第4話

「な、……何者だ。お前は、


 遂に沈黙に耐え切れなくなって、掠れた声をあげたのは王子の方だった。

 影は相変わらず無言だったが、微妙に首をかしげたように見えた。


「つ……爪。そう、爪だ」

 王子はハッとして足もとをちらりと見た。先ほど取り落とした小箱が開き、中身が床にこぼれ出ている。それは彼の指三本分はあろうかという太い獣のような爪だった。

「こ、これを持ち帰るだけだ、私は。じゃ、邪魔を……しないでくれ。すぐに帰る。約束する──」

 震えきった声で必死に懇願してみる。

「つ、爪が心配か? こ、これだってすぐに返す。王宮で、持ってきたことさえ確認してもらえば、明日にでも、すぐ! 約束する……!」


 相手は無反応で、やっぱり微動だにしなかった。

 もう膝がすっかり笑ってしまって、立っていることも難しかった。

 と、相手がごそりと一歩動いた。


「ひゃああああっ!」


 とうとう、王子は尻もちをついた。それでも相手に剣を向け、あいた方の手で必死で床をまさぐり、爪を掴む。


「助けてっ……いやだ! こっちに来るなああっ!」


 半泣きみたいな声で叫んだら、またぴたりと相手が止まった。

 何となく、困った顔をしているように見える。

 そこで初めて、王子はまじまじと相手を見ることができた。


 薄汚れた黒いマント。その端にはあちこちほころびがある。ぬぼっと立ち尽くすその姿からは、殺気らしいものは感じなかった。


(ん……?)


 なんとなく、様子が変だ。

 かぶったマスクの奥の目で、王子が手にしている大きな爪を見ているらしい。 と、今度は自分の手をじっと見て、なんとなく溜め息をついたようだった。

 なんだかおかしい。自分の爪に、なんでそんなにがっかりするのか。


「な、……なんだ?」

「ベツニ、ドウデモイイ」

「……は?」


 聞こえたのが相手の声だと気づくのに、少し時間が必要だった。それは何百年も声を出さずにいた人の声帯が悲鳴を上げているように思われた。

 がさがさと軋んで、まるで金属同士をこすり合わせたような音だ。だが、それは確かに声だった。非常に聞き取りにくい低い声。


「ソンナモノ、俺ハ要ラン。勝手ニ持ッテイクガイイ」

「……そ、そうか?」


 重々しく相手が頷く。

 やっと少しほっとして、王子は手にした爪を自分の懐につっこんだ。

 と、相手が今度はざすざすと、いきなり間合いを詰めて来たので、王子は「ひいっ」と飛び上がった。


「く、来るなあ!」


 剣をめちゃくちゃに振り回し、尻だけで必死にいざる。

これはきっと、こういうことだ。爪は要らぬが、人間は要る。

 つまり、人間の肉は要る。

 きっと、今から私を食べようというのだ!

 頭から、ガリガリと。


「たっ、食べないで! 食べられるのはイヤだあああっ!」


 赤子みたいな泣き声をあげたら、怪物がまた足を止めた。


「……人ナンゾ。食ッタ覚エハナイ」

 吐き捨てるような声だった。

「え……?」

 もう涙のいっぱいに滲んだ目で見上げると、怪物はやっぱり困惑したようにその場に立ち尽くしていた。


「人ノ味ナド知ラン。……マア、記憶ガ曖昧ダカラ保証ハデキンガ」

「ほ、本当か……?」

「アア」


 怪物はいかにも面倒くさそうに、ついと方向を変えて朽ちた窓の方へと歩いて行く。体は重そうなのに、不思議と足音を立てない身のこなしだった。恐らく、武術の心得があるのだろう……などと、頭の隅で奇妙に冷めた思考を展開させつつも、王子は呆然とその姿を目で追った。

 なんだか不思議な感じがした。

 ただ恐ろしい、恐ろしいとばかり思っていたこの相手が、なんとなく品のいい言葉づかいや立ち居振る舞いをすることにだ。

 どうやらこれは、ただの「狂暴で恐ろしい化け物」というような者ではないのかもしれない。


「あ、あの……」

 それでつい、王子は訊いてしまった。

「そなたは一体、だれなのだ?」

「ワカラヌ」


 怪物のいらえは簡潔だった。


「俺ハ、俺ガ誰カヲ知ラヌ。何十年モ眠ッテイタ。モシカシタラ、何百年モ。先ホド目ヲ覚マシタバカリダ。記憶がホトンド、抜ケ落チテイル──」

「…………」


 王子はぽかんと口を開けて、真っ黒な小山のような怪物の背中をじっと見上げた。


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