12号室―獣病

目を開くと、そこは薄暗かった。

ここは自分の病室だ。いつの間にか夜になっていたらしい。最近はこういうことが続いている。

もう何日、昼下がりのあの太陽を拝んでいないだろう。


僕は寝起きでぼんやりとした思考を巡らせながらベッドから降りると、室内にある洗面台の前で踏み台に乗って足りない身長を補い、鏡を覗き込んだ。

そこに映っていたのは、鋭く光る獣の金眼と、グレーブラウンの毛並み。

頭から白々しく生えた耳は既に人間のものではなくなってしまった。

そう、その耳は、まさしく獣のもの。

猫や犬のような毛深い耳が僕の頭の上で揺れている。


これが僕の奇病『だんだん獣になってしまう病気』。

僕は去年にこの奇病を発症してから、暁病棟で入院生活を送っている。

とは言っても、なにか治療法があるわけじゃないから、病気の進行は止まらなかった。

今では人間の頃の耳は獣の耳に成り代わり、体も毛深くなってきている。瞳も鋭く、やけに夜目がきくようになってきた。


「……ぁ……」


試しに声を出してみると、不自然にかすれていた。

この奇病は「体」だけでなく「知能」にも影響があるらしい。

医者によると、このまま進行すれば完全に獣となり、話すこともできなくなるという。


僕は思考を振り払うように頭を振ると、そのまま病室を飛び出した。

廊下は薄暗く、月明かりと等間隔で設けられている小さな間接照明だけがその白い床を照らし出している。


歩いていくと、廊下の途中に花が飾られていた。

甘い香りのする、白い花弁の花。めしべが長く、天井に向かって伸びているのが印象的だ。

その白い花が何故か目をひいた。まるで柔く光を反射してぼんやりと光っているような、不思議な存在感を持っていた。


僕が花に触れようとすると、ふと声が飛んだ。


「その花、綺麗だろ」


声の方向を見ると、廊下の奥から一人の女性がウェーブのかかった黒い髪を揺らしながら歩いてきた。

彼女の名前はアルベルタ。8号室に住む、暁病棟の患者だ。


「よう、ロゼ坊。今日も夜散歩か」


僕が軽くお辞儀をすると、アルベルタは軽く僕の頭を撫でた。

というより、僕の獣の耳に触ったのかもしれない。

少しくすぐったくて、耳をぴくりと動かした。


「この白い花な、7号室にいた患者が大事にしてたんだ。もういなくなっちまったけど、今はレイが大切に育ててんだよ。『くちなし』って言うらしいぞ。ロゼ坊知ってた?」


僕は黙って頷いた。

『くちなし』。確か花言葉は、「とても幸せ」。

その7号室の患者は愛されていたのだろうな。


「ロゼ坊は、花が好きか」


僕が再び頷くと、アルベルタは花瓶に生けられたくちなしに向き直って弾むように言った。


「じゃあ、ここを退院したら一緒に花でも見に行こうぜ。あたしはこの通り、ここに来る前の記憶がないから、ロゼ坊が案内してくれよ。……お前さんの家族も連れてさ」


ふと呟くように付け足した彼女は、悲しそうに笑っていた。

僕はその理由を知っている。

僕がこの病気にかかった原因は、僕の家族だから。


僕には弟がいた。弟は犬や猫にアレルギーがあり、毛にも触れなかった。

それに対して僕は動物をこよなく愛していた。


「……なぁロゼ坊、お前、家族との面会断ってんだって?」


アルベルタの言葉に、僕は顔を少し伏せた。


この暁病棟では患者とその家族の壁を隔てた面会が認められているが、僕は幾度となく弟たちからの面会の要請を断っている。

それも、僕が持つ罪悪感からだ。

あの日、自身の弟を殺しかけた僕に、もう会う資格はない――。


「動物アレルギー持ちの弟に動物を触らせて、呼吸困難にさせちまったんだっけか」


アルベルタは腰をかがめて、僕の顔を覗き込む。


そう。ちょっとした出来心だった。

あの日、僕は弟に猫を「触ってみなよ」と差し出した。

弟が恐る恐るそれを触ると、少しの間は楽しんでいたが、次第に息苦しそうにしだして、ついには――。


弟はあの時死にかけたんだ。

僕のせいで。

まだ僕を恨んでいるに決まっている。


「もう一年もたってんだぞ、ロゼ坊。お前の可愛い弟も、もう気にしちゃいないだろ。だから面会したいって言ってくれるんだろうよ」


アルベルタはいつも優しい。

いつもそう言って励ましてくれる。


分かっているのだ。本当は。

みんなが許してくれるのだろうということも。

それでも、僕自身を一番許せないのは僕だったから。

だからこんな病気になってしまったのだろうから。


最近、医者がしきりに面会を勧めてきている。

その意味を僕は知っている。

きっと僕は――もう、長くはないんだろう。


「……ある、べる、た」


僕は掠れた声で彼女の名前を呼んだ。

アルベルタは少し驚いた顔をして、でもすぐに「ん?」と優しく微笑んだ。


「なんだ、ロゼ坊」


「……あ、る……べるた」


「ゆっくりでいいよ」


「い、いま、まで……あり……が、とう」


アルベルタの目が見開かれる。

僕は必死に獣と化してしまった瞳で、アルベルタを見つめた。


「ぼ、ぼくを……わすれ……ないで」


これは、最後の願い。

もうすぐ完全に獣と化して、言葉すら発せなくなってしまう僕の、最後のわがままだ。


直後、アルベルタの瞳が左右に揺れたかと思うと、僕はアルベルタに抱きしめられた。

強く、強く、ひたすらに強く。包み込まれるように。


「そんなこと言うな……! 忘れるわけないだろ……!」


「……ある……べるた」


「これで終わりなんかじゃない。これからだって、ずっと……! だから……」


ああ、アルベルタは、優しい。


優しいなぁ。


「ありがと……」


どうか僕を、忘れないで。







――――――


氏名:ロゼ・シュトルツァー


病名:獣病


症状:だんだん人間から獣に変わっていく。姿はもちろんのこと、知能も下がるため、コミュニケーションがとりにくくなる。


患者について:獣病が進行して、今では人間の耳が失われ獣の耳となっている。獣の夜行性である面が出ていて、よく夜に病棟を歩き回っている。008号室の患者と親しい。








(めらんざーな様からのリクエスト)


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