第五話 「女と泣き出しそうな空と豪徳寺」④

 ほうきを手にしていた。きつめのパーマをかけていた。寺男てらおとこの嫁か、住職の嫁だろう。「またあんたかい! いい加減にしなよ」といきなり怒鳴りつけてきた。


 はじめ僕たちも怒鳴られたかと思った。身が強ばった。シホはほっぺたが引きつっていた。だが、「また」と言われる筋合いがないのにすぐに気づいた。

 怒鳴られた本人は急いで板の下にあった、数個のトランクだけを持って、走り出した。板はずり落ち、その拍子ひょうしに板の上から招き猫が砂利道に転がった。「縁起物なんだろ、いいのかよ」とどこ吹く風のノリスケが言った。その横でおばちゃんが仁王立ちしている。テキ屋は愛想笑いをして、頭をきながら逃げようとする。

 「ねえ、おじちゃん、アタシこれ持ってたら幸せになれるかな」とシホが聞く。

 「なれるとも! それだけカワイイんだから」

 去り際にそれだけ言った。おばちゃんは箒をまた振り上げて、敷地の外まで男を追い立てた。

 僕たちは取り残されて呆然ぼうぜんと立ち尽くし、砂利道に転がる招き猫たちを見ていた。

 「ああ、可哀想に」とシホがしゃがんで拾おうとする。

 「拾ってどうするよ、それ」と僕がしゃがむシホの後頭部に向かって聞く。

 「いいんじゃん。持ってって、別に。置いてったんだし」と答えはあらぬ方から聞こえた。

 「きっとくれるんだよ」

 「馬鹿言うなよ」と僕が言おうとすると、「そうだよね」とシホが先に返事をした。

 そこにおばさんが帰ってきた。

 「まったくもう。あの男、いつもなのよ。勝手に入ってきて、招き猫売って」

 「これ偽物なんですか」

 とシホが聞いた。

 「不思議なんだけどさぁ、本物なのよねえ。別に盗まれたわけでも、これを作ってるところから買ってるわけでもないらしいんだけどね」

 とおばさんは転がってる招き猫を手に取った。

 「あそこに招き猫観音ってあるでしょ。あの脇に、招き猫をお返しするんだけどね、そこから取ったわけでもないみたいなのよ」

 どこから持ってきたんだろうね、あとで片付けるからそのままにしといてね、と言いながらおばさんは作務所へ戻っていった。

 「そのままにしておけ」と言われて、シホはづき、持っていた招き猫を地べたに戻したが、ノリスケはもっていた招き猫をそのままリュックにしまった。それも僕もシホも見ている前で堂々としまった。

 ノリスケとはこういう男だ。

 おそらく一体持って行ったところで、バレないだろうと踏んで盗む。この種の男はこれを合理的と判断する。打算的と言ったほうが正しいのだが、それが分からない。一見すると理にかなっているように見える。

 それを見てシホがどう思ったのか。


 「招き猫観音」と呼ばれる小さなお堂に向かった。豪徳寺自体の常香炉じょうこうろは新しいものだった。この観音様には古く小さな香炉が設えてあった。閑散としている今日だからか、白い灰だけが残り、線香に火が点っていなかった。木造のお堂には本堂と同じ仕掛けの賽銭さいせん箱があって、小窓を開け手を差し入れて、僕はお賽銭を入れた。手を引いてから、手を合わせて黙祷した。

 目を開けると、華奢な手が左から、農作業を三十年してきましたというような無骨な手が右から、僕の視界に伸びてきた。賽銭の要求である。

 無理に誘ったノリスケはともかく、シホはなに調子に乗ってんだ、とムカッときた。仕方なく、二人に百円ずつ渡した。

「なんだよ、しみったれてるな」とノリスケが舌打ちをした。

「本当よね」とシホが調子を合わせた。

 なんだかテキ屋を見てから二人の息が合っている。そのまま二人で豪快に柏手を打った。お寺さんなんだけどね、と呆れた。少々、疎外感そがいかんがあった。

「奥って言ってたよね」

 テキ屋の言うとおり、ノリスケとシホが進む。いつしかシホの手がノリスケの肘に軽く絡んでいた。

 観音様の左奥には、細長く四畳ほどのスペースがあって、白い招き猫が大小様々、所狭しと並べてあった。ここにも一メートル弱の観音様の石像がある。観音様の足下にも手水の石の器の上にも、びっしりと招き猫が置かれていた。観音様の奥には高さ二メートルの四段の棚があり、そこにも招き猫が納められていた。招き猫はすべてテキ屋が売っている物だった。その光景を外国人が写真に撮っていた。

 そういう決まりがあるわけではないだろうが、猫たちは自然と参拝者と正対する向きに置かれていた。四畳のまんなかに立つと、周囲を招き猫の視線に囲まれた。

 ここに立って気づいたが足下の高さに置かれた招き猫と正対すると、全てと目が合った。一般的には招き猫は正面を向いている。つまり、ここの招き猫は井伊公を招いた場面を再現しているのである。

「なんかこの神様、あのテキ屋のおじちゃんに似てるよね」

 観音様を見てシホが言った。自然と二人は手を合わせていた。

 二人は気づかなかったが、無数の招き猫のなかに一匹の白い猫がいて、こちらを招くようにして顔を撫でていた。白い猫の顔の右側には人間のシミのような、

 黒いブチがあった。

 さっきのテキ屋のおじさんかもしれないと僕はなぜか思った。

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