第3話 伝説の妖魔


 東の空に、美しい金色の満月が昇り始めている。沈み行く太陽の変わりに、地上に光を注ぐ、金色の月。街中では、それほど目立たぬ月明かりも、この郊外では、かなりありがたい光の源となっていた。

 まばらに建つ家屋と広い畑。

 月明かりの作り出す影が、あちらこちらに生れていた。

 静かな空気に漂う、夕食の香り。

 緑の茂る畑の真ん中に、蠢く影が一つ。狸か狐ほどの大きさをしたそれの、長く艶やかな黒い毛が、緩やかな風にふわりと揺れた。

 月の光の注ぐ中、影がゆっくりと起き上がる。

 狸か狐ほどだと思っていた体が、起き上がるにつれ、変化していく。

 立ち上がり、月を見上げた黒い影。リード程の身の丈に纏うは、長く艶やかな黒の毛皮。肩から破り捨てられたような着衣から伸びる、浅黒い二本の腕。長く伸びた鋭い爪が、月の光を反射している。青く輝く肩ほどまで伸びた髪の間から、猫か狐のような三角の耳が、二つ覗いていた。ニヤリと笑う口元に見えるのは、爪と同様に、鋭い犬歯。

 ヒトのような姿をした妖魔。

「出てこい、魔導士・リード=シーク」

 少しだけ低い、まだ、少年の面影が残る声。

 農作業用の小屋の陰に身を隠していたリードが、月明かりの下に、一歩踏み出す。手には、愛用の杖を持っていた。真剣な眼差しで、目の前の妖魔を見据える。

「お前だな?この町に被害出してんのは」

「あぁ」

 ニヤリと笑ったまま、顔だけリードのほうへ向けて、獣は、短く答えた。

「ユキにまで見つかるなんて、たいした間抜けだと思ってたケド、人獣タイプとはな」

 人と同等の頭脳と、獣と同等の力と運動神経を持つ人獣タイプは、少し厄介な相手だった。

「あぁ」

「俺になにか用か?」

 隠れていたことが見つかったことは、不思議じゃない。

 しかし、いくら高等魔導士で天才と呼ばれるリードでも、魔族にまで名が知れ渡っているとは考えにくい。

「思い上がるな。たかだか、数十年生きただけのガキが」

 リードは、不快に顔を歪めた。どう見ても、見た目同い年か年下の姿をした奴に、『ガキ』呼ばわりされるのは、カチンと来る。憤りを抑えて、リードは冷静に返した。

「じゃあ、何が目的だ?エサだけじゃないだろう?」

 目的が当初の予想通りエサならば、リードを誘うように、宿の窓の外に現われるなんておかしい。退治してくれと言っているようなものだ。

「ヒトとは、全く悲しい生き物だな。己の愚かさにも気づかぬ」

「お前こそ、思い上がるな。ヒトの世界の何を知ってる?」

 不快に返すリードに、獣は、嘲笑を浮かべた。

「相手を陥れるのに、自分に言い訳しなきゃならん。自らの行動を正しいとする為にも、理由を作らなきゃならん。上を見ていても下を見ていても、足をすくわれる」

「それと、畑や民家を荒らすのと、どういう関係があるんだよ?」

 獣は体をリードへと向けて、目を細め、妖しく口元を歪めた。

 伝わる妖気に、リードに緊張が走る。

「目的は、お前の言うとおりエサじゃない。それから、お前でもない。全く……ヒトとは、悲しいな。自分の周りにあるものを、すべて、わかっているつもりでいる」

 獣の言葉に、リードは、眉をひそめた。言っていることの、意味が掴めない。

 獣は、更に続けた。

「……月の妖力が満ちる夜。魔導士の手を離れた従魔が、一体どうなるか」

「……ユキ」

 目を見開いて、リードは小さく呟いた。

 心臓の音が、体中で響いている。体中の血が、ざわめいている。

 リードの頭に響く感情。ユキが心配だなんて、そんなことを思ったのは初めてだった。宿のほうを振り返ると、こちらへ走ってくる人影が見える。

「リード!!」

 慌てた様子で駆け寄ってくるのは、ユキを任せたはずのレタールだった。

「お前、ユキはどうした?!」

 声にこもる焦燥感。

 レタールが答えようとした、その時、リードの頬を、鋭く光る何かが掠めていった。

 駆け寄ろうとするレタールの足元に、太い針のような長い刃が突き刺さる。

 リードの数メートル手前で立ち止まり、レタールは、月明かりの下に立つ黒い人獣を見つめた。

「レタール!ユキは?!」

 リードの声に、レタールは、彼へと視線を戻した。

「いなくなったんだ!夕飯に行こうと思って、俺が上着取るのに後ろ向いた間に、窓から……!」

 舌打ちして、リードは、改めて獣を見据えた。先ほどまでとは違う