第3話 冬の動物園。

 JR上野駅公園改札口を出て、前の横断歩道を渡る。平日の昼前は、割と空いている。午後になれば、人が増えてくるだろう。


 右手に西洋美術館、左手に東京文化会館を眺めながら、大路を進む。人がだんだん増えてくる。大路の正面には上野動物園のエントランスが見える。目が痛いほどの青空が広がっている。


 二〇一五年正月、関東地方は大寒波に見舞われた。その強烈な寒さが今日は弛んでいる。一月中旬なのに、三月中旬の気温だという予想が出ていた。見上げると、雲一つ無い穏やかな日だ。ただ、僕の口から出るため息が雲にならなければ、の話だ。


 やがて上野動物園の表門の近くにたどり着く。いや広場ではなく、ここは大路と大路が交差する場所である。近くにはペルーの民族衣装を着た集団が、動物園を正面にして広い交差点の左奥、小松宮像の前で演奏をしている。右手には同じペルーの民族衣装を着ているが、ケーナをソロで吹いている男がいる。人が少ないというのに、賑やかに演奏している。集団で演奏している人々は都内の至る所で見る楽団だ。


 ソロで吹いている方が、人気があるのかもしれない。数人の小学生が一生懸命はやし立てている。曲調とは関係なく、イエイとか奇声を上げている。ソロの方が小学生に合わせて身振りを大きく、踊るようにケーナを吹いている。小学生に混じって、今日これから行動を共にするはずの二人がいた。小学生と一緒に拍手したり、歓声を上げたりしていた。自分が小学生レベルだと喧伝しているようで、見ている僕の方が恥ずかしくなった。


 僕が近寄ると小学生が自分のクラスとおぼしき集団の方へと戻っていった。近くの小学校の社会科見学だろうか。


 僕は二人の手を引いて、動物園の正門の方へ歩いて行った。「えー、楽しかったのに」とシホが言い、チエが「あの子たちがかわいそう」と言った。二人で僕を責めているようだ。きっと恐ろしい形相で近寄ってしまったのだろう。僕は『バカな女を連れて歩く身にもなれ』という本音を隠し、わざとさらに強く手を引いた。


 正門前には大勢の客を並ばせるためにポールを立て、その間に白い綱が張ってあった。その手前に黄色い帽子を被った小学生が右手に、左手には高校生が整列していた。どちらもひとクラスといった人数だろう。高校生は揃いの青いスクールバッグを持っている。


 彼らを追い越すように僕は券売所へ向かおうとした。「ちょっと待って」シホは僕が強く握る手をふりほどき、チエのことも自由にした。二人で互いの身をかばい合うように抱き合っている。なんで好きでもない女と動物園に来たのかという後悔が今更こみあげてきた。




 昨日の夜、シホから電話があった。

 よりによって、自宅の電話にかけやがって。とりついだ父親がニヤニヤしながら受話器を手渡した。開口一番、いやなことを言った。


「ちょっと明日顔貸してくれる?」


 殺されるのかな、と思った。そんな空気を彼女は持っている。取り巻きだって、どんな連中がいるのかしれやしない。


「断ってもいいのかな」


「答えわかってて、言ってんでしょ」


「わかりません」


「嘘つけ」


「ご用件は」と用向きを尋ねた。


 聞けばくだらない話だ。シホはとある飲食店で働いている。そこでは休憩の時間にお菓子を差し入れるのだそうだ。それを、女子スタッフだけでなく、男子スタッフ、社員なども食べる。もちろん、それは当番制で、菓子代も経費で出る。それで出したいお菓子が上野にあるのだそうだ。


「ところで、どうして実家の電話番号をご存じで」


「ケンちゃんに聞いたに決まってんでしょ」


 ――あのやろう。


「上野のどこにそのお菓子屋はあるんで、ボス」


「なに『ボス』って、バカにしてんの。知るわけないでしょ」


 ――はい・・・・・・。二の句も継げない。どうしてキレられてるのだろう。


 親父が聞き耳を立てている気がして、妙な話し方になっているのである。


 この時点で、明日振り回される覚悟を決めた。パシリではない。若い頃から、ケンジの家には厄介になっている。そんなものを要求されたことはないが、タイミングがあれば、ご恩返しくらいしたい。だが、どこに売っているのか分らない買い物は御免被りたい。


