挿話② 「寒い夜にふたりは」2

 その顛末てんまつをシホに話した。もちろん、「豪徳寺で面倒な二人」云々は言ってない。

 シホはリスのようなほっぺたをわずかにふくらませて、眉根まゆねを寄せて聞いていた。

「アンタの話なんてどうでもいいのよ」

 ――じゃあなんで最後まで聞いてたんだ、と心のなかで反駁はんばくした。反駁した途端とたん、「ああ、愚痴を最後まで聞かせるためね」とトレードオフの関係にするためなのだと気づいた。

「ねえ、アイツ。今日初めて会ったのにさ、いきなりラブホに誘ってきたんだよ。アイツ、なにさ」

 昭和の映画のスケバンみたいな口調でそう言った。いきおい、手をついていた一人掛けの椅子の背もたれによじ登り、背もたれをまたいだ後にソファに座った。青色のパンツが丸出しになった。僕はそれを見て、反射的に顔をしかめてしまう。

「仕方ないんだよ、アイツ、変わったやつなんだよ」

 善悪の区別がないと言えば大げさだが、あまり罪悪感を抱かないタイプなのである。

「気づいたろ、寺の賽銭さいせんを盗もうとしていたの」

「ううん、全然・・・・・・」

「なんだか懸命に祈ってたもんな」

 コクンとうなずく。

「あれ、なにをお願いしてたんだ」

「世界平和」

「ウソつけ」

 そんなタマじゃない。

 ここから話が長丁場になりそうだったので、「なんか呑もうよ」と提案して、僕は立ち上がった。台所につながる扉とシホが入ってきた杉の引き戸とはちょうど反対にあった。

 扉を開けると、台所は真冬の冷気が充満していた。洋間がそれほど密閉されていたとは思わないが、洋間のストーブの暖気が台所には流れていなかった。

 壁に手をわせて、暗がりのなか電灯のスイッチを探した。電気をつけるといつもと変わらない台所が目の前にあった。左手の壁に食器棚があり、そこからLの字にシステムキッチンが続く。ガス台、折れ曲がって洗い場があり、隣に冷蔵庫がある。キッチンのまんなかには家族が食べるためのテーブルがあった。

 きっと酒が何かあるだろうと冷蔵庫に行こうと歩み出して、ちょっと飛び退いた。足下に黒い物体があったからだ。目の錯覚かと思ったら、本当にゴキブリで、冷蔵庫の下に逃げ込んで行った。真冬なのに、と怪訝けげんに思った。

 買ったときには白であったが、長年使用するうちにクリーム色に変色した冷蔵庫の扉を開ける。食材や作り置きの料理が入ったタッパーが詰まっていた。

 おそらく、お父さんやおじいちゃんの晩酌ばんしゃく用の酒が入っていた。これを失敬しよう。

「あたしにも見して」と後ろから言われ、少し驚いた。

「ビールと・・・・・・、ハイボールがあるね。どっち。それとさっきゴキブ・・・・・・」

「ビール」

 聞き終わる前に重ねるように言って、きびすを返すと、そそくさと洋間に戻っていった。

 つまみになりそうなものはなさそうなので、ビールとハイボールの二つのロング缶を持って僕も戻る。

 部屋に戻り、シホに白地に緑のラベルが入った缶を渡す。

 シホはテレビの目の前のソファに座っていた。僕は隣の三人掛けのソファの中央に座った。シホとは少し距離を開けた。

 そういえば、マルスは今夜はやってこない。

 ビールの缶を受け取りざま、シホはプルタブを開けた。

「まあ、まあ、まあ、まあ、とりあえず・・・・・・」

 とビール缶をこちらに差し出す。

「おっさんかい」とツッコミながら、僕は急いで自分のハイボールの缶を開けた。左手に付いた中身を舐めながら、シホの缶と自分の缶を合わせた。

 そのまま二人は勢いよく酒をあおった。

「つまみはいらんだろ」

「うん、いらない」

「ノリスケってな、変わったやつでさ」

「うん」

 僕はソファの上であぐらをかいて、右膝の上に右肘を置いて、頬杖をついた。そのままの姿勢で話し始める。

「なんか、自分の基準ってのがきっちりあるんだ。それはヨソから見ていると善悪の基準がないようにも見える。他人のものと自分のものの区別がないっていうかさ。そういう観念かんねんが薄い」

