挿話1 寒い夜にいつもの洋間で

 ケンジの家には皆がよく集まった。

 特に僕はそうだった。

 僕は、すでにケンジの家では客として歓待はされなくなっていた。それはとても喜ばしかった。行くときもアポイントメントを取らない。ほぼ家族として扱われているのだと勝手に思っていた。

 いつものように、引き戸を開ける。夜中だというのに派手に音を立てる。正面に眼光を感じてギョッとする。この家のおじいちゃんのいたずらで、巨大な虎のぬいぐるみが置いてある。見るたびに驚く。靴を脱ぎ、足をうんと上げないと上れない式台に上がり、上がりかまちに足をかける。

 右の引き戸を開けると洋間、左を開けると和室だ。ケンジは右の洋間にいるようだ。明かりが漏れている。


 その富農ふのうの家の立地が特別良かったわけではない。田んぼに囲まれ、木々に埋もれた丘の中腹にその家はあった。田んぼは基本的に低湿地にあるので、洪水にいやすい。だから、少し田んぼよりも高いところに家がある。特に金持ちからそういう土地に住み、新参者や金のないものは水害に遭いやすいところに必然的に住む。どこに住んでいるかで、その人間がどんな家格かかくの人間かは分かってしまう。

 そのかわり、繁華街はんかがいからは遠い。

 僕の実家は新参者の家だ。小学校・中学校はケンジと同じ学校であったが、僕の通学路のほぼ途中にあった。その家に集まるのは、中学校の友人たちが多かった。

 ケンジには兄弟がいて、兄弟の友人達も十代のうちから集い、み、騒いだ。

 居心地が良いのは間違いない。

 対照的に僕の実家は寒々さむざむとしていた。ケンジの家に比べ、狭い敷地しきちに建てた小さな家なのだが、居心地は悪かった。別に親が家事をさぼっているわけではない。日当たりも良い。両親が、決定的に仲が悪かったわけでもない。不穏な予感がいつもしている、そんな感じがしていた。

 子どもであったころの我々は気づかなかったが、よく喧嘩けんかをした両親ではあった。

 一度など、夫婦が喧嘩をしたばっかりに、六畳の居間で泣いている母親と、一応客間である六畳の和室でふて寝をする父親の間を、弟を連れて右往左往うおうさおうしたことがあった。こうなってしまうと狭い我が家では子どもがいるスペースがなくなってしまう。

 それに狭い家に比して、兄弟たちはガタイが大きかった。

 理由はそれだけではないが、兄弟は大きくなるにつれ、外に世界を持ち、実家に寄りつかなくなった。


 杉板の引き戸を開けるとあんじょう、赤い革張かわばりのソファに座る、ケンジの背中が飛び込んできた。そのまま、まんじりともせず、入り口から見て部屋の右隅みぎすみにあるテレビを見ていた。

「よう、行ってきたよ」

 とケンジに声をかけ、左肩に手をかける。

 風呂上がりのケンジは首から濡れたバスタオルを掛けていた。タオルを取りながら、何か呑むかと聞いてきた。おう、と答えると、ケンジは立ち上がり、テレビの脇にあるドアから隣の台所に向かった。

 僕はケンジの一人掛けのソファの左側にある、三人掛けのソファに座った。バネが古いので、尻が妙に沈んだ。同じ、赤い革張りのソファだ。座ると、正面に庭に面する大きな窓がある。窓の左側にはテレビ、窓の上には壁掛けの時計がある。見ると、深夜二十三時をまわっていた。目の前には低めのガラス製のテーブルがある。左側、ケンジの正面には同じ一人掛けのソファがある。ケンジのソファの目の前にはすでに五百ミリのビール缶があった。ちょっと持ち上げると、空であった。

 隣の台所から五百ミリの缶ビールを二缶、焼酎しょうちゅうの「トライアングル」の黒いビンとコップを乗せて運んできた。もう一度、台所に行って、氷の入った黒い氷入れとウーロン茶を持ってきた。

