挿話② 「寒い夜にふたりは」 1

 みんながいつも集まるケンジの家の洋間で一人、家人の帰るのを待っていた。夜二十三時を過ぎていた。ケンジはまだ塾講のバイトから帰ってきていない。洋間のまんなかにはガラスのテーブルが置いてあり、周りを囲むようにソファが置いてある。三人掛けのソファは大人の背丈以上の大きな窓に相対している。そのソファに座って、小説を読んでいた。

 髙村薫の『レディ・ジョーカー』を読んでいた。ちょうど事件をやろうと物井のじいさんが決意したところだった。この本は特殊なところがあって、読み始めると本当に止められない。電車のなかで読んでいて、中途半端なところで降りなくてはいけなくなってしまい、電車を降りた後に、ホームのプラスチックのベンチで読み続けたこともあった。

 特に物井のじいさんたちの日常が描かれているところが面白かった。物井のじいさんは一人住まいであり、薬剤師のおばさんが世話をしてくれる。そのおばさんが「素麺そうめんを二束も食べた」、みたいな描写がある。それが無駄なシーンではなく、人物描写を厚くしていた。様々な日常を送っている人々が、週に一回だけ、水道橋の場外馬券場に集まる。その面々が犯罪を決意する。それは単なる欲望に流された犯罪ではなく、差別意識などに裏打ちされた義憤ぎふんに背中を押されて行う犯罪だった。

 洋間の杉の引き戸が勢いよく開いた。

「バカじゃないの、アイツ。死ねよ、本当に」

 引き戸の前に仁王立ちしてシホはそう叫んだ。引き戸の向こうの廊下から流れてくる、真冬の空気が一気に洋間に入り込んだ。

 「寒いよ」

 というと、うるさい、と叫び返された。シホの息はあがっていて、肩が大きく上下している。真冬だっていうのに、額には少し汗が浮かんでいる。

 すぐ右側にあるアップライトのピアノを発見して、「バカじゃないの、バカじゃないの」と連呼しつつ、ピアノの椅子の脚を何度もゲシゲシ蹴り上げた。もちろん、壊れない程度に。

 一応そういうところに配慮していることに苦笑してしまう。自分がこの家でどういう立ち位置にいるのか自覚しているのだ。

 同時に「だからお前はここの家族に嫌われるんだよ」とも内心思った。

 「おい、もうすぐ夜中の十二時だぞ、うるせーし、寒いから、戸を閉めろ」

 少しだけ声音を低くして、僕が言った。

 すると、シホは渋々しぶしぶ扉を閉めた。

 小説は上巻の真ん中くらいだった。ひもしおりを適当にはさんで、分厚い白い装丁そうていの本を閉じた。それをソファの隣に放った。

 シホはすぐ目の前の独り掛けのソファの背もたれに手をついた。

 「どうした」と僕の方から聞くべきなのだろう。たいていの女子はそれを待っている。だが、「どうした」とは聞きたくない。そこから長い、長い、愚痴が始まるのはわかりきっていた。できるだけ愚痴が始まるのは引き延ばしたかった。

 テレビを点けようとリモコンを持った。それがきっかけになったかのように、不意に不思議になった。

 「お前、どうやってここまで来たんだ」

 もう一度大きな窓の上にかかっている丸い時計を見ると、四十分後には零時になろうとしていた。時計を見た後、話しかけたことを後悔した。話が始まってしまう。

 「歩いてきたに決まってるでしょ」

 「駅から?」

 僕は驚き呆れた。駅から僕らが今いるケンジの家まではずいぶん離れている。歩いたら、ゆうに一時間はかかる。

 どうりで額に汗が浮くわけだ。シホは自動車免許を持っていなかった。

 「そりゃ大変だ。どうしてまた・・・・・・」

 そう言ってしまって僕は後悔した。

 「文句言うためよ。どうせアンタここにいるんだろうと思って。なによアイツ、アンタが連れてきた男は」

 「姫、お気に召しませなんだか。きっとお眼鏡にかなう男と存じておりましたが。失礼つかまつりました」

 ふざけて言うと、ひざの上にひじをつき、手の平にあごを載せて、シホは大きく溜め息をついた。

 「『お気に召さない』に決まってるでしょ。ノリスケだっけ。失礼ったらありゃしない」

 お返しとばかりに、わけのわからない口のききかたをした。どんな口調にしたかったのかわからないが、結果は寅さんだった。昼間の啖呵売たんかばいのおじさんの影響だろう。


 僕と二人は豪徳寺で別れた。

 二人は気が合ったみたいで、ホクホク顔でそれぞれ招き猫を脇に抱えて去って行った。二人が持っていった招き猫は、あのおじさんが売っていた招き猫のなかでも最大のものであった。特に身体の小さなシホが持つと、脇に抱えるという表現がぴったりくる大きさだ。ノリスケも大柄な方ではないので、二人が抱えると、寺から盗んできたように見えた。実際盗んできたのだが。

 二人とは豪徳寺の敷地内で別れたのであるが、二人は別れようとして別れていったのではない。もしかすると、僕の方が二人とはぐれていった、いや巻いた、とすら思っていたかもしれない。「おい、おーい」と遠ざかる背中に声をかけたのだが、二人はおしゃべりに夢中でなにも返事がなかった。豪徳寺に置き去りにされたので、仕方がなくスゴスゴと帰ってきた。いや、好都合だと少し思った。面倒な連中と別れられるのだから。

