第14話 拒絶

 王子の頭の中は真っ白になった。

 いや、ほとんど発光していたかもしれない。

 「そうか。『こっち』とはこういう意味か」と頭のどこかでもう一人の王子が「なるほど」とばかり頷いている幻を見たような気がした。


 呆然自失で無抵抗なのをいいことに、男は何度か王子の唇を吸ったあと、軽く音をたてながら頬に、目尻に、さらに顎にと接吻を落とし続けている。

 ようやく人としての意識が戻ってきて、王子は男の胸を押しやった。ただし、ごく柔らかい仕草で。


「……あの。ちょっと落ち着いてくださいませ」

「ん? 俺は至って落ち着いているが」


 にこにこと返されて肩を落とす。

 この男、結構ずうずうしい性質たちなのだろうか。


「『こっち』の意味は了解しましたが。これから、どうなさるのです」

「どうなさるとは?」

「その、つまり。呪いは解けたということでしょう。人の姿にお戻りになった以上、これからどこにでも……行けるのですし」


 自分でそこまで言いかけておいて、王子は最後のところで言葉を濁した。どうして胸がしくしくと痛みを訴えてきているのかは、敢えて考えまいとする。


「それはそうだな。だが今は──」

 言って男は、また王子の顎に手をかけた。

「もう少し、そなたの唇が欲しい」

「ちょ、ちょっと……!」

 王子が真っ赤になって叫びかかったときだった。


──くううう。


 なにやら下方から、珍妙な音が聞こえてきた。

 男も目線をちらっと下げたが、すぐに王子に戻してにっこり笑った。


「いかん。どうやらも人間並みに戻ったようだ」

「それは……おめでとうございます?」

 

 寿ことほいでいいものなのかどうなのか。困惑しつつも言ってみる。


「となると。面倒だが、今後は食い扶持が必要のようだな」

「左様でしょうね」

「どこかで畑仕事や力仕事でもさせてもらえるといいのだが。なんなら、村を守る用心棒としても働けるしな」

「え? いや──」

「王太子殿下には、どこか人手の足りない人里でもご存じではあらせられぬか。自慢するつもりはないが、魔法なしでも一人で野盗の十人ぐらいは撃退できるが」

「ちょ、ちょっと……」

「なに、その他の雑用でも一向かまわない。大抵のことはこなせるぞ。何しろ、相当卑賎の出身なのでな」

「だから! ちょっと聞いて下さいと言っているのに!」

 

 王子はとうとう、男の胸倉をつかんで叫んだ。

 男がふつりと黙って見下ろしてくる。人の姿に戻ってもなお、彼は相当に長身なのだ。


「……そ、その。もと国王であられた方が、そのような仕事をなさらずとも」

「これは異なことを。仕事に貴賤はないと思うが?」

「そういうことではなくっ。せっかく、王としても豊かなご経験がおありなのですし」

「腹心に裏切られて失脚し、呪いを受けて化け物になり、果てはこんな古城で数百年も眠り続けていたという、情けなくも恥ずかしき経験ならな」


 ごく軽い自嘲の言も、別に暗いものは含んでいない。むしろさばさばとして、どこにも屈託はないようだった。


「そ、そんなこと……」

 王子が困ってうつむいてしまうと、逆に男はこちらを覗き込むようにした。

「で? 何がおっしゃりたいのだ」

「で、ですから。わ、わたくしの……」

「うん。そなたの?」


 じっと見つめられてしまったら、言おうとしていた言葉が急に喉の奥へ引っ込んだ。じわじわとまた、顔に血がのぼってくるのがわかる。


「『わたくしの』の、そのあとは」

「えっと……ええっと──」


 男の顔が、再び接吻できそうなほどに近づいている。

 気のせいかもしれないが、厳しい光を帯びていることの多いその目が、今はひどく優しいものに見えた。

 それに見つめられているだけで、なんだかもう、自分の身がまるごと燃え出すのではないかと思った。


「でっ、ですからっ! これから王になる私の、その……指南役になって頂けないかと。政治向きのことも、武術の面でもです。わたくしはご覧の通りの若輩者。すさまじき凡夫、非才の身にありますゆえ」

「さすがにそこまで卑下するほどのことはないと思うが」

「と、とにかく! 居て頂きたいのです。……わ、わたくしの」


 そばに、とやっと最後に告げた声は、ほとんど蚊が鳴くに等しかった。

 彼の魔力で城の中は嘘のように明るくなったが、そのぶん余計に窓外は暗く見える。闇に沈んだ森の向こうで、半分に欠けた月がこちらを覗き込んでいる。まるでだれかが片目で笑っているようだ。

 

 窓の外で、ほおう、と暢気のんきな声が響いた。

 先ほど王子の姿に化けさせられたふくろうだろうか。


 男はしばらく、王子を見つめたまま沈黙していた。

 やがてその両手が上がり、王子の頬をはさむようにして額を近づけてくる。

 祈るような思いで見上げている王子の瞳を、金色を含んだ双眸がじっと覗き込んでいた。心の奥まで見透かされてしまいそうな澄んだ目だ。


「あ、……の」


 やっと出たのは、もう泣きだしそうな声だった。


 そばに居てほしい。

 このままあなたがどこかに行ってしまうなんて、いやだ。

 もう会えないなんて、絶対にいやだ。

 もっとあなたと話がしたい。

 もっともっと、いろんなことがしたいんだ──。


 男はひとつ溜め息をつくと、こつんと互いの額を触れさせた。

 そのまま、耳元に囁かれる。


「……お断りする」


(……!)


 その瞬間。

 王子の眼前は真っ暗になった。


 足元にぼかりと大穴があいたような感覚。

 王子はただ呆然と、目の前の青年を凝視した。


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