第五話 「女と泣き出しそうな空と豪徳寺」②

 今日、豪徳寺の駅で待ち合わせて、顔を見た途端、イヤな予感は明確な不安に昇華しょうかした。

 ノリスケは一瞬、シホをまんざらでもないという目で見た。それを僕は見逃さなかった。

 シホは相変わらずの人なので、誰にでもびを売っているように見える。いやハッキリと媚びている。

 ノリスケは東京の下町の出身だ。

 都会には大悪党はいないが、小悪党は無数にいた。小悪党は悪びれもなく、人のモノを盗む。欲望に忠実であり、「盗られるすきを見せる方が悪い」くらいに考えている。

 田舎で悪いことをすれば、周囲の人間はみな悪事を知る。田舎には周囲の人間しかいないので、逃げ場がない。が、都会には身を隠すところが無数にある。

 それに同種の小悪党がたくさん存在する。それに紛れてしまえば後悔も罪悪感もない。

 現に横から見ていると、本堂から如何に賽銭を盗もうか画策していた。掃除をする寺男はこちらなど構っていない。

 賽銭さいせん箱が本堂のなかに入っていることこそが、都会に小悪党が多い証拠である。

 止めるために、ノリスケの二の腕を強めにひじで小突いた。ノリスケは苦笑交じりの顔でこちらを見た。

 二人をよそにシホはまだお願いをしていた。

「志村とか加トちゃんが出てきたらどうする」とノリスケは楽しそうに言った。

「それは『神様』、ここは『仏様』」と教えると、「あ、そっか」とわざとらしく頭をかいた。

 シホはシホなりに一生懸命になる理由があった。カレシのケンジの家には一匹の猫が居た。マルスという名前の黄色いトラの雄猫だった。

 僕たちはよくケンジの家に集う。人数が少なかったり、皆がテレビを見たりするときは、いつもの洋間に居た。床には赤い絨毯じゅうたんが敷かれ、革張りの赤いソファが置かれていた。ガラス製のサイドボードにいつも酒を置き、テレビを見ながらくつろぐ。アップライトのピアノが置いてあったが、ミとラの音がずれていた。もう十年以上調律されていないそうだ。人が洋間が居るときはマルスは無言でやってきて、誰かの膝に乗る。そのまま香箱座りで寝てしまう。もう大人の猫で重いのだが、皆かわいがり、無碍むげに下ろすことはない。マルスは人が騒いでいるところに混じるのが好きだ。

 このマルスがどうしてもシホにだけにはなつかない。ケンジとシホが二人きりでケンジの部屋にいるとイヤがってどこかへ行ってしまう。誰かに触れられるということによく慣れているのだが、シホが触ると、イヤがるどころではない。目をいて威嚇いかくする。全身の毛は毛羽立つ。こういう姿は他の人には見せない。抱っこしようものなら、プクプクのほっぺたをひっかこうとする。

 別にマルスだけに嫌われているのなら、たかが猫一匹と相性が悪いだけだと、気にしなければ良い。だが、ペットは飼い主に似る。シホはケンジの家族にもあまり歓迎されていないようだった。社会一般に表面的には平等主義が覆っているように見える。そのせいで大げさに言えば、「家格」のようなものが見えづらい。それがただの恋愛から一歩でも生活に踏み込むと表出する。平等にチャンスがあるのは学生のうちの試験だけだ。田舎でケンジの家は代々続いてきた家だ。その差がシホを拒絶しているように僕には感じた。シホは片親で比較的自由に育った。イエを維持するための考え方が染みついているところがケンジにはある。少なくとも僕にはそう見えた。自分たちにはそぐわないと家族は感じているのかもしれない。田舎の旧家の閉鎖性は厳然げんぜんとして存在する。

 ケンジは自分たちの世界に入ってこれるようにシホを変えようとしていた。シホはケンジが好きだから、それに従おうとした。残酷だが僕には無駄であるように見えた。シホは窮屈きゅうくつであるように見えた。常に「どうしてうまくいかないの」と悩んでいた。それら抑圧の象徴がマルスだった。

 「どうしたらマルスとお友だちになれるんだろ」

 ある日の何気ないつぶやきに、「そういえば招き猫の発祥はっしょうって豪徳寺だよね」と僕が応えてしまったのが運の尽きだった。シホの小さな目がキラリと光り、「連れてけ」と大騒ぎになった。もう二人はだめかもしれないと感じ始めていたケンジは、その場では知らぬ存ぜぬを決め込んだ。シホが街から外に出る口実を常に探しているのは知っていたし、あまりにもうるさかったがその場では返事を濁した。後で説得されたことは先に述べたとおりだ。五日くらい前のことだ。

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