第2話 「雑踏」2
そこへ異様な身なりの男が通りかかった。手押し車を押している男、というよりはじいさんは六十代ぐらいに見えた。紺色のジャンパーで黒いニット帽、ジャージという姿である。妙に着ぶくれしている。手押し車には簡単な家財道具が載っている。じいさんが手押し車を押しながら、ゆっくりと歩くたびに人々の流れが割れた。まるで油と水のように。よりによってどうしてこんなところを通ろうと思ったのか。じいさんは頭上のオーナメントを見て、視線を下ろすとそこには僕がいて、にっこりと笑いかける。すき間の多い歯が見え、垢とほこりで黒く厚くなった皮膚が、ひび割れたかのように、顔全体にシワが走った。ほんの一瞬戸惑ったが、僕も笑顔を返した。苦笑いになってしまったかもしれない。
前を行く二人はじいさんなど眼中にないといった感じで手押し車の脇を抜けてゆく。
やがて
左手にある交番の前で募金と署名活動を行っていた。患者会の、たぶん患者の母親が拡声器を使って募金と署名を呼びかけていた。最前列には患者が車椅子に座っている。頭には白いヘッドギアをつけていた。寒いなか、こんなところにいて身体にさわらないか、と思った。比較的軽症の患者が自主的に参加したのかなと思った。
しばらく彼に釘付けになってしまった。初めは筋ジストロフィーかと思ったが、本当にそうだったかはわからない。わからないままスクランブル交差点の信号が青になり、前の二人に引きずられて歩き出した。自分が日本人だなと思う瞬間だ。本当は署名も募金もしたいのだけど、気恥ずかしさに負けてできなかった。前を行く二人には、必死に声を枯らして叫ぶ声も聞こえず、ヘッドギアをつけた姿も目に入らないようだった。交番前に行き交う人々も大抵は無関心で、なかにはその存在に気づくものもいたが邪魔そうにした。舌打ちするものもいた。自分もそういう人々の一人になってしまったと思い、一瞬後ろめたくなった。こめかみが痛くなった。
交番からまっすぐ、不二家のレストランの前に向かってスクランブル交差点を渡る。向かってくる人々をかわすようにして僕たち三人は歩く。どんなに歩きづらくても二人の絡み合いがほどけることはない。ただ都会を歩きなれていないようで、呆気にとられてきょろきょろしていて、会話が弾むというところまでは至っていなかった。必死に歩くだけだ。ナカムラが僕に道を尋ねた。頭痛をこらえながら教えてあげた。
スクランブル交差点では人々が無秩序に交差する。僕たちの前には白い大きなトランクを引いていく女性が進んでいく。僕と前の二人の間に入り込むように、大学生くらいの男二人が歩いてゆく。大学生とすれ違いに、親子連れが歩いてくる。母親の両手には息子二人がぶら下がっている。前の二人に追いつこうと小走りになる。
スクランブル交差点を渡り終え、五十%引きのセール看板が出ているGAPを過ぎるころには、行き交う人々の列が安定する。右手を駅の方へ向かう人々がすれ違ってゆく。定期的に右手を、中国語を話す人が歩いてゆく。なぜか皆大声でわめいているように感じる。前を行く二人はディオールやアルマーニなどの高級店の電飾に見とれている。
車道にはひっきりなしに車が往来している。やがて三越の巨館が見えてくる。交差点近くには『キリストを呼び求める人は救われる』と書かれた黄色い看板をもった男がいた。録音された宗教勧誘のメッセージが流れていた。目が合うとなぜか睨まれた。
前を行く二人が、二人の前をゆっくり歩く男を追い抜く。おそらく百六十五センチくらいの小柄な男だった。足取りが心許ない。二人に続き追い抜くときに横顔を盗み見た。なにか魂が抜け出たような脱力しきった青ざめた顔をしていた。黒いトレンチコートすら重荷であるように、肩を落としきって歩いていた。ギリギリの状態で働いているのだろう。その事実から目を背けようとしても分ってしまう。前の二人は関心を示さないがきっと幸福な人間には見えないものがあるのだろう。
中央通りに出ると、通りの並木や植え込みにまで電飾が施されるようになる。行き交う人々の表情も変化する。五十くらいの夫婦が今日は特別といった感じで手を『恋人つなぎ』している。なぜかこの通りに来ると、ビジネスマンというより遊びに来たというカジュアルな格好の人が増える。
やがて僕たちの短い旅の目的地の前に到着した。
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