第四話 「会社を辞めた日のこと」~ Revolution 9③

 ケンジの働いているのは、運送会社だ。仕事は非常にハードだ。例によって、我々の世代の新人採用は押さえられていた。バイトや契約で代替されていた。が、最近は数年おきに新人が入るようになった。だが、次に新人が現れるころにはほとんどが退社した。ケンジたちにはそう見えたが、経営者には計画もなく、足りないから補充したという感じで新人社員がやってくる。上の考えていることはケンジたち末端社員には分からない。分からないというほど大きな会社ではないのだが。

 同僚が辞めたとき、ケンジは彼らを「裏切り者」として扱った。これが生き残った忠誠心の高い社員の結束を固める効果がなぜかあった。要するに、離脱しにくくなっているのだ。業務は悲惨だった。顧客の都合に合わせ、始発に出勤することもままあった。夜十時過ぎに退勤するのが常で、十時以前に退社すると皆で「奇跡だ」と喜んだ。だが、そのまま飲みに行ってしまうのだが。

 時間の管理は本人次第という建前であったが、課長がすべてを管理していた。残業はあまりしていないことになっていた。課長にとってその方がさらに上の覚えがめでたくなる。

 ある日、事務所移転の際、四人で運んでいた金属製のラックを足の上に落とすという事故が発生した。いちいち陳列し直すのは面倒なのだろう。ラックの中の書類はそのままにして運んでいた。重さは百キロ以上、いやもっと、か。ラックが直撃した社員の足がどうなったかは言うまでもない。

 事故に遭ったのは四十代で前の会社をリストラされた非正規雇用の男だった。再就職までのつなぎでこの仕事をしていた。非常に温和そうな男であった。

「やっちまったな」、同僚がケンジの肩に手を置いて囁いた。「これからが大変だ」。

「どうしてだよ、労災おりるだろ」とケンジが同僚の顔を自分の肩越しに見て言った。

 同僚は鼻で笑った。

「事故が発生したのを認めるのか。誰がミスを引き受ける。責任者はあの課長だぜ。アイツがそんなことをすると思うかい」

 ケンジは返す言葉がなかった。

「たぶんいくらか課長が金を渡してうやむやだろうな」

「オレたちも同じ目に遭うのかな」

「それはない。今、そういうのウルサイから、正社員に対してはな・・・・・・」

 と、さも自分は蚊帳の外だという反応をした。

 目の前で荷物を運び終わった派手な塗装とそうのトラックの荷台に怪我をした男を運び入れようとしていた。救急車は呼ばないのだろう。同僚は「手慣れたもんだね。いつもの病院に運ぶよ」。その病院は色々と都合の良い病院らしい。同僚は顧客の方に向かった。男を運ぶのはバイトの古株ふるかぶの大学生たちであった。少なくとも彼らはこれまでこのような経験があるのだろう。


「課長に抗議しようかと思ったんだよ。いや、現場になんて来やしないよ。責任者だけど、そこはオレたちに任されてんだよ。卑怯だよな。やっぱりああいう会社で出世するやつって、鈍くさいか、卑怯者か、どっちかだよな。現場でミスしてもきっちりオレたちのせいになるようになってんだ。俺はなんだか空しくなっちゃってさ。西行の気持ちだな」

 僕は西行のことはよく分からなかった。のちに調べると、もともと西行は武士で、娘を濡れ縁から蹴り落とす勢いで出家したのだそうだ。きっと虚しさが重なると言いたかったのだな、と理解した。


 同僚は顧客ににこやかに説明していた。彼は課長の覚えがめでたい。いったい何のために働いているのだろう。

 その四十代の労働者のケアをきちんとしないというのも無法、自分たちをきちんと扱わないというのも無法、同僚の「オレたちをきちんと扱わないとウルサイ」というのもどこまで信じられるものか。

 目がめた。

 同僚が己を無碍に扱わないと信じられるのは、ケンジ自身も同僚も、隔離された狭い世界にいるからだ。その世界のなかのいびつな理屈だ。それに気づかずに浸りきっていた。それにいきなり気づいた。

 それに自分の労働が誰かのためになっているのだろうか。この数十年で、会社の業績はよくなったのだろうか。自分たちが犠牲になって、何かが変わったのだろうか。手応えはまるでない。こんな生活を続けていて、何か良いことがあるのだろうか。

 疑問が一気に湧いてきた。

 もうこんな生活はよそう。

 ケンジはこのときにそう決意した。というより、明確に言葉になった。

 そのとき、ケンジのまぶたに冷たい物が当たった。

 雪だった。年が明けて、関東が一番寒い時期だった。

 そこから半年近く、結局は逡巡しゅんじゅんしていた。

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