第12話 キス

 男は今度こそ、呆気にとられたように沈黙した。

 長い長い沈黙だった。

 王子はとうとう耐え切れず、ぱっと立ち上がって男に背を向けた。


「だっ、ダメですよね。申し訳ありません! 急に変なことを」

「いや……。まあ、変は変だが」

「じゃっ、じゃあ、私はこれで」


 体じゅうが熱くてたまらない。もう男の顔なんて絶対に見られない。王子はもうあとも見ないで、逃げるように広間の出口に走った。

 が、いきなり目の前に大きな影が立ちふさがった。


「えっ? ぶぎゃっ!」


 背後に座っていたはずの男の体が、一瞬にして目の前に現れたのだ。急なことでとても止まれず、王子は思いきり男の硬い胸に顔面をぶち当てることになった。


「ううう……」

 あまりの痛みに、頭を抱えてしゃがみこむ。

「あ、すまん」

 上から申し訳なさそうな声が降ってきた。

「悪かった。思わず瞬間移動の魔術を発動させてしまった。大丈夫か」

「は……はい。あいたたた……」


 まだ目の奥がちかちかしている状態で、そっと手を取られ、立ち上がらされる。

 鋭い爪が肌を傷つけないように気遣ってのことだろう。直接爪が触れないよう、まるで壊れ物を扱うように優しく握ってくれているのが分かる。

 その手はやっぱり温かかった。


「すまん。本当に申し訳ない」

 男は何度も、真摯な声でそう言った。

「どうか逃げないでくれ。頼む」

「は……はい」


 痛みでにじんだ涙を手の甲で拭いながら見上げたら、髑髏の中の金色の目が戸惑ったようにこちらを見下ろしていた。

 男は顎のあたりに手を当てて、しばし何かを考える様子である。


「その……。先ほどのあれは、本気なのか」


 質問の意味を理解するのに、少し時間が必要だった。要するに、彼は先ほどの王子の申し出について訊ねているらしい。

 王子は胸の鼓動がどうしようもなく早くなるのを覚えた。そして小さな声で「ええ」と言った。


「まことに? 何かの気の迷いや、冗談ではなく?」

「はい……。一応」


 と言うか、そんな真面目な声で何度も確認しないで欲しい。正直いって、そこらに穴でもあったら鉄砲玉さながらに飛び込みたいぐらいな気持ちだった。

「そっ、そうは申しても!」

 湧きおこる羞恥を気取られまいと、王子は必死で男の胸元のマントをつかんだ。

「あなたはどうせ、こんなものをかぶっておいでだ。だから、お口は見えないんだし」

「まあ、そうだな」

「だからっ、そんなに構えなくても大丈夫なはずですしっ!」

「……そうかもしれんが」


 ええい、いつまでもぐだぐだうるさい。

 王子はとうとう、彼の髑髏の頬のあたりに両手を添えて伸びあがった。


(ままよ!)


 覚悟を決め、ぎゅっと目をつぶる。

 そのまま、髑髏の口元に自分の唇を触れさせた。

 ちゅ、と軽い音がした。


「ほらご覧なさい。こんな簡単なこと──」


 真っ赤なふくれっ面で、そう言いかけたときだった。

 ぶわっと周囲に小さな竜巻がまきおこった。


「うわっ……!?」


 男のマントがばさばさと強風にはためいている。剥げ落ちた壁の欠片や壊れた燭台の残骸などが床から舞い上がり、そこらの壁や調度にぶちあたった。

 バチバチ、ガラガラと凄まじい音がする。稲妻のようなものが部屋全体に縦横に走り、焦げ臭いにおいを放った。

 王子と男はその風の中心にいるためか、物がぶつかってくることはない。


「なっ……なな、何?」


 王子は両腕で顔を庇って、無意識に男の胸に身を寄せる。

 ふと見上げて、驚いた。男の被っていた髑髏のマスクが、灰が崩れるようにしてぼろぼろと変形し始めている。頭から生え出ていたねじくれた角も同じだ。砂像が風に吹き流されていくように、見る間にさらさらと形を無くしていく。

 それと同時に、男の体全体が発光しはじめた。

 男は苦悶の声をあげ、両手で顔を覆った。


「う……おおおおおっ!」

 

 その腕に縦横に走っていた傷が、見る間に溶けるように消えていく。滑らかになっていくと同時に、不気味に青黒かった肌の色が健康的な人のものへと変貌していくのがわかった。

 巨大な爪がぼろりぼろりと落ちていき、その下から人間の指や爪が現れる。


「ザッ……ザカライア、どのっ……!」


 男の体がさらに発光する。あまりのまぶしさに、王子は目を開けていられなくなった。

 両腕で目元を隠しながら、必死で男の方を見ようとする。

 いつまで続くのかと思った擾乱は、思ったよりも短かったようだった。

 やがて光は弱まっていき、それと同時に周囲の強風もおさまっていった。


 ようやくそろそろと腕を下ろした王子は、目の前にいる人を呆然と見上げることしかできなかった。

 長い黒髪に、深い色をした青い瞳。

 その瞳が、光の加減で金色にきらりと光る。


 精悍な風貌をした凛々しい青年が、王子を見下ろして立っていた。

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