第5話

「で……では。これは、貰っていっていいんだな? 本当に」

「アア」


 恐る恐る訊いたのにも、怪物は背中で返事をした。

 王子は次第に、自分の緊張がほぐれてくるのを感じていた。

 もちろん、すぐにこれを持ってここから立ち去るのが一番いい選択だ。そのことは分かっていた。しかし。


(そうしたら、こやつにはもう二度と会えない……?)


 なぜか知らないが、そう思った。

 この爪は、明日また明るくなったら兵たちが同じ場所に戻しにくるのだ。自分が彼のことを父や臣下たちに告げてしまったら、大勢の兵がやってきてここを家探ししてしまうかもしれない。

 この男──声からして恐らくそうだ──だって、そのぐらいのことは考えていよう。自分が去ったすぐ後で、根城を変えてしまうのに違いない。


 と、怪物が少し顔をめぐらせた。周囲を観察したらしい。

 男の斜め後ろには、すっかり煤けて白い靄がたちこめたようになった大鏡がある。ほとんど物を映すことのできなくなっている鏡面の下半分は、すでに割れて砕け落ちていた。

 男はそれに目を走らせ、一瞬びくりと体の動きを止めた。

 明らかに、己が姿に驚いたようだ。そろそろと髑髏のマスクに覆われた自分の顔を手でさするようにしている。

 再び重苦しい沈黙が場を支配した。


「あ……その」


 恐るおそる立ち上がりながら声を掛けたら、怪物はやや半身になってこちらを見た。月明かりを跳ね返す瞳は、美しい金色をしていた。王子は自分でも驚くぐらいそれに目を奪われて、しばらく声を出せなくなった。

 なんだろう。

 その瞳は、こんな恐ろしげな生き物が持つにはあまりに静かで、澄んだ色を湛えているように見えた。

 そうして、ひどく悲しげだった。

 まさかとは思うけれど、自分の姿に驚き、失望しているのだろうか?

 王子はあれこれ逡巡したあげく、気がついたらこんなことを訊いていた。


「なぜ、そなたはここにいる? いったい何をしていたんだ?」

 怪物は少し考えたようだった。

「……ワカラヌ。長イ長イアイダ、眠ッテイタ。コノ地下デ」

 太くて長い、爪の生えた指先が静かに足もとを示した。

「そうなのか」


 ずっとずっと昔。男はこんな姿ではなかったらしい。

 それで、なにか大きないさかいに巻き込まれ、その当時随一の剣士とうたわれた、勇壮なひとりの若者と戦うことになった。

 確か、そばにはその剣士の仲間である魔導師たちもいたと思う。

 剣士に負け、男は魔導師らに眠らされた。

 以降のことは、記憶にない──。


「じゃ、じゃあ……。それからずうっと、ここの地下で眠っていたと?」

「そうだ」


 ぽつりぽつりと話すうちに、彼の声はかなり聞き取りやすいものになってきたようだった。よくよく耳を澄ますと、骸骨の被り物でくぐもってはいるものの、深くて艶のあるいい声だ。それは不思議と聞き心地がよかった。

 あれで耳のそばで甘い言葉でも囁かれたら、女性ならいっぺんにうっとりするのではないだろうか。単純に声だけを聞いていれば、非常に男ぶりのいい剣士か何かを彷彿とさせられるほどである。

 その声音が醸し出すのは、決して酷薄なものではない。むしろ、まったくその逆だった。

 気が付けば、王子はほんの二、三歩ほどの近さまで怪物に近づいていた。


「ひ、……ひとは、本当に食べないのだな?」

「当然だ」


 いい加減にしろ、と言わんばかりの声で男は言った。

 ほとんど唸り声のようだった。


「そ、その……面は? どうしてそんなものを着けているんだ?」

「そなたは質問ばかりだな」


 やや呆れたようにそう言ってゆらりと身を翻すと、怪物はそこいらに倒れていた椅子のひとつを持ち上げて据え直し、どかりと腰を下ろした。


「この面は、取れぬ。先ほどから色々とやってみているが、顔に張り付いているらしい。無理に剥がせば顔の皮膚ごと剥がれるだろう」

「うわ……」


 王子は思わず顔をしかめた。想像するだけで、こちらの顔まで傷めてしまったような気になったのだ。


「それにしても、おかしな奴だな。俺のことが怖くないのか? 先ほどは、今にも漏らしそうなほどひるんでいたくせに」

「しっ、失礼なことを申すな!」

 王子は真っ赤になって憤慨した。

「もっ、もも……漏らしたりなんか、せぬ! 絶対」

「……そうか」


 ちっとも信じた風もなく、しれっと怪物が返事をする。

 王子はむうっと口を尖らせた。何やらむかつく。


「ま、まことだぞ。これでも私は、今日で成人なのだからな! もう子供ではないのだから」

「成人か。いくつだ」

「数えの十七」

「子供だな」


 ばっさりと斬り捨てられて、王子は目を丸くした。

 続く言葉を見失って、口をぱくぱくさせてしまう。


「なっ……なな……だから、失礼であろう! これでも私は、この国の王太子──」

「それはさっき聞いた」


 くふ、と何か聞こえたと思ったら、怪物が含み笑ったらしかった。


「だが、困ったな?」

「な……なにがだ?」

「一国の王太子殿下ともあろうものが、こんな荒れ城でちょっと怖いものを見たからといって、へっぴり腰で尻もちをつき、悲鳴をあげてお漏らしを──」

「だっ……だだだからっ! だれも漏らしてなどいないいいッ!」


 とうとう王子は首まで真っ赤になって叫んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る