第6話 

「だっ……だだだからっ! だれも漏らしてなどいないいいッ!」


 とうとう王子は首まで真っ赤になって叫んでいた。

「なら」

 と、怪物がずいとこちらに上体を寄せてきた。

「ひいいッ!」


 王子は震えあがって、また必死で飛びすさった。

 怪物の足がぴたりと止まる。

 

「取引きをせぬか? 殿

「な……なに?」


 ごくりと喉を鳴らして上目遣いに見上げてしまう。


「そなたは今後、今日あったことを誰にも話さぬと約束いたせ。ここで起こったことも、無論、俺に会ったこともだ」

「え……」

「さすれば俺は、今宵のそなたの醜態をだれにも口外せぬと約束しよう」

「だから! しゅ、醜態など……んむ」


 晒しておらぬ、と叫ぶ前に、太い爪がすっと伸びてきて唇の上にぴたりと乗せられた。さも「黙れ」と言わぬばかりに。そこを傷つけぬよう、非常に器用に、撫でる程度の触れ方だった。

 むしろそちらに気をとられて、王子は自然と黙りこんだ。


「どちらにせよだ。人の口に戸は立てられぬぞ、王太子殿下。下々の者は、高貴な方々の面白おかしき噂話が大好きだ。醜聞などというものは結局のところ、事実がどうであろうが構いはせぬのよ。彼らにとっては、それほど人生が退屈だということだ」

「…………」

「俺はここからしばらく離れるわけには行かぬ。この姿であちこちに出没すれば、人心を惑わすことになるしな」

「ああ……うん」


 それはそうだろう。こんな化け物が森をうろうろと彷徨っていたら、その噂は一晩で千里を走ろう。国を守る立場の者として、治安の維持は大切な要件だ。それはこちらも具合が悪い。

 王子の思考を読み取ったかのように、少し間を置いて怪物は言った。


「もしも今後、そなたの家臣らがここを荒らし、俺を家探しするようなことあらば。翌朝には国中にそなたの醜態が喧伝けんでんされよう」

「あ、あのなあ! だから私は──」

 お漏らしなんぞしていないのだ、と叫びたかったが、あっさりと金色の目で制された。

「俺にはそうした魔力がある。方策もまあ、いろいろとな」

「う、うう……」


 しまいにはぐうの音もでなくなって、王子は目を白黒させた。





 四半刻しはんとき後。

 王子は朽ちた城門脇で、物陰につないでおいた愛馬のくつわをとっていた。

 懐に、手巾に包んだ大事な怪物の爪がちゃんと入っていることをもう一度確認する。そうして、鞍にまたがった。

 常歩なみあしに馬を歩ませながら、来た道をとぼとぼたどる。

 森のどこかしらで、ふくろうが胡乱な声でほうほうと鳴く声がした。


 耳の奥には、ずっとあの怪物の声がこだましている。


『よいな、王太子殿下。俺のことは口外するな』

『ゆめゆめ、お忘れのなきように』──と。


(……なんだか、不思議だ)


 最初はあれほど怖いと思っていたのに。

 彼と話をしているうちに、なぜだか自分は怖いという感情を忘れてしまっていたようだ。

 しまいには普通の人間にするようにして、あんな約束まで交わしてしまった。

 あの男の物腰に、あまりに野卑なものが含まれていなかったからであろうか。言葉の端々に、身のこなしに、高貴な人の放つ特殊ななにかが潜んでいるように思えたからであろうか。

 そのあたりは、どうもよくわからない。


(また、会える……のだろうか)


 気が付けば、ふとそんなことを考えている。そんな自分に驚いた。

 彼は明日もここにいるのだろうか。

 この爪を戻させるために城の兵士らを派遣することになるはずだけれど、ちゃんと隠れていてくれるだろうか。

 腹は減らないのだろうか。湯浴ゆあみなどはしないのか……?


 そして、あなたは誰なのか。


 思いはあちらこちらへ彷徨さまよい飛んで、ふと見ればもう、王子の馬は森を抜け、城へ向かう小道に出ていた。

 はるか丘の向こうには、王宮を擁する大きな街が見える。石造りの壁に囲まれた城塞都市だ。


 ふと背後を見やると、煌々と周囲を照らす月はすでに、西の山々の向こうへと落ちかかっているところだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る