「はは、面白い話ですね。じゃあ、これで」


「待て待て。バカバカ。なに切ろうとしてんのよ。違うの。見ればすぐ分るの。すっごい変でカワイイの。ねえ、お願い」


 好きでもない女のカワイイおねだりに屈するほど甘かねえよ、と思っていると、「女の子呼ぶから」とトドメを刺してきた。


「またあ、旦那、いつもの子でしょう?」


「それは行くって言わないと教えない。行く?」


「・・・・・・行く」


「チエ」


 やっぱりだ。言わなかったが、『ならやだよ』と本音では思った。チエはいつもバカ騒ぎをしている連中の一人で、まったく希少価値がなかった。


「明日は病院行く日だった」とか、のらりくらり通用しない言い訳をしてかわそうとした。結局押し切られた。




 券売所に向かおうと三人で歩いていた。「あれ? 『桜木亭』?」とつぶやきながら、シホは左の方をじっと見ていた。「あー、あれかも」と駆けだした。だが、足下を見ておらず、入場客整理用の白い綱に引っかかってつんのめった。ちょうど鉄棒で前回りをする要領だった。コンクリートに手を突いて止まった。逆立ちをするような形で、宙空に足を上げていた。寒いのにミニスカートをはいていたため、中身が丸見えになった。


 僕とチエは呆然としていた。あまりにも一瞬で支えようもなかった。集合していた高校生はどよめき、小学生は手を叩いて笑った。ペタリと地面にへたり込んだシホの顔は、羞恥と血が上ったので顔が赤黒くなっていた。チエと僕の二人で助け起こして、三人で逃げるように『桜木亭』に走って行った。


 『桜木亭』は昔ながらの売店、駄菓子屋といった風情だった。店の前に商品棚を置いていた。


「あれ、これかな」


 シホは棚に駆け寄った。先ほどの羞恥シーンはすでに忘れているようだった。棚には黄色い紙袋がたくさん並んでいた。紙袋の表にはパンダが二頭描いてあり、パンダは人形焼きを食べている。後ろから伸びる赤い幟に「桜木亭のパンダ焼き」と書かれていた。絵柄が昭和時代を感じさせた。


 「買ってもいい」とシホは上目遣いで聞いてきた。自分で買うなら許可はいらない。「買ってくれ」ということだろう。返事をしないうちに、出てきた少しだけぽっちゃりしたお姉さんに六個入りを求め、お金を払った。品物はシホがしっかり受け取った。僕とお姉さんがおつりのやりとりをしていると、シホはさっさと紙袋を開けた。チエと二人で中をのぞき込み、人形焼きを取り出していた。お姉さんはその様子に気づき、僕と二人はちょっと気まずくなった。ホント小学生かよ。


 二人に気づくと、人形焼きを包むビニールの開封に取りかかっていた。邪魔になった紙袋を僕によこした。「あ、これだ」と言って二人は嬉しそうに頬張った。僕も受け取った紙袋から一つ取り出した。見た目は不細工なパンダだ。目は垂れ目で、顔は肩にめり込んでいて、へそには桜の花がついていた。一つ横からつまんで口に放り込む。味は普通の人形焼きだ。ゆるキャラといった風貌は女性に人気が出そうだ。

 二人は満足げな表情で、自腹を切って三袋ずつ購入した。


「ねえシホちゃん、どうする。帰る」とチエが聞く。


 お目当てのものが手に入り、ここには用はない。同じことを僕も考えた。


「ううん、動物園にも行く」


 行くにせよ、帰るにせよ、僕の意思は誰も確認しない。石のようなものだ。


「新たなブームを開拓するために」


 新しいお菓子を探すために、どうして動物園に行きたいのか、いまいち分からなかった。


 むろん、入場料を払うのは僕だった。




 正面のエントランスに入ると、すぐ前に園内の案内図が入っているラックがあった。各々が手に取った。シホの掌は華奢で、チエは丸っこい手をしていることに気づいた。チエは視られたことに気づき、急いで引っ込めた。


 一番小柄なシホが仕切り、園内の遊覧手順を決めた。シホが言うには、園内にもお菓子が売っていて、カワイイものもあるのだそうだ。「今度のブームはカナじゃなく、アタシが起こすの」高らかに野望を宣誓したが、意味が分からない。「カナが人形焼きを持ってきたとき悔しそうだったもんね」とチエがおっとりした口調で言うと、シホはこくりとうなずいた。「天下取ったる」と関西芸人みたいなことを言った。僕にはこのあたりの感覚がよく分からない。