 ビールをお盆から取って、一本をケンジに手渡した。二人ともビールのプルタブを引き上げた。ビールの泡がプルタブを開ける指に飛び、独特なビールの匂いがする。

「とりあえず」

 とケンジがビール缶をこちらに差し出した。急いで、開けた自分のビールを差し出された缶に合わせる。

 僕は一口だけ飲んで、テーブルに置いた。

 ケンジは半分くらいを一気に飲んだ。

 テレビでは野球のニュースをやっていた。冬でシーズンオフだというのに、キャンプの情報などを女子アナがはしゃぎながら伝えていた。見ていて、罵倒ばとうしたくなった。キャンプの情報を伝えたいのか、自分がかわいいことをアピールしたいのか見当がつかなかった。

 野球やスポーツの情報は、興味のないものからすれば、生活感のない、どうでもいい、無味乾燥むみかんそうなものに感じる。

 まるで面白くないものを見る趣味は、ケンジもないはずだ。

 ――どうして見てたんだろう。

 ちょろちょろケンジを盗み見したが、答えは出なかった。

 「けっこう呑むようになったね」

 「仕事の付き合いで呑むようになってさ。仕事辞めてからもっと酒の量が増えた」

 「そうか」と言ったきり、二人は少し黙った。

 ケンジは仲間内でも酒が呑めない方だった。アレルギー体質ということはないのだが、あまり強くなかった。いつのまにか、酒量、回数ともにケンジが一番呑むようになった。

 テレビでは野球コーナーが終わり、ニュースに戻る。

 ニュースの特集で、いじめについて扱われていた。

 二〇一五年は、小学校におけるいじめの発生件数が増大し、過去最高になった。

 イジメを経験した大人の女性の後ろ姿が映り、その状況をずっと説明した。

 女性はそのまま不登校、引きこもりになってしまう。

 「どうしていじめなんてするのかね」と独り言のように僕が言いながら、つまみに出されたピザポテトを一枚くわえる。

 「恐怖だよ」

 「恐怖?」

 返ってくるはずのない問いかけに、強すぎる言葉が返ってきて、戸惑とまどってしまった。

 「恐怖とか不安っていうのは、いつだって無知からくる。

『このままじゃ、まずいことになる』

『やりたくない。やっても厄介なことになるだけだ』

 そんな日常に覆われて、しかも答えが出せないと、ストレスが溜まる。ストレスから逃げようとさらに悲惨な人間を作りたくなる」

 こちらにもテレビにも目もくれず、膝の上で組まれた拳に視線を落としながら言った。

「やられた方がたまらんねえ」

 ピザポテトを食べながら、不快感が出ないように打ち消す。

「そうだね」

 友人として、友人の言葉に妙な説得力があるのが悲しかった。

 ケンジは少し前に仕事を辞めた。

 完全なブラック企業だった。

 ただ、面白いことに? 社員全員に深刻な状況であるという自覚がなかったのかもしれない。自分たちは明日に向かって、懸命にやってるだけだ、と全員純粋に信じていた。むろん、ケンジもである。

 無自覚なストレスはかかっていただろう。

 じゃ、イジメをしていたのか、それともイジメられていたのか。それは分からない。分からないが、様々なものを見てきたということは間違いない。

 若手芸人のコント番組が始まる。

 ヤンキーのコントをしていた。

 今どき、ダウンタウンが若手のころにやっていたテイストのコントをやって、なにが楽しいのか分からなかった。

 スタッフや若い女の子が笑う声が足されていた。

 聞いていると自分が笑われている気分になる。

 ケンジの後ろの引き戸を自分で開けて、猫が一匹入ってきた。『マルス』、ケンジが拾ってきた猫だ。ワインレッドの絨毯じゅうたんをノシノシ歩く。顔は眠たげだ。僕の横までやってきて、ソファに登った。そのまま、僕の腹の上に乗って、香箱こうばこずわりになる。尻は僕の方に向いている。自然に僕はソファの背もたれにもたれかかった。

 人のたくさんいるところに、マルスはやってきては、人の上や脇でわざわざ寝る。

「いつもどこで寝てるの」

「場合によるけど、オレのベッド」

 そうか――と僕が答えたきり、二人は黙々とグラスを傾ける。深夜のバラエティが始まっているが、音が鳴っているだけ。まるで耳に入ってこなかった。

「バイトどう?」

 となんの気もなしに聞いた。

 仕事を辞めて、バイトを始めて数ヶ月経った。一応四大卒という学歴を生かして、ケンジは中学生相手の補習塾で講師を始めた。とはいうものの正社員採用ではなく、時給で働いていた。

「子どもたちは・・・・・・かわいいけどね。・・・・・・なんか不安。不安でしょうがない」

「そうか」

「あと自信がなくなった」

「へえ」

「なんかやっぱり、教えるのはいい」

「向いている?」

 コクコクとうなずく。酔ったときのケンジのくせだ。

 先にやっていたケンジの方が酔ってしまったようだ。言葉がたどたどしくなってきた。

「でもやっぱり、辞めた後の方がストレスが多い」

 だろうなあ、としみじみ思う。

「たぶんホントはそんなこと思っていないと思うけど、人間関係が変わった」

「ん? なんか、下に見られてる気がする?」

 ケンジは小さくコクコクとうなずく。

「おじさん、おばさんも」

 と聞くと、コクとうなずいた。

「だって事情知ってるだろ、みんな。話してあるんだろ」

 こくりとうなずく。

「じゃ、考えすぎだよ」

 大体、両親にとって子どもはいつまでたっても下だ。たとえ、東大へ行っても、大企業のトップになっても、大リーガーになっても、親子の関係は不変だ。ただしそれは厄介さとは関係は無い。厄介なのは厄介で、逃げられるものではない、ということだ。それと同じなのは金だ。金の問題は結局その人間の金銭感覚に依存する。そうしてずっと人の心の内にまとわりついて離れない。

 親と金と両方問題を抱えると地獄だ。

「お前、シホのこと疑ってるの」

 聞きにくいことを思い切って口にした。ずっと思ってきたことだ。言った後に、腹の上のマルスが急に重くなった。マルス本人は喉を鳴らしている。顔は見えないが寝ているのだろう。

 ケンジは少しだけ考えて、首を振った。

「自分でもよう分からん」

 と、グラスをぐいとあおった。ビールから焼酎のウーロン割りに移った。氷が『カラン』と音を立てる。元々喉仏のどぼとけが目立つタイプだが、今夜はいやに目立った。その喉仏が、上下に大きく動いた。

 呑み干したグラスをテーブルに置いて、大きな溜め息を吐き出した。呼気に乗って安酒の匂いがした。

 僕は腹の上のマルスが落ちないように支えながら、トライアングルを黒いビンを右手に持った。赤黒い薄いアルミのふたを開けて、少しずつケンジのグラスに注ぐ。「ストップって言えよ」と予告した。原液がゆっくりグラスに溜まる。

 ワンフィンガー・・・・・・、ツーフィンガー・・・・・・、スリーフィンガー・・・・・・。ケンジはストップを言わない。

 グラスの半分近くまで来てもストップをかけないので、「オイ」と言って、自主的に注ぐのを止めた。

「オイ、濃すぎだぞ」

 と、グラスの四分の一くらいを僕の方に移した。

「大丈夫だよ」

 と言うケンジを無視して、ウーロン茶で割って差し出した。

「せっかくだから、長く呑もうよ」

 特にケンジが仕事を辞めてからは、毎日のように顔を合わせて呑んでいるのだが。

 テレビで深夜のカウントダウン番組が始まった。二人のCGキャラクターに挟まれて、若い女の子がニコニコしている。CGキャラクターが「カウントダウン」と叫んで顔がクルクル回った。

 ケンジはよく見ているが、僕はこの番組が嫌いだ。

 カウントダウンに合わせて、曲のPVが延々流れる。PVは当然深夜にみられる前提では作られておらず、明るい映像だ。それに順位が低いものほど、簡素かんそに作られていて、背景などにはなにもない。白や黒を基調としたシンプルな背景だ。それを数十秒ずつ見ていると、妙に気分がふさぐ。

 特にバイトなどで疲れているときは、落ち込んだあげく、「何やってんだろうオレは」となんだか懺悔ざんげしたい気分になる。

 だから、極力見ないようにしていた。

 気をまぎらすために、マルスの背中を撫でた。背中がピクリと反応する。

「なんか僕の方が酔ってきたよ」

 と照れ笑いをしたら、ケンジは薄い笑顔で返してきた。

「よく分からないけど不安なんだよ」

「シホのことか」

 とても小さくうなずく。アゴが微かに動いた。

 両親との関係はともかく、シホとケンジの関係には変化があった。

 それは大きな変化というより、ニュアンスという方が正確な表現だろう。

 正社員を辞めたことで、ケンジは明らかに気後きおくれしていた。何に? 大げさに言えば、世の中だろう。辞めた方が良かったのは間違いがないが、我々は一つの職業を勤め上げてこそ、という教育を受けている。特に男はそうだ。すぐにケンジはバイトを始めたが、バイトはバイト。その感覚は今後もぬぐえないだろう。企業がバイトを安く買い叩く限りは。

 シホがケンジの気後れをどう感じたか、いやそもそも仕事を辞めたことをどう思っているのか、正確には分からなかった。女の子は口にしていることと心情が裏腹だったりする。それを察することを、男からすれば、過度に要求する。口では「いいよ」といいながら、眉の辺りに微かに悲しみが浮かんでいることなんてしょっちゅうだ。

 あくまでこれは僕の推量だった。推量を確定させるのは僕の仕事ではない。

 はずだ。

「そのストレスで僕はイジメられてるのかな」

 イジメは不安、恐怖からくるという話を思い出した。

「勘弁してくれよ」

 深夜だが僕は高笑いしてしまう。

「こんなこと頼めるのはお前だけなんだから」

「シホの動向監視と『お気持ち』の調査ね。シンプルにいかないね」

 シホの気持ちがどこに向いているのか、それを知りたいのだそうだ。

 どうして僕はこんなに暇なのか。ろくに仕事もしてないからか。

 ところで――。

「どうして僕がシホに手を出さないと思うんだい」

「出す勇気はあるかい」

「ないです。でも、他のヤツでも良いじゃないか」

「暇なのはお前だけだし、他のヤツだと・・・・・・」

 手を出すよなそりゃ、と海でのエイジとシホのやりとり、有楽町でのナカムラとシホの醜態しゅうたいを思い出した。

 人間なんて所詮しょせん動物だということを友人は鮮やかに証明してくれた。

「自分でやればいいんじゃないの?」

「そんなひまはない」

「なんだと!」

「それにみじめすぎる」

 そりゃ他の男とのデートに付き合わされる彼氏というのは聞いたことがない。

「怒れば良いじゃないか」

 ケンジは返事をしなかった。

 それだけ二人の関係は難しくなっているのだろうか。

 結局ケンジに頼まれてしまうと、受け入れてしまう自分がいた。

 酔い潰れたケンジは、酒に負けたように背もたれに身をもたせ、眼がほぼなくなっていた。


 まだまだ春めく気配もない新春の一夜、外は一年で一番の寒さ。

 部屋はガスストーブで暖められている。

 しかし、家の芯が冷えているのはどうにも解消されない。

 壁掛けの時計を見ると、深夜三時になろうとしていた。

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