「観念ってなに」

「あー、感覚くらいで思っとけ」

 シホもテレビ画面を見ているが、内容は入ってないだろう。

「オレらみたいな田舎者もそういうところがあるじゃない。オレたちだって、ケンジがいなくてもこうやって勝手に上がり込んでる」

「ちょっと違うよ。友人の家だし」

「かもな。でもさ、アイツの理屈で言えばさ、お前だって友人の連れてきた女なんだよ。そういうのがなんだかよく分からない男なんだよ。オレたちと違って、東京の出身なんだけどな」

「下町気質ってやつ」

「そりゃ下町に失礼だ。金は返すんだけどね。物とかは返さなかったりする。それで誤解されて、ダチが逃げたりもする。確かにだらしないんだけどさ。悪い奴じゃない。それも物って言ったって、せこいもんだよ。借りたDVD返さないとか、消しゴム返さないとかさ。さすがに女は未知の領域だったな。そうそう借りるときの口癖があってさ、『もらうよ』って言うんだよ。相手はつい『はいよ』って返事しちゃう。そうすると返ってこない。もらったつもりなんだろうな。自分には甘いけど、他人には厳しいって時代だからね。そういうの気になる奴はどっかいっちゃう」

 そうなんだ、と言ってシホはビールをあおる。

「面白いから、ホテルに行っちまえば良かったのに。だいたい怒るっておかしいんだよ、お前が。あんなところまで付き合わせて、挙げ句の果てに置き去りにして。怒りたいのは僕の方だよ」

「さっきから不思議に思ってたんだけど。付いてくると思ってたのに、アンタが勝手にどっか行っちゃったんでしょ」

「ふざけんなよ」と言いながら、僕はシホをくすぐろうと襲いかかった。無論、相手がよけること、その場から逃げ出すことが前提である。ところがシホはあまり逃げなかった。脇を締めて、脇腹や脇の下をくすぐられないように防御しているだけだった。柔らかな二の腕あたりをくすぐると、妙な柔らかさと暖かさが手に伝わってきた。部屋はガスストーブがいてあったけれども、身体のしんまでは温めきれず、どこかに寒さが残っていた。だからだろう。シホの体温にちょっと驚いてしまった。一時間くらい歩いてきたからか、シホの匂いがいつもより濃い気もした。具体的に匂うわけではないが。

 ――あれ、どうしてこんなことしたんだ。

 自分の行為なのに、意外な結果に戸惑ってしまった。

 やめさせようとシホは僕の手をつかみ、もがいた。シホの手は二の腕と違い、冷たかった。このまま先に進んでいく予感がした。

 なんとか回避せねばならない。ここで急にやめるとシホに妙なことを考えたと気取られると変な気を回した。気を回したあとで、シホも同じかもしれない、と思った。

 二人は手を取り合ったまま、じゃれあった。下手なダンスを踊るようだった。しばらく二人で奇妙なダンスを踊った後、二人とも飽きてしまって、自然と手を離し、二人がもともと座っていたところに戻った。

 二人とも息が上がっていて、「はぁ、はぁ」という呼吸音が洋間を満たした。

「なに息上がってんだよ」と照れ隠しで僕がからかった。

「アンタもでしょ」とシホは返してきた。彼女の言葉が照れ隠しであったかどうかはわからない。

 二人して、「はぁ、はぁ」言ってるのを聞いてるのも妙な心地がした。打ち消すためにテレビをつけた。前にテレビを見ていた者が何を見ていたのか分からないが、突然大音量になった。あわてて、音量を絞った。

 しばらく二人はテレビを見ていた。僕にはテレビの内容がまったく頭に入ってこなかった。二人の息が落ち着いたころ、シホが「つまらない」とテレビを切った。もしかするとシホも内容が入ってこなかったのかもしれない。もっとも、つまらないのも事実だが。

 ハイボールを一口飲んだ。

「あの後、寂しかったんだぜ。独りでさ。ひと気のない住宅街歩いてさ。豪徳寺から」

 豪徳寺へは、「豪徳寺駅」から行くよりも、東急世田谷線に乗って、隣の「宮の坂駅」から歩いた方が近い。「宮の坂駅」から豪徳寺までは住宅街であった。閑静な住宅街と言えば聞こえは良いが、妙に閑散かんさんとしているとも感じられた。行きは三人で歩いたからなんとも思わなかったが、帰りは妙に寂しかった。自分が外部の人間であり、この住宅街に住んでいる人からすれば、僕は絶対に不審者ふしんしゃに見えるだろうな、と思った。気温まで少し下がっているように感じた。

「それくらい、なんてことないでしょ。帰るところがあるから、そう感じるんだから」

 ビールを一口呑んで、シホが呟くように言った。

「私たちは来たときとは違う門から帰ったでしょ」

 ガスストーブが燃える音がやけに大きく聞こえた。

 二人しかいない洋間、シホはソファの上で膝を抱えるようにした。その視線は膝頭ひざがしらに向いていた。

「あの後、行きと違う道に行っちゃったから、迷っちゃって。どのくらいだろう・・・・・・。きっと一時間くらいかな、歩いててね。でも話は面白かったから別に長いとは感じなかった。でもね、もういい加減不安になるじゃない」

 ビールをあおる。

「ここどこなんだろう。スマホで調べようよ、ってことになったの。ちょっと疲れたから休憩しようって。喫茶店を探したのね。でもそんなのなかったの。そしたら、でかい電光掲示板が見えてさ。それがラブホの看板だったの。「ホテル・ドン」だって。なんの「ドン」よねえ。そしたらアイツ、『ここで休憩しようよ』って言いだして。見て、強引に引っ張るから怪我しちゃった」

 手首の内側を僕に見せた。皮が少しめくれていた。

「訴えるか? 勝てるぞ」

「友達でしょ」

 僕は笑ってしまった。

「前から不思議に思ってたんだけど、お前って、それが目的だったんじゃないの。いろんな男連れていくじゃない。なぜか、僕もお供に加わってんだけど。他の男に鞍替えしたいからじゃないの」

「バカ言ってんじゃないの。だったらアンタなんて連れて行くわけないでしょ。わざわざケンちゃんに密告するに違いない相手連れて。陰でこっそりやるわ」

 確かにそうだ。どうして自分を連れて行くのか不思議だった。シホの言うとおりで実際、陰でこっそりやればいいのに、と思ってた。

「もしかして、ケンジに嫉妬しっとさせるのが目的」

「まさか。自分でももうわからなくなってきてはいる。ケンちゃんに変わって欲しいとは思ってる。仕事止めてから元気ないから。でも・・・・・・」

「他の男使ってそんなことしようって、どういう料簡りょうけんなんだよ」

「うん、今言おうとしてたんだけど」

「やっぱり巡り巡って、ただの男好きなんじゃないの」

 どうしてよ、と言って、シホはビールを目の前のテーブルに置き、彼女が座っていた独り掛けのソファから、こちらの三人掛けのソファに飛び移った。満面の笑みだった。

「おいやめろよ」と叫びながら、手に持っていたハイボールの缶を急いでテーブルに置いた。シホは制止を無視して、僕の脇の下やら脇腹をくすぐってきた。

 さっきの妙な感覚が戻ってくる。

 下半身に血が凝集してくるのが分かる。

 やり返すふりをしてシホの乳房近くを手で触れてみる。

 顔は笑っているし、じゃれ合いではあるが、いやこれで勘違いしてはいけない。

 いや、と言いながらシホが身体を僕に預けてきた。

 いかん、と思いながら、シホが背中に手を回すのに抵抗できない。

 シホと僕の目が合った。視線が潤んでいて、熱い。

 笑顔は消え、目だけが情熱的になった。

 だめ、という自分の意思と反して、状況は悪化していく。

 そのとき引き戸が開いた。

 抱き合いながら、二人は驚きのまなざしをでケンジを見た。

 ケンジの方が二人より驚いていた。

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人生で迷っている人たちの短編集 まさりん @masarin

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