 さっき、『桜木亭』の前で同じようなやり取りをしていたのを思い出した。パンダ焼きを売ってくれたお姉さんがそれに聞き耳を立てていて、不思議そうな顔をしていた。




 「ずいぶん多いね」とチエがパンフを見て言った。同じくパンフを見ながらシホが「こういうのは優先順位をつけた方が良い」と真面目くさって言った。三人を追い越すように先ほどの小学生と高校生の集団が園内に散って行く。よく考えればあんな醜態をさらしておいてここに入れるシホの気持ちが知れない。


 「パンダは今見るとして、鳥はショートカット。ライオン、トラ、ゴリラと回って、それから熊ちゃんたちを見て、ゾウ、ニホンザルで売店ね・・・・・・」とシホが決めていく。園内の図は上野駅を下に、不忍池方面を左上に配置している。これを反時計回りに回るとシホが言うコースになる。


 僕は猛禽類もうきんるいが見たかったので、「ワシとか見たいでしょ。ほらフクロウとかさ。ハリポタだよ」とご注進に及んだが、誰も聞いてくれなかった。


 エントランスのすぐ左脇にパンダのケージがあって、二人はそこに歩いていった。傷心のまま僕もついて行った。ケージは屋内と屋外の遊戯施設があり、屋内に一頭いて、だらしなく下半身を投げ出して座り、笹を食べていた。だらしのないおじさんのような身体だった。なんとも言えない愛嬌だった。見に来た客は「パンダだぁ」という当たり前の感想を言って興奮していた。シホとチエも「パンダぁ、パンダぁ」と歓声をあげていた。皆スマホで写真を撮りまくっていた。外の遊技場にも一頭いて、木で組まれた運動具の上で笹を食べていた。ケージの前にはやはり人がたくさんいて、その横でテレビ撮影をしていた。女子アナが少し離れたところから、「あーいましたぁ」と言いながらケージに近づくという動作を二回行い、後ろからその女子アナを撮るというシーンを二度撮った。三〇代とおぼしき女性ディレクターは撮り終わると、「すいませんでした」と女子アナにあやまっていた。女子アナは明らかに不機嫌だった。


 我々の後ろで小学生が「パンダ見ないの」、「見ない。どうでもいい」とひねくれた会話をしていた。




 パンダに興奮する二人を引きはがして、次の場所に向かった。ライオンと虎のケージに向かう途中、二体のパンダが寄り添う像があり、募金を集めていた。その脇では記念写真を撮れるコーナーがあった。


 ライオンのケージにはメスしかいないようだった。気づくと小学生や高校生は園内の各所に散ったらしく、密度が低くなったぶん、親子連れが目につくようになった。子どもはみんな五歳以下だった。ライオンはやはり食後なのか動きが緩慢だった。ライオンのケージから右に回るとトラのゾーンに入る。トラの生息域を表現したかったのか、孟宗竹もうそうちくが周囲に植えてあった。なかでトラはせわしく歩き回っている。まるで何かに苛立っているかのようだった。大きなケージをぐるりと回る。岩のようなデザインの屋根があり、トラの生態についての展示があった。スイッチを押すと、甘えるトラ、などさまざまな状況の鳴き声が流れた。三歳くらいの子どもが次々にスイッチを押して遊んでいた。いろいろな鳴き声が聞きたいのではなくて、スイッチを押したいようだった。


 近くのガラスをトラが通過した。直接こちらを睨むことはないが威嚇しているのは間違いない。見ていて切なくなった。


 さらに園の奥にあるゴリラのケージを回って、休憩所で一休みした。「藤棚休憩所」と呼ばれるここは、もちろん藤の花などは咲いていない。シホはトイレに行った。オレとチエは三人掛けの木製のベンチの端と端に腰掛けた。チエは左足を右足に組んだ。ちょうど僕からは艶めかしい足が見えている。


 あまり見過ぎてはいけないと、目線を逸らした。自宅から弁当を持ってきたという家族がそれを木製のテーブルに広げ、午餐ひるめしを始めている。二、三歳の男の子が席と席の間にいるハトを見つけ、大興奮している。


