第10話 賢王ザカライア
しばらく、場にはしんとした沈黙がおりた。
窓の外からほうほうと、静かな
が、やがて意外な言葉が降ってきた。
「いや、王太子殿下。そんな得体のしれない男の話を、すぐに信用するもんじゃないぞ」
「……え?」
「いいから、お手をあげられよ」
王子は呆気に取られて目をあげた。それでも、床についた手はそのままだった。
男の顔は、相変わらず不気味な動物の髑髏に覆われている。だから表情は分からない。しかし、その態度はまぎれもなく穏やかなものだった。
「その男の言うことに、どんな確証があったと言うんだ。その時、初めて会った相手なのだろう? ちょっと騙されやすすぎるのではないのか、そなた」
「え? いや……だって」
「まったく、心配な御仁だな」
言葉の最後には完全に苦笑が混ざりこんでいる。
「あ、あの……」
この状況で、今さらなんでこちらの「伝説」が本当だなんて思えるだろうか。
彼を見て、知ってしまった今、彼が「
男は髑髏の中でそっと溜め息をついたようだった。
「良いから。お立ちあれ」
言って立ち上がり、その手で王子の腕に触れてくる。巨大な爪でうっかり体を傷つけないよう、気を使いながら触れてくれているのが分かって、王子の胸はひどく痛んだ。
彼に促されるまま、やっとのろのろと立ち上がると、王子はそのまま彼の隣に腰をおろした。
「いずれにしても。もう三百年も前の話だ。今ごろになってそれを蒸し返して、何がどうなるものでもあるまい」
「で……でも」
「良いのだよ、王太子殿下」
男の声はやっぱり穏やかで、むしろ笑みさえ含んだものだった。
「そなたが謝ってくれたではないか。今、ここでこうして頭を下げ、涙まで流してくれた。……それで十分だ。俺はそれだけでいい」
「ザカライアどのっ……!」
言いかけた唇を、大きな爪の甲がそっと抑えて黙らせてきた。
口が動かなくなった分、王子の目からまた熱いものが溢れ出た。
それがぼとぼとと顎を伝って、男の指先から膝がしらへと落ちていく。
「本当のことを言うとな」
王子が少し落ち着いてきたのを見計らって、男は言った。
「あれから、少しずつ色々なことを思いだしていた。そなたが自分の名を名乗ったあたりから、次第にな」
(ああ……。やっぱり)
やはり彼は、あれをきっかけに色んなことを思い出したのだ。
自分の過去も。かつては臣下だった「アシュクロフト」という名の男に、いったい何をされたのかも。
「思い出すに従って、魔力もかなり戻ってきてな。この姿だけはどうにも元に戻せんようだが、この場所の結界を強めることも、なんなら自分の姿を隠す魔術も使えるようになったのさ」
「え?」
「だから、実は全部見ていた」
「……ええ?」
何を言われているか分からなくて、王子はしばしきょとんと男を見返した。すでに涙は止まっている。
「そなた、何しろ危なっかしい。王太子殿下ともあろう者が、そうそう何度も王宮を抜け出せると思うのか? 俺が魔術で作り出したそなたの
「……えええっ!?」
つい出てしまった大きな声が、広間にうわんと反響した。
「まさか、そんなことを……えええっ?」
「その程度のことは朝飯前だ。……まあ、今は朝飯などは食わんのだが」
ごく
すると、少し先の床の上に、何者かが忽然と姿を現した。
「ひぎゃっ……?」
王子はびくっと飛び上がり、思わず男のマントにしがみついた。
それは、どこからどう見ても自分にそっくりの姿をした青年だった。着ているものはもちろん、目の色も、くりくりと曲線を描く亜麻色の髪も。少し不安そうにおどおどと周囲を見回す表情まで、本物そっくりにできている。
王子が事態を飲み込んだのを見て取ると、男がぱちんと指を鳴らした。
すると、贋物の王子はふっと姿を消した。
と思ったら、そこに小さな茶色い
王子はぽかんとそれを見送った。
「実を言うとな。俺はそなたが出かけた先の、居酒屋の隅にもいた。姿を隠すだけではだれかにぶつかってしまうので、別の姿に化けてはいたが」
「そっ、そうなのですか!?」
「あんな治安のよくない場所で、そなたのような温室育ちが、よくもあれだけ
男の声にはうんざりしたような、また皮肉を帯びた色が混ざりこむ。
(いや、そんなことを言われても)
「知らぬであろう? 俺がどれだけ、そなたの財布を狙っている連中を路地で眠らせて回ったか。いや、財布だけではないな」
「え……」
「衣服も、さらにはそなた自身までもだ。奴らは大抵は複数だったし、武器も持っていたのだぞ。どこかでそなたをかどわかそうと、虎視眈々と狙っていた。下手をすればそなた今頃、どこぞの奴隷商人の馬車の中だったかもしれんのだ。まったく、困った王太子殿下よ」
「えええ……?」
開いた口がふさがらぬとはこのことだった。
王子はもう口ばかりでなく、目も開けっ放しで男を凝視するしかない。
男は髑髏の中でくはは、と笑った。
「実はな。ご家族のお顔も拝見していた」
「えっ……」
王子はハッとした。全身の血が、一瞬ですうっと下がってしまったような気がした。
男はずいと腰を動かしてこちらに向き直った。
「なかなかに有能なお父上だな。各地の治水や干拓にも力を注ぎ、民らを無闇に苦しめてはおられない。基本的には、無駄な贅沢を厳に慎み、質素倹約に努めておられる。官吏の腐敗も、決して座視はしておられない」
「…………」
「お母上も、一見おっとりとは見せつつも非常に賢い御方とお見受けした。弟王子、妹姫たちも大変にお可愛らしい。どなたも素直で、まっすぐな心根をお持ちのようだ。さすが、そなたを育んだだけのことはある。……良きご家族だな」
「ザ、ザカライアどの……」
「そんな、泣きそうな顔をするなよ」
男はふっと苦笑したらしかった。
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