のせいもあり静かなこの場所に、あたしの呟きは誰にも届かずに溶けるようにして消えていく。


あたしには、ここに来る前の記憶がない。

分かるのは自分の「アルベルタ」という名前と、この「歌」だけ。

雨の滴る音と共に残る子守唄だけが、ぽつんと脳の一角に巣くっていたのだ。

以来、雨の日になると、微かな頭痛とともに子守唄を思い出す。

柔らかな女性の声が奏でる、眠りを誘う歌。

泣きながら歌う、女性の声を。


「……ありゃ」


ふと自分の頬に固いものが当たった感覚がして触ると、キラキラとしたものが手のひらに残った。金平糖だった。

これは、もともとあたしの涙だったものだ。

あたしの奇病、泣星病。それは涙が金平糖に変わる病。


子守唄を思い出していると、何故だか自然と涙が溢れてくるのだ。

悲しいわけでも、辛いわけでもない。そもそも何も覚えていないのだから、感じる事は何もないはずなのに。

そのせいで、雨の日のあたしは「金平糖製造機」に早変わり、というわけである。


「あーあ、こんなに出てきても食べきれないっていうのにさ」


また、病棟のみんなに配ろう。


談話コーナーの隅にはコーヒーメーカーや冷蔵庫等が置いてあるスペースがある。そこにはいくつか棚が並んでいて、そのうちの一つには袋などのラッピングセットが入っている。

あたしのような涙もそうだが、体の一部が何かの物質に変わっていく奇病の患者はここでは珍しくない。そんな患者のために、談話コーナーにはラッピングや袋が置いてある。変化後の物質をほかの誰かに受け取ってもらう事で、奇病の進行を遅らせることができると言われているからだ。


「それも、確かではないけど」


ここの患者たちが患う奇病は、ほとんどがまだ対処法の見つからないものだ。

元は涙だった金平糖を誰かに渡して、進行が遅くなる確証はない。

ただ今は、その方法しかない。それに縋るしかないのである。


すると、そこに少女の声がした。


「アルベルタ! 朝早いね!」


アンナである。彼女もこの病棟の患者だ。

明るくて可愛い、体に植物を棲ませる少女。


「おはよー、アンナ。金平糖いる?」


「あ、いる! そっか……今日、雨だもんねぇ」


「そーそ。困るぜ全く」


アンナはあたしの言葉に苦笑してから、「辛くない?」「何でも言ってね」と優しく頬を撫でてくれた。


「もう少しもらえるかな。リリアにもあげたいの」


「あぁ、分かった。珍しい。今日は一緒じゃないんだな」


「ううん、その……昨日、リリアのお友達が、死んじゃったの。だからお部屋に閉じこもっちゃって」


……なるほど。

確かに、最近隣にいた姉弟が――。

セシルとジュリエット。仲の良い姉弟だった。金平糖もいつももらってくれて。

いい人たちだったんだけどな。


「じゃあ、慰めてやんないとな」


あたしがアンナの頭をなでてやると、アンナはくすぐったそうに微笑んで、元気よく頷いた。


「うん! ありがとう、アルベルタ!」


「どいたしまして~」


手をぶんぶん振りながら、自室に帰っていくアンナ。

あたしはその背中を見送って、また窓の外に目を移した。


死。


病院では珍しくないことである。

もちろん、この病棟でも。

死は、奇病患者たちにとって、何よりも身近なものだ。


「……あたしは」


あたしの記憶の中の、この歌声は。

今どこにいるのだろう。

どこの誰で、あたしの何で、今なにをしているのだろう。

そもそも、なんであたしは覚えていないのだろう。


――それは。


「は、は。だめだこりゃ」


あたしは、また溢れ出してきた金平糖を袋でキャッチした。

どんどん進行してる。

それが分かる。金平糖は、だんだんと甘さを失う。


それでも、記憶のことを思った。

私の名を呼ぶ、おぼろげな女性のことを思った。

生きていたい。死にたくない。

でも、何も覚えてないまま、何も分からないまま死んでいくなんてごめんだった。


『しとしとー――しとしと――』


『眠れ、眠れ、母の胸に――』


『ごめんね、ごめんね――アルベルタ――母さんを、許して』


「母さん」


どこの誰だかも分からないけれど。

あたしをかつて、大事にしてくれていた。

それだけは分かる。

そうじゃなかったら、子守唄なんて歌わないだろう。

あたしの名を呼んで、泣きながら謝りなんてしないだろう。


「どこにいるの」


泣かないで。


あたしは、あなたの声を忘れたりしない。


もう二度と。






―――――


氏名:アルベルタ・フロリアン


病名:泣星病


症状:流した涙が金平糖に変わる。流れ出た金平糖は、食べても問題なく、むしろ病気の進行が遅くなると言われている。


患者について:昔の記憶がなく、天涯孤独の身。雨の日は記憶が蘇るらしく、必ず泣いている。また、たびたび金平糖を配ってくれるため、患者たちによく金平糖をせがまれる。本人は「あたしは金平糖製造機じゃねぇぞ」と少々不満な様子。

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