 チエと僕はその光景を眺めながら話し始めた。こうして二人きりでゆっくり話したことはないかもしれない。


「大変だね。無理矢理付き合わされてるんだろ」


「そんなことないよ。楽しいしね」


「アイツに合わせるのも、ね」


「確かにシホには幸福の形がハッキリ見えてるから。そうじゃないのがストレスなんだよ。私たち、どっか似てると思う」


 たぶん、チエにもはっきり見えているんだろう。


「そういえばさ、さっきのカナがどうのこうのって、なに」


「ああ、カナが人形焼き持ってきたヤツね。バイトの差し入れの話は知っているでしょ」


 僕はうなずく。


「なんか、カナとシホの意地の張り合いみたいになっててさ。始めにカナが人形焼きを持ってきたら、それが男どもとか、社員さんはともかく、他の女子にも受けちゃってね。


 女の子ってそういうところがあるんだよ。負けたくないって気持ちが、ある意味男より強いの。特に自分とレベルが一緒だと思ってた女の子に負けるのは本当にいやなの。


 シホはそういうことしないけど、カナは露骨に陰口たたいたり、足引っ張ってでもシホに勝ちたいみたいなの。放っておけば良いんだけど、シホもバトルモードに入っちゃって、足は引っ張らないけど、真っ向勝負の部分では負けたくないんだって」


「お菓子が真っ向勝負」


「あんたモテないでしょ。女の子のそういうところを批判しちゃうのはやめといた方がいい」


『ケッ、チエのくせに』と言おうと思ったが、モテたかったので止めた。


 やがて、シホが帰ってきた。再び三人は歩き始める。


 シホの家庭ほどひどくないが、チエの家庭も父親が早く死んでいると聞いたことがある。大きな人生の岐路で、片親の限界を感じたりして、生きてきたのかもしれない。苦労しているだけに、他人の気持ちを受け入れる土壌ができていると感じた。


 二人とも、冬の動物園の不機嫌な動物を見ることで、しばし自分の苦痛から逃げようとしているのかもしれない。お菓子を探すなんて、どうでもいい言い訳だ。苦しい人間は、自分より苦しい存在を探してしまう。悲しいけど、それは事実だ。ならば、二人のために動物園代くらい出してやっても良いか、そんな気分になった。


 クマのゾーンに来ると、クマもトラみたいに苛立っているように感じた。トラと違い、クマはこちらを見る。


 ゾウは年老いていて、寒さに耐えようと、なるべく動かないようにしているようだった。むだなことはしない方がいいよ。


 モノレールに乗って、動物園の西側に移った。


 サイ、キリン、シマウマ、みな寒いからか元気がなかった。シホもチエも元気がなくなっていた。ここでは幼稚園から来た園児たちが、何に向かってかは分からないが、「アンコール、アンコール」と叫んでいた。シホは園児を見て笑っていたが、チエは戸惑っていた。高校生の集団デートの初々しいカップルがいたが、お互いに異性を持て余し、同性とだけしゃべっていた。


「ああいうのを見てるとちょっとブルーになるね」


 シホと同じ気分だった。哺乳類がケージに入れられていると切なくなる。人間に近い存在なので共感してしまうのだろう。憂鬱な日常を抱えていればなおさらだ。寒さに耐えてじっとしている連中にも、苛立ってうろつくクマやトラにも、可哀想だという感じがしてしまう。寒さのせいもある。


 お菓子のことなんてシホは忘れてしまったようだ。


「もう帰りたい」とシホは言い出した。「記念に西園の売店に寄ろうよ」とチエが宥めた。シホに元気がなくなって、チエが苦しそうな表情を浮かべるようになった。チエはシホに共鳴しているようだった。


 西園にある売店に寄った。パンダ、ゾウなど人気のぬいぐるみが所狭しと並んでいた。陳列棚に「プレミアムどうぶつえん」というお菓子が置いてあった。パンダ、クマ、ブタ、キリン、ゾウ、(なぜか)カッパのイラストが描いてあるかわいいパッケージだった。「これ買ってみようよ」とチエが提案した。もちろん、僕が金を出す。


 売店の外で試しに開けてみると、パッケージと同じ形のお菓子が入っていた。なかなかシホが手を出さなかった。「ブタのちょうだい」と僕が手を出した。チエが「ブタじゃないよ、サイだよ」と突っ込んだ。


 薄皮のまんじゅうの皮のなかにチョコレートが入っていた。デザイン、味ともになかなかよかった。「これいいよね」とカッパを頬張ったチエが褒めた。「シホ食べなよ」と箱を差し出した。


 シホはパンダのまんじゅうをつまみ、口にする。その途端、泣き出してしまった。

 ――了――

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