第2話 再会
森を抜け、馬をできるだけ急がせて、王子はやっとあの荒れた古城にたどり着いた。全体を通して、掛かった時間は一刻ほどだ。思ったよりも早く到着できて、ひとまずはホッとする。
城の周囲には誰もいなかった。
昼下がりの太陽が照らし出す古城は、先日とはまるきり印象が違って見えた。森の中のどこかから、平和そうなカッコウの声が聞こえてくる。花の蜜を集めるのにいそがしいミツバチたちの羽音が、ときおりぶうん、と頬にあたった。
こうした森の中の廃墟などには、えてして野盗などが棲みつきやすい。だが、この城にはそうした様子がまるでなかった。何か特別な理由があるのかもしれなかったが、ともかく野蛮な輩がいないのはありがたかった。
王子はそれでも慎重に、城の崩れた門をくぐった。
石造りの城の内部は、外の世界よりも少し温度が低かった。慎重に足を進め、先日あの怪物に出会った広間を目指す。
「どこだ……? 怪物どの」
ほんの小さな声で呼んでみる。返事はなかった。
城の内部は森閑と静まっていて、こそりとも音がしない。あの夜はあちこちが風に揺られ、きいきい、かたかたと不穏な音をたてていたくせに。
「怪物どのー。怪物どの……?」
少しずつ声を大きくしながら、王子はぐるりと城の中を巡ってみた。そのうち、ぐっと奥まった場所に大きな衣装棚を見つけた。
どうも変な具合に置かれていると思ったら、それはどうやらそばにある小さな入り口を隠していたものらしかった。彼がそこから出る際にずらしたのだろうと推測する。
王子はそろそろとそこに足を踏み入れた。そこから先は、非常に狭い階段が螺旋状に続いていた。
細い石造りの階段は、やっぱり古くて湿ったような、かび臭いにおいがしていた。階段は右へ巻いたかと思うと少し直線になり、今度は左へ巻く。それが何度も繰り返される。とにかくぐるぐると回らされた。まるで迷路だ。だが、確実に地下へ向かっている。
早い段階ですぐに一歩も進めなくなって、王子は準備しておいた小さな手燭に火を灯した。食物の入った籠を肘にかけ、もう片方の手で壁を探りながら慎重に階段を下りていく。
このあたりまで来ると、王子はとっくに方角を認識するのを放棄していた。
冷たい壁に、ことん、ことんと自分の足音だけが響く。陽の光が届かなくなったそこは、急に闇に呑まれたようになっている。ふとあの夜の恐怖を思い出して、王子の背筋はぞくりと震えた。
小さな燭台が照らせる範囲はごく狭く、王子は何度も階段を踏み外しそうになって足をすくませた。ひと足先はなにもない闇に落ち込んでいる。壁にはりついていなければ、本当に一歩も踏み出せない。
「かいぶつ、どのぉ……。おられないのか? 怪物ど──」
「その呼び名はいかがなものか」
「ひゃああああっ!?」
いきなり背後から声がして、王子は文字通り飛び上がった。
その拍子に、手にしていた灯火を取り落とす。手燭は派手な音を立てて、階段を転げ落ちていったようだった。その拍子に、灯火の明かりは消えてしまった。
が、幸いすんでのところで、王子はどうにか大切な籠だけは抱きとめることができた。
「……すまぬ。驚かせるつもりはなかった」
闇の中から、心底済まなそうな声がする。
それがあの怪物のものであるのは明らかだった。
はっと気づくと、王子の体は太い腕でしっかりと胴のあたりを支えられていた。
非常にたくましく、太い筋肉に巻かれた頼もしい腕だ。それはきちんと温かく、人としての熱を持っているようだった。
そのことにほっとしながら、王子はやっと声を出した。
「あ、あなたか……? かいぶつど──あ、いや」
また例の呼び方をしそうになって口ごもる。
「まあ、そう呼ぶほかないのは理解するが」
彼の声に、やや含み笑う色が混ざった。声だけを聞いていると、本当に大人の男としての色や艶がすさまじい……などと、馬鹿なことを考えてしまう。そんな自分を、王子は心の中だけで叱咤した。
「灯火を落とされたか。少し待たれよ」
と、するりと彼の気配が動いた。それがすぐ脇をすり抜けたと思ったら、もう目の前に戻ってきて、手燭を握らされていた。
怪物に勧められ、王子は再び持っていた種火で灯火をつけた。
暗闇に、ぼうっとあの肉食獣の髑髏が浮かび上がる。
不思議なことに、そのおどろおどろしい姿を見ても、王子はもう怖くはなかった。むしろ安堵したぐらいなものだ。
「どこか行っていたのか? 一体どこへ?」
「幸い、周囲に人影がないようなのでな。気散じに少し散歩をな」
「ふうん……」
「この下は、ただじめじめと暗いばかりだしな。ああいう場所は、どうにもこうにも気が塞ぐ」
「ああ……」
「こんな
「うん。それはそうだろうな」
さもありなんとばかり頷いたら、男はちょっと沈黙した。
「そう言うそなたは、いったい何用でここへ来た? あれほど怖がっていたくせに」
「あ、そうだ!」
言われて用件を思い出す。
手にしていた籠から、白い掛け布を取って中を見せるようにした。
「さぞやお腹が空いておられるだろうと思ってな。何がいいか分からないから、とりあえず色々と持ってきてみた。固焼きパンと、豚の肉詰めパイに、葡萄酒。どれも美味いぞ?」
「…………」
「こっちには、干し肉と野菜が少し。りんごと、杏子のジャムだろう? ええっと、それから──」
「いや、待て」
夢中であれこれ籠から出して見せていたら、男が変な声で遮った。
「お心遣いは有難いが。あいにくと目覚めて以来、あまり腹は減らなくてな」
「え……そうなのか?」
なんだかがっかりして言ったら、それはそのまま自分の顔と声に丸出しになっていたようだ。怪物が苦笑した──ように見えた。
「それもこれも、かつての呪いの一環だとは思うが。人間だったころのようには、ひもじい感覚が湧かないようだ。すまない」
「いや、謝ってもらわなくてもよいのだが……。そなた、やっぱり人間だったのか」
「ああ。恐らくはな」
それもこれも、断片的な記憶しかないのだから、彼自身にもはっきりとは言えないのだろう。
「ええと……」
王子はちょっと口ごもった。
「でも、せっかく持ってきたのだし。良かったら一緒に食べないか?」
「…………」
「そうだ、外は気持ちがよいし。少し丘を下ったところに小川もあるぞ。その近くで一緒に。どうかな?」
怪物は今度こそ、妙に長い間をおいて沈黙してしまった。
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