 小田急線で新宿まで移動して、新宿からJRで帰ってきた。駅の雑踏ざっとうのなか、電光掲示板を見ると、路線の行き先は表示されているが、発着時間が表示されていなかった。ホームに続く階段を上って、ホームに出ると、頻りしきりにアナウンスが流れていた。「お客様が線路内に立ち入ったために、一時安全確認のために電車の運行を取りやめておりました。現在、全線運行を再開しておりますが、遅れが出ています」というアナウンスだった。声にいらだちが混じっていた。「痴漢ちかんのくせに。逃げるにしたって、逃げ方があるだろうに。なんで線路に降りるんだ。下手すりゃ感電するぞ、お前。やい痴漢、お前のせいで、クレームしやがる客に殴られることだってあるんだぞ。見てないのか、駅のなかに『暴力するな』ってポスターがいっぱい貼られてるだろう。オレたちが殴られるんだぞ。殴りかかってくるのはだいたい、普通のサラリーマンか、じいさんだよ。分かるか俺たちの気持ちが。勝てる相手に殴られ続けなきゃいけない気持ちが」そういう怒りの気分が全面にあるアナウンスだった。

 怒りが想像できて、なんだか空しい気分になった。痴漢のせいで、どうして僕たちが足止めを食らうのだろうか。怒りというより脱力してしまった。

 電車のなかは異常に混雑していた。

 座れないのはもちろんだが、全く知らない人間と身体を密着させなければいけないというのは非常に緊張を強いる。何を考えているのか、後ろに立った若い女が僕の背中と自分の間にハンドバッグを挟んで立っていた。ハンドバッグの底が非常に堅く、それが腰に食い込んで、異様に痛かった。変に反り返る姿勢を強いられて苦痛だった。

 昔見た光景を思い出していた。こういう非常に混んでいる車内で、密着するのが不愉快だったのか、若い男が老人を蹴り飛ばしていた。老人のことを誰も助けず、若者を取り押さえる者もいなかった。僕もその一人だったが、若い男は前髪を異様に伸ばしていた。前が見えないのではないか、と思うくらい、鼻梁まで前髪で隠れていた。やせっぽちで、挙動不審きょどうふしんだった。こういうやからがナイフを振り回すのだという気持ち悪さが若い男にはあって、関わりたくなかった。自分の住むところにいたら、挨拶あいさつしたくない感じの男だった。ヤンキーとは違う怖さがあった。

 嫌々スナックに連れて行かれたことがある。そこはヤクザが仕切っていた。定期的にヤクザが巡回していた。爽快そうかいなほど、見た目がヤクザだったので、それはすぐに分かった。そいつらの兄貴分なのか、客分なのかは分からないが、ヤクザが僕らの近くで飲んでいた。右手の小指はなかった。

 酔っ払った友人がとんでもないことを聞いた。

 「右手が無くて不便じゃ無いんですか」

 相手のヤクザも、相手が酔っ払いの素人の兄ちゃんだと分かっていたし、虫の居所が良かったのだろう。

 「そんなことねえよ。触ってみるか」

 と言って、触らせてくれた。

 治って間もないのか、それとも逆なのか分からないが、傷口は柔らかかった。「乳首みてえだろ」とヤクザは喩えた。「寂しいとき自分で吸ってんだよ」と言って、下卑げびた感じで低く笑った。

 「これも持ってみるか」

 左手にはめていた金色の時計を手の平に載せてももらった。

 「純金だぞ」

 と自慢した。

 すると友人が、「すごいけど、趣味悪いっすね」ととんでもないことを言った。思わず、僕は友人の頭を張った。

 ヤクザは嬉しそうに哄笑した。

 そのヤクザが言っていた。

「兄ちゃんよ。最近一番怖いのは、お前ら素人だよ。不意打ちってのはな、いくらすごい格闘家でもかわせないんだよ。せいぜい逃げるくらいだよ。素人がな、そんなそぶりも見せずに近寄ってきて、いきなり後ろからブスリ。これが一番怖い。そういうの流行はやってんだろ」

「流行りなんすかねえ」と友人。

「流行りだろうな。もしも爆弾が流行ったら、みんな爆弾をやる。毒物なら、毒物。素人ってのは、殺し方にかたがないだろう。だから流行りに乗っかるんだよ」

「そういうもんすか」と友人。

 逆に、「型があるんだ」と僕は内心怖くなり、背筋が凍った。

「型って、テコンドーみたいな」

「聞くんじゃねえよ」という気持ちを込めて、全力で頭を張った。

 ヤクザは楽しそうにまた笑った。


 昔、電車で見た若い男はヤクザが言っているイメージだった。「いかにもそういうことをしそう」という空気を持っていない、小市民しょうしみんの小せがれといった風情ふぜいだった。見たときに「ああいうのがあぶない」というヤクザの声が頭のなかで流れた。


 自分も後ろの女を蹴っ飛ばしてもいい気がした。その若い男のように、誰にもとがめられずに済むのではないかと思った。自分がどのように見えているのかはわからないが、そのまま気が狂ったふりをすれば大丈夫なんじゃ無いかと。

 新宿から浅草橋までの十数分間、海老反えびぞりのまま耐えた。

 もちろん、蹴りはしないのであるが。

 今手を出せば、自分に理があったって、女の方が勝つのは分かっていた。そんな思いが蛮行ばんこうを思いとどまらせた。

 なんとなくついていない一日になってしまった。

 途中、降りても良かったし、もしかすると線路立ち入りが原因なので、やり過ごせばもっと電車は空くのかもしれないが、その気力も失せてまっすぐ帰ってきた。

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