第四話 「会社を辞めた日のこと」~ Revolution 9④
貧血が少し収まった。ふらつきは少し緩和された。
だが、頭のなかで「ナンバーナイン」の声は続いている。
全身が梅雨の
道路にひっくり返っていた傘を拾った。
このままだとさすがに風邪を引くと思った。
やがて駅の前にあるロータリーに差し掛かった。老人のようにゆっくりと歩いていたからか、やたら時間がかかった気がした。時間がかかったせいで、濡れそぼった身体はすっかり冷え切って、少し前から首や肩に
ロータリーの上空には巨大な歩道橋が架かっていた。歩道橋を使うとロータリーをぐるりと回らなくても、JRの駅舎と、私鉄の駅とデパートを兼ねた建物にまっすぐ行ける。歩道橋の下に緑色の車体のタクシーが何台も停まっていた。平日の昼前にタクシーを使う人間はそれほどいないのだろうか。元々雨雲が空にかかっていて、薄暗いのに、歩道橋の下はさらに暗くなっていた。タクシーはまるで葉っぱの下で雨を避けるバッタのように見えた。
体調が悪いのに、妙なことを考えるもんだと、自分で自分に苦笑いした。
ケンジはロータリーを端から端まで眺めた。
薬を買って飲まないと、家までたどり着けないと思った。家までは電車で一時間以上かかる。
ロータリーを囲むように、中華料理のチェーン店、バーガーショップ、不動産屋、パチンコ店が見えた。
パチンコ屋の前にロータリから伸びる細い路地があって、パチンコ屋の斜向かいに、白地に赤い文字で「薬」と書かれた看板が見えた。看板は電光掲示板のように見えて、電気は入っていなかった。
ケンジはなるべく身体を揺らさないように、「薬」の文字に向かってゆっくりと歩いた。今、何かに躓きそうになっても、身体を支えられる自信がなかった。貧血は治っていない自覚はあった。動悸と息切れが激しかった。
その薬屋は二間くらいの間口の小さな店だった。入っていくと、棚に洗剤などが無数に並び、黄色い紙に手書きで数字が書かれた値札が貼られていた。ケンジがゆっくり通ると、煽られて黄色い値札が浮き上がった。
奥にガラスのショーケース兼カウンターがあった。カウンターには眼鏡をかけた五十代の上品な女性が、緑色の白衣? を着て立っていた。
おそらく昔からある薬屋さんで、オーナーの奥さんが店長を兼ねているといった
カウンターに軽く手をつき、「すいません、薬をください」と言ったつもりが、かすれてきちんと言葉にならなかった。店長さんは、その声になっていない声で調子が悪いのだ、と事情を察してくれた。
丸椅子を奥から出して、カウンターの前に置き、ケンジを座らせた。
調子の悪いケンジの額に手を当てたり、「風邪? 持病は?」と病状を聞き出したりした。ケンジはただうなずいたり、首を横に振るだけだった。それだけで、病状を把握してくれた。
カウンターの隣にある、縦に長いガラスケースのなかから小瓶を取り出した。
「とりあえず、風邪薬とね、こっちは
と三種類のドリンク剤を置いた。
「でも、本当はインフルエンザかもしれないから、きちんとお医者さんに診てもらったほうがいいのよ」
と母親のような口調でたしなめてくれた。
ケンジは頷かなかった。
「なんか、病院に行くとすげえ待たされるじゃん。待ってる余力がなかったし、やっぱ調子悪いときって、『きっと大丈夫』って思いたがるよね」
「いや冷静に判断できないくらい調子が悪かったんだろう。
――危ねえな」
ケンジは苦笑した。
気を遣ってくれた奥さんにお礼を言って、薬を購入した。
それを一本ずつ、その場で飲み干した。
「あと、貧血が気になる。長く続くようだったら、絶対にお医者さんに行ってね」
と約束させられた。
人と話したからか、薬のせいか、「ナンバーナイン」のリピートは止まった。
薬を飲んで休んだら、多少身体が楽になった気がした。
ロータリーに戻り、ゆっくりと歩道橋を上がった。やはり動悸は激しかった。
歩道橋を登ってしまえば、ロータリーのどの方向へも苦もなく移動できた。身体を引きずるように移動すると、幾多の人がすれ違っていった。平日の昼間でサラリーマン、OLが多かったが、同時にこんな時間帯なのにカップルも多かった。予報が外れて雨が降ったからか、傘を持っていない人もいた。色とりどりの傘は咲きかけのあじさいのようだった。ロータリーから続く、スーパーに入った。スーパーには「ユニクロ」の看板が掛かっていた。
足が非常に重かった。
やたらと就活生が多かった。エスカレーターに乗ると、前の女子大生は黒地のリクルートスーツなのに、トパーズのような黄色のパンプスを履いていた。エスカレーターの脇にはトイレがあり、その脇で平気でパンを食べる男子大学生もいた。他にも多くの人がいたが、頭が鈍く、それだけしか認識できなかった。頭のなかで再び「ナンバーナイン」のリピートが始まった。
ユニクロはスーパーのフロアの半分を占めていた。そこに入って、深緑の綿のシャツとジーンズ、パーカー、そしてタオルを買った。濡れそぼるケンジを見て、女性の店員は心配して、「試着室で着替えますか」と聞いてくれた。
哀れみをかけられたようで恥ずかしくなり、その申し出を断ってしまった。
会計を済ませると逃げるように店を後にした。
さっきトイレがあったことを思いだした。パンを食べる大学生のいたトイレだ。
トイレの前にはもう大学生はいなかった。
個室に入り着替えを済ませた。
外に出ると、用を足していないのに手を洗いたくなった。
手を洗いながら自分の姿を鏡で見た。
たった数時間で、げっそり頬のこけた男がそこにはいた。整髪料は雨で流れてしまい、妙な髪型になっていた。これでは薬局の奥さんに心配されてもしかたがないと思った。
スーパーは駅の改札へ繋がっていた。着替えを済ませてトイレから出ると、そのすぐ脇が改札だった。とにかくこの地から逃れるために、自動改札へと向かった。改札機にICカードでタッチするすんでに、アナウンスに気づいた。
「――ただいま・・・・・・線は線路内に人が立ち入ったために、運転を見合わせており・・・・・・」
改札奥にある電光掲示板を見ると同様の内容が書かれていた。
改札からおばさんが二人歩いてきた。「いやぁねぇ、大学生かもしれないって。リクルートスーツ? 着てたんだって。なにもこんなコトしなくたって」と話していた。
あのパンを食べていた大学生だと直感した。
ああ、死んでしまったか。苦しかったか。
「死にたくなるくらい辛いんだよ。バカヤロウ」とケンジはおばさんに反抗して独りごちた。
お前はどうする。
ケンジは自分の胸に聞いた。
死にたくはなかった。
生き抜いてやる、と力強くいえるだけの体力は今の自分にはないけれども。
逃げ延びてやる。せめて、逃げ延びてやる。
そう思ったそうだ。
私鉄を
目が覚めると、ちょうど御徒町を出るところであった。一駅乗り過ごしていた。
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