第四話 「会社を辞めた日のこと」~ Revolution 9⑤

 ただ、寝たおかげでだいぶ体調は回復していた。鼻と喉の辺りに風邪の気配が少し残っているだけだった。「ナンバーナイン」のリピートは収まった。

 無性に広い場所を歩きたくなった。

 次の上野駅で降りた。

 公園口の改札を出て、上野公園内には入らず、外周を歩いた。ガードレールに沿って歩く。右手の遙か向こうに、鉄道科で有名な岩倉高校が見える。正面にはスカイツリーが見える。左手に売店、「日本学士院会館」の建物が見え、沿うように左に曲がる。左に朱色のロケットランチャーが見える。道を挟んで、右肩には輪王りんおう寺がある。東京藝大へと続くその道を歩く。

 また貧血になりそうな気がしたので、少しゆっくりと歩く。周りからはとぼとぼ歩いているように見えただろう。身体には力が入らない。自分の中身が空っぽになってしまったようだ。

 ケンジは公園の外周を歩く。まるで何かに引っ張られているようだった。抗う余力はない。

 広い歩道にはブルーシートのテントが点々と張られている。三つ目のテントの脇に座るホームレスがケンジを手招いている。その男はもうすぐ夏だというのに、とても服を重ね着している。あまり食事をしていないので寒いのだろうか。手招いている手には手袋までしている。頭には元がどんな色かわからないニット帽を被っている。髭は伸びっぱなしだ。年齢がいくつなのか分からない。なぜかとても老けて見える。

 さして歩いていないのに、息があがって、疲労困憊こんぱいになってしまったケンジには、『座る』魅力に抗しきれなかった。男の横にドスンと崩れ落ちるように腰を落とした。男は「おおう」と驚いて、身を捩ってケンジの尻から逃げた。

 ケンジは座った途端にすさまじい臭いに鼻をやられた。

「どうしたね」男はニコニコして聞いた。

「実は、今日仕事を辞めてしまいまして・・・・・・」

 今日の顛末てんまつを話した。

 課長がつれなかったこと、気持ち悪くなったこと、薬屋やユニクロで親切にしてもらったこと・・・・・・、ホームレスの男は、ニコニコしながら聞いていた。決してケンジの話をさえぎることはなく、「ふぉっふぉっふぉっ」と、髭の間から少なくなった歯を見せながら笑った。笑う度に呼気に乗って、ヤニの臭いがしたのはたまらなかった。

「たぶん、会社を辞めて混乱してるんだろうな。自分でやってみて、初めて事の大きさを悟った。悟ったが、その大きさにまた混乱して。癒えるまで少し時間がかかるかもしれないなあ。どんなに辛いことでも、時間がきっと解決してくれるよ」

「このまま、ここに居ようかな。やっぱり楽ですか」

「あのな、自暴自棄じぼうじきになるほどのことではないぞ、そんなこと。ここに居る連中はもっと違う理由で居るんだよ」

「違う理由?」

「そうじゃ。世の中に適応できない連中なんじゃ。お前さんの場合、会社がちょっとアレなのが辞めた理由だろ」

「アレ?」

「そう、イカレとったんだろ。じゃあ、イカレてない会社を探せばよい。混乱しているときっていうのは問題がそこにもかしこにもあるように錯覚するもんだ。実際には冷静になれば、問題というのはそう多くない。それを解決すれば良いのだよ」

「はあ。できるかな」

「案ずるより産むが易し、Like a rolling stone、怪我の功名、好きなの選べ。とにかく動くことだ」

「はあ。おじさんも適応できないの」

 男は「ふぉっふぉっふぉっ」と笑うだけでそれ以上は答えなかった。

 そして、傍らのバッグを漁りだした。

 気づけば、霧のように少しだけ降っていた雨も上がった。鼠色の曇り空は夜の手前の濃い紺色になっていた。

 男がバッグから大事そうに取り出したのは、猫であった。ケンジは猫を飼ったことはなく詳しくないが、その猫は生後ひと月くらいだろうと推測した。

 両手で慎重にその子を受け取った。

「みー、みー」としきりに鳴いていた。茶トラの猫でまだ目が開いて間もなく、かろうじて見えているだろうか。黒目がちで濡れていた。ケンジの顔を見て、何かをしきりに訴えていた。きっと誰かが世話をしなければ死んでしまうのだろう。そんなか弱さがあった。

 男は湿気しけモクに火を点けた。視線は正面の巨大な鯨のレプリカにある。鯨は海に飛び込むようだった。

「そいつがいる限り、変なことはできないだろ」

「はい」

「さっきは何かを求めて歩いているように見えた。

 けどな、人間、行くべき場所も行ける場所も限られているもんだよ。ましてや、そんな場所、あの世にはない。あのままだったら、あの世に行ってたんじゃないか。

 自分の居る場所で踏ん張るしかないじゃないか。

 せっかく自分で変わる決心をしたんだから、死ぬことはないよ」

 男は横目でケンジを見る。ケンジはニコと笑った。

 のちにその男の妙な説得力にやられたと言っていた。

「その子を育てなさい。やるべきことがあれば、おのずとそこが居場所になる。まずはそこからはじめなさい」

 心を鷲掴みにされ、痛みで涙が滲んだ。左手で子猫、右手で涙を拭った。

 猫は指を舐めている。

「頑張りなさいよ」と男はケンジの肩を強く叩いた。

 その反動でケンジは立ち上がり、一礼して立ち去った。

 たどってきた道を歩く途中、男の名前すら聞いていないことに気づいた。そして「学士院会館」までやってきて、また元の道を戻った。

 男が道を横断し、寛永寺両太子堂かんえいじりょうたいしどうに入っていくのが見えた。

 

――了――

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