人生で迷っている人たちの短編集

まさりん

第1話 「星空みたいにシンプルに生きればいいのに」

 一宮海岸はその頃、サーフィンの世界大会が開催されるような有名な海岸だった。その後世界大会が行われたかどうかは知らない。九十九里海岸自体が波に削られ、浜が少なくなった。世界大会が開けるほどの浜などなくなってしまったのかもしれない。そういえば、もともと地形が複雑で砂が流出するのを止める工事をしたけれどムダみたい、と今日みたいに夜の海を眺めながら言ってた女の子がいたな。

 あの頃の僕らは何かといえば海に行った。僕らの故郷だけなのかな。一年中天の河が見えてね。星座の名前がわからない僕には星といえば天の河だよね。あの日も天の河がよく見えていたよ。


 一宮海岸の砂が流出するのを止めるための護岸工事用のコンクリートに腰掛け、ももに肘をついて頬杖をしながら思い出していた。酒で鈍くなった頭を右手で支え、左手には「ワンカップ大関」を持っていた。頭をさらになまくらにする原料を惰性で次々に流し込む。


 左隣には女の子がひとり。この子もたしなむ程度に呑んでいた。適量だったので、足下はふらつき、言葉も不明瞭だった。この子にとってはこの状態がたしなむ程度であり、適量を身体に入れた状態だ。コイツはシホといって、小学校からの親友のカノジョだ。当たり前だが、恋愛対象にはならず、何があっても手を出すまいと誓っている。

 その年の一宮海岸は異常だった。波打ち際が緑青色に光っていた。自ら発光するプランクトンが大量発生していた。その波打ち際に腰を半分沈めて、釣り人が釣りをしていた。なんとも神秘的であった。

 「何を釣ってんだろう」

 「イカじゃない」

 僕が聞くと、シホのさらに向こう側にいるエイジが応えた。エイジは時計屋の息子だが、大旦那といった感じで、時計を作っている割りに細かくなく、鷹揚とした空気をもつ。酔っ払い二人を車で海まで運んだ。ゲコである。

 海に行く、という行為は、この近隣の若者にとって特別な行為ではない。海に行く利点は、なんといっても間がもつ。女の子といくには絶好の場所だ。プランクトンが大量発生してなくとも満点の星空と波の音だけあれば十分である。

 呑むのにもあきた僕は四肢を投げ出して仰臥した。天空には夜空を真っ二つに分けるように天の河が横たわっていた。都会と田舎の夜空の差は視認できる星の数だけではない。暗闇の部分の抜け具合も違う。田舎の夜空には夾雑物が少ない。天の河の無数の星々がきちんと中空に浮いているのだというのがわかるのだ。その中空の闇が人々の想像をかきたて、星座を生み出したのだと、得心できる。本物を見ているとそれが理解できる。星を眺める時間しかないという暇と人々の空想を余すことなく収め込んでしまう闇。そう余白があるからこそ、人々は思いをつめこむのだ。現実逃避なのか酩酊しているのか、なまくら頭脳が空回りする。現に天の河が微かに揺れたり、僕の方に近寄ったり、遠ざかったりしている。

 「釣りなんかいいから聞いてよ」

 と言いながら、シホが寝転がる僕の腹を平手で打った。酒で満たされた腹にはその一撃がことのほか衝撃的で仰向けのまま、くの字に折れ曲がり、「おおぅ」と声が出てしまう。それを聞いて、シホが哄笑する。「カワイソウ」とエイジが言いながら、ウヒヒヒという妙な笑い方をした。僕は痛みとともに、僕の腹を打ったシホの手の小ささに驚いた。

 そのまま左に倒れ込んだ。視界が天の河から星の光に照らされた二人になった。笑いが引いたようでシホが再び話を始めた。ようするにカレシであるわが親友のグチだ。家庭環境や考え方の違い、すれ違い(といっても若者レベルの話で、一日とか二日とか会えない程度の話)があって、結婚までいけるか分らない、という話だった。僕としては聞くに堪えないし、真面目に聞くと一分かからずに解決してしまいそうで怖かった。だって『そういうのは違って当たり前なんだよ。二人で話し合ってルールを決めるか、あきらめてあわせるしかないんだよ』というのが答えでしょう。

 でも女の子の話は我慢して聞くもんだって石田純一が言ってたし、なんかエイジが僕をおさえてそうしたがっていた気がしたので、放っておくしかなくて、一人痛飲していた。

 肘枕で後ろから二人を見ていると、ふらつきながらも、焦点がシホの尻に向かった。シホは夢中でカレシのグチを続けている。

 「分ってるよ。分ってるけど。自分が我慢しなきゃって。ケンちゃんの場合演劇は・・・・・・、うまく言えないけど夢じゃん。それにバイトしなきゃ、一緒に遊びにも行けないでしょ。でもね、でもさ、頭で分ってても、身体がついていかないときってあるでしょ」

 それを言うなら、『理屈じゃ分るけど、感情がついて行かない』だろ、と心のうちで静かにツッコミを入れた。カレシと会わないときにはいつも身体が火照ってるんかい、と思い鼻で笑った。小さな笑い声は波と空の闇に吸い込まれた。

 二人の向こうで緑青色の波は、うねりに刺激されるのか、まるで波自体が生き物で呼吸をするように強く光り、弱く光りを繰り返していた。天の河のしっぽは海に向かって落ち込んでいた。秋になると昼間でも人影がまばらになる。夜中の今は我々だけが海岸にいる。釣り人もあきらめたのか、ポイントを変えたのか、視界から失せた。沖は信じられないくらい穏やかだ。おしいことに、上高地の湖ほど静かではないので、天の河の星々がはっきりとは映っていない。が、淡い白銀に光る帯が沖に向かって伸びていた。

 海はなぜか人を饒舌にさせる。特に女の子に何かを語らせる魔力がある。しかも、本音を語らねばならないような気がするらしい。シホは語りながら泣いた。まるで幼児のように泣きじゃくった。

 延々と続くグチを聞き流すように耳に入れながら、シホの尻を見ていた。楕円の中心が重力に引かれた、洋梨のような尻だった。じっと見ていると劣情をもよおす作用があるのが女の子の尻だった。もちろん僕はシホとはそういう関係にならないと決めているので、劣情はおさえこむのだが、湧き出る物は湧き出る。いたしかたない。我ながらよくおさえていると思う。そういう関係になりそうなタイミングがなかったわけではない。それは親友にはナイショにしている。

 ふと思った。親友はこの尻に劣情を抱くのだろうか。激情型のこのカップルは、つきあってから一年になると思う。途中、冷却期間を置いて、再び交際を開始した。冷却期間中にお互い別の相手とつきあい――シホにそういう相手ができたのが冷却期間突入のきっかけだった――、それでも冷却期間後にお互いに魅かれてつきあったのだ。相性が悪いわけではない。だが熱情がすさまじく、しょっちゅう喧嘩していた。好きだから故に罵り合った。そんな激しい付き合い方をすれば限界などすぐに見えてしまう。ときにはシホはカレシの親友である僕まで嫉視した。二人でいたのに僕を呼んだことに腹を立て、夜空の下でにらみ合っていたこともある。あのときも、すさまじい剣幕の二人と対照的に空には天の河があった。真冬の夜中だ。天の河の周囲には無数の流星が乱れ飛んでいた。僕は本当に手を組んで祈った。心から二人、仲良くなってほしかった。

 今シホは大きな壁に突き当たっていた。二人が交際を続けるには、二人とも変わる必要があった。それも自発的に。それに・・・・・・。残酷だが、親友はこの尻を見て劣情を抱かないような気がした。余白があるから男は想像し欲情するのだ。思いが詰まりすぎた尻にはなんとも思わないのではないだろうか。

 やがてシホは泣き止んだ。それを見計らって僕は身を起こした。帰ろうと二人を促すために。僕が起きるのと入れかわるように、シホはヨレヨレと立ち上がった。

 「どこに行く?」

 「海に入りたい」

 エイジの問いかけに応えた。まるで父娘のような話しぶりだった。

 「酒呑んで入るなよ」

 「足だけだから」

 父とは言えない僕の言い方に、子どものようにシホは応えた。僕はまるで教師だ。

 天の河の白銀の帯に照らされて、黒いシルエットとなったシホがヨロヨロと歩む。その頼りない足取りが、逆に神性のある光りに恍惚とし、忘我の状態で神に身を捧げる若い娘に見えた。

 心許ない足取りで、二歩三歩と進みながら靴を放り投げ、靴下も脱いで足下に放置した。

 『あ、このままシホは・・・・・・』

 と思った刹那、大きく息を吸ったように緑青の波がふくらんで強く光った。

 シホは左に身をよじるようにして、お腹をおさえて、上体を折った。口の辺りから黒い物がボタボタ砂浜に落ちた。

 「うわ、吐きやがった」

 エイジの言葉に状況を飲み込んだ。二人で顔を見合わせたが、エイジは動こうとしなかった。足下にあるワンカップ大関は五本ほど空だった。一本は僕が呑んだ。小一時間でしらないうちに四本の日本酒は呑みすぎだ。娘は神ではなく、バッカスのなり損ないだった。エイジが動かないので仕方なくシホのところへ行き、すわりこむシホの背中をさすった。下着をしていなかった。さらに吐いた。吐き終わると照れ隠しだろう。けたたましく笑った。ただ十秒もしないうちに、再び吐き、吐き終わると立ち上がった。一緒に立ち上がり、「大丈夫か」と声をかけようとすると、言い終わらないうちに僕の胸におでこをつけて泣いた。

 戸惑ってしまった。親友のてまえ、肩に手を回すこともはばかられた。波打ち際の緑青の波、淡い銀色の海は僕の鼓動とは関係なく、ゆっくりとたゆたっていた。星空も静寂を保っている。大きく動揺しているのは僕だけだった。あまりの不器用さを見かねて、エイジがシホを僕から引きはがした。そして、お互いに強く深く抱き合った。あまりに違和感がない抱擁だった。違和感の無さに違和感を抱いた。エイジとシホのカレシは幼なじみと言っていいほどの親密さを持っていた。それでもこういうことができてしまうエイジが驚異だった。二人からは肉の気配を感じた。今そういう関係で無くともいずれは、と予感させた。実にくだらない、と僕は冷めた。

 ただ波は穏やかに緑青に輝き、星は自己の存在を透明な中空に現し続けていた。

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