6号室ー歯車病

月が綺麗な夜だった。

月は好きだ。星も。空を見上げたときにそれらが見えると、実感できる。

ああ今日も生きているんだな、と。


暁病棟の空が濁っていることはあまりない。

ここは、人里を遠く離れた場所。隔離された平和。

神に守られた土地だから。

昔、世話焼きのじいさんが言っていた。


「神に守られた地……ね」


神。その言葉に、俺はいつでも引っかかりを感じていた。

曖昧すぎる、その存在。

その姿は人によれど、存在意義はほとんど同じ。


救ってくれるらしい。神というものは。


「で、貴方はどう思ってるの?」


月明かりが差し込む真夜中の庭園に、俺たちはいた。

ロの字型になっている暁病棟の、中央に空いている吹き抜けの空間に、庭園はある。季節によって様々な花が咲き乱れる、患者たちにも人気の場所だ。


ベンチに腰掛けていた俺の隣に寄り添う、白杖を携えた彼女は、いたずらっぽくそう言った。

彼女は、俺の盲目の姉。

彼女もこの暁病棟の患者の一人だ。


「なにが?」


「その、神についてよ」


少し考える。

月光が庭園のバラの影を薄く描いている。

ここは限りなく月に近い場所だ。


「……そうさな……、姉さんは?」


「うん、私? 私はねぇ……」


彼女も少し考える。


「……いるといいなあ、とは、思うわ。……いや」


苦笑のように顔を歪めて、彼女は見えないはずの空を見上げた。


「いたらよかったのに、かしら」


つい、ふ、と笑みを漏らした。

全く同感。


ある日、突如俺の左胸に一つの歯車が現れた。

回り続けている歯車が止まれば、心臓も止まり、俺は死ぬ。

それが俺の奇病だ。


すぐそこに迫っているはずの、姿が見えない終焉。

命の終わりが、いつでも俺の傍で微笑んでいる。


「でも、それが不安だと言えば、おかしな話だ」


だって、そんなの病に関係ない。

誰だって終焉を見ることはできないし、いつだって側にある。

気づかないだけなのだ。

今までとなんら変わらない。見えなかった命が具現化しただけなのだから。


「あなたのそういうところ、好きよ」


すると、突如彼女が俺の頬をつねった。

思いっきり、爪を立てて。


「いっっ、だだだだだ! ちょ、痛ッ……やめろよ姉さん!」


俺はあまりの痛みに涙を浮かべる。

彼女は俺をつねっていた手を放すと、次は俺の顔を近くに引き寄せた。

顔を近づけ、浮かんだ俺の涙をぺろりと舌で舐めとる。


俺の涙は、姉さんの食料だ。


彼女は満足そうに微笑んだ。


「でもね。私は許せないわ。全てが許せない」


ああ、俺も許せない。


神は、姉さんから光を奪った。

神は、俺から安寧を奪った。


「でも、そんな憎しみ、どうでもいいの」


ああ、そうだな。

どうでもいいさ。


俺たちはきっと、お互いが傍にいさえすれば、何もかもどうでもいい。


「ねえ、セシル。……月が綺麗ね」


「あんた見えてないだろ」


でも、そうだな。

なんだか今日はすごく幸せだ。





――――



氏名:セシル・クラレンス


病名:歯車病


症状:左胸に現れた歯車が心臓と連結していて、歯車の動きが止まると心臓も止まり、死に至る。歯車の動く速さと寿命の関係は解明されていないが、この病気にかかった者は皆短命である。


患者について:物静かな性格で、昼間に病室から出ることはほとんどない。代わりに夜中に中庭に出て月を眺めることが習慣。自身の病気については既に受け入れていると同時に、命を諦めている節がある。007号室に双子の姉がいる。

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