第四話 「会社を辞めた日のこと」~ Revolution 9①

 その日の朝、ケンジは上司に退職届を叩きつけた。

 そうなればカッコイイのだが実際は違った。

 ケンジの所属する部署で一番採光さいこうの良い、窓を背に鎮座ちんざする課長席の前に立った。うやうやしく両手で退職届を差し上げた。まるで卒業証書を押し頂くように。

 退職届を受け取るはずの人間は、愛想も挨拶もへったくれもなく、『お前が先に何も言わなければ、俺からは何も反応しない』と決めつけているように、届けを差し出しても、始めは反応がなかった。愛想がないことが威厳に繋がるという、そもそも昭和時代的な時代錯誤な感覚を引きずって歩いているような男だ。

 何も反応がないために、紙の届けをかすかにカサつかせたのだそうだ。やおら書類を書いていたオールバックの頭が上がり、四角い顔と、黄色く四角い鼈甲べっこうのようながらのついたふちの眼鏡が見えた。

「今にして思えば、上司にしても予感はしていて、対応策とか考える必要があったし、時間稼ぎをしていたんだろうな」と後にケンジは語っていた。逡巡逡巡の色があったのかもしれない。バイトや契約社員ならいくらでも切って補充すればかまわないが、正社員を切ったらば、その課長にとっても評価に繋がるのだろう。

 特にあんなことがあった後では。

 「良いんだな。お前の数年がムダになるぞ」と最後になる慰留いりゅうがあった。眼鏡のフレームの中央を、人差し指の脇で押し上げた。あぶら性のためか、ずり落ちた眼鏡を頻繁ひんぱんに押し上げる癖がある。目の奥に戸惑いの色が出ていた。社内では豪腕で鳴らしていたが、意外とトラブルに弱いことは知っていた。他人に処理を任せるのだ。いや、押しつけるのだ。

 ケンジは後にそのときのことを反芻はんすうすることがあるらしい。夢の中で。つまり悪夢として出てくるのだろう。だが、思い出す度に、その戸惑いの目に焦点が合ってしまうそうだ。そして、半年近く経った今では、「ざまあみろ」と思ってしまうそうだ。こうもトラブルが直接的に課長の下に来ては、誰のせいにもできないだろ。ケンジと折り合いの悪い先輩は、この上司くらいしかいない。他人のせいにはできない。

 が、このときはそんなことは考えもせず、自らのタスクに集中していた。

 ケンジが慰留に反応する気がなく、意思が固いと読んだのだろう。手書きで『退職届』と書かれた封書を、ひったくるように奪った。課長の最大限の抵抗だったのだろう。課長は事務机の一番上の引き出しに退職届を収めた。

 その字になにか反応するかと思いきや、なにも触れないことにケンジは肩すかしを食らった気分だった。ひったくるように退職届を奪い取った上司の行動に気づくほど、その時の彼には余裕がなく、若かったのだろう。ケンジと僕は同い年だが。

 部下の統率力を買われ出世したはずの課長は些細なところによく気がつき、間髪入れず大げさに褒め称えるのが常であった。もちろん、子どもだましで、小手先の技だとはケンジたち部下一同には分かっていた。そんなへつらいで出世したのだろう、とケンジたちは陰で苦笑し合っていた。だが、そんな課長に対して、愛着があったのも間違いがない。いや愛着があったのだ。それは退職した今はよくわかる、とケンジは言う。そんなつまらない紐帯ちゅうたいが確かに存在していたのだ、と。

 苦しい職務のなかで、皆で飲み、騒ぎ、笑い合ったことを。

 死ぬかもしれないと思いながら働き、ギリギリだからこそ培われた、奇妙な紐帯が自分たちにはあった、と。

 そんな子どもだましさえ出てこないこのときに、数枚の紙ペラを差し出しただけで人間関係の鎖がふつりと断ち切られたのを感じた。苦難を乗り越えてきた同志だとケンジは思っていたのだが、所詮は「金儲け」という共通の目的だけのつながりだったのだ。

 逆にそう思えたことをこの課長に感謝せねばならないのかもしれない。

 上司の頭が再び下がった。

 なぜかヴィーナスが乗るアコヤガイの蓋がゆっくりと閉まって、眩惑げんわく的な風景が消えていくのを感じた。


 上司の頭の向こうにある窓の外を見るといつの間にか雨が降り始めていた。梅雨の小糠雨こぬかあめは微風に揺らされて、雨粒が細かいせいで風に吹かれる柳のようにたなびいているのが見えた。ケンジは綺麗だと思った。

 なんだか、急激に窓の外の景色が自分から遠ざかっていくのを感じた。自分から世界が切り離されていく。

 雨に見とれていると、目の前のオールバックが再び上がった。おかげで世界が戻ってきた。その目は「いつまでいるのだ」という責めの気分が視線に混じっていた。

 一礼をしてふり返った。暗黙のうちに、社員の机は課長の覚えめでたい順に課長席に近い配置になっている。この社の風習だ。ケンジの席は中央辺りだが、その後ろには新人と派遣社員しかいなかった。

 自席で黒いビニール革の肩掛けのバッグを肩にかけ、出入り口に向かった。誰もがケンジを元々存在しないように扱った。そのくせ、無数の小さな針が全身を射貫くような、そんな痛みと圧迫を全身に受けた。私物は整理済み、引き継ぎも終わっていた。退職の準備は万端だったのに、どうしてか後ろめたさを感じた。学校を辞めてしまう劣等生のような気分だった。しかもヤンキーのように、「でしょうね」と自分で納得してしまうような大失態を犯したわけでもない。ただの馬鹿が成績不良をなんとかしがたく、留年のあげく、退学せざるを得なくなったような、そんな辞め方だった。

 昔、我々の公立中学に転入してきた男のことを思い出していた。いつも言い訳をしていた。そして照れるような、自らを冷笑するような笑顔をした。そんな卑屈な顔をいつもしていた。ケンジは自分の顔がそんな卑屈な顔をしているんじゃないか、と顔を撫でた。顔中の筋肉がこわばっていた。指でそれをほぐし、表情を整えた。

 色々な同僚たちの「逃げるのか」という声なき声が聞こえた。その圧力は頭痛へと変じた。首の後ろに血が溜まってむくんでいるのが分かった。

『ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン、ナンバーナイン・・・・・・』


「そういう声が急に耳のなかでさ、リピートされたんだ。右耳、左耳、右耳、左耳、って左右順番にそれが鳴るんだ。正体はわかってる。ビートルズだよ、ジョン・レノン。あいつが作った『Revolution 9』って曲だよ。全部がサンプリングでできた曲なんだけど、最初にこの『ナンバーナイン』って声がループするんだよ。どっかの試験問題なんだよな。途中、ジョン・レノンのうめきとか入ってきて、不快なんだけど、調子悪いときはあれ聞いちゃうんだ。いや、君はやめとけよ、そういうときに聞くのは」

 とケンジは後に語る。

 男の声は頭痛のうずきと呼応するように聞こえた。


 自律神経が失調しているのが分かった。

 逃げるように足早に立ち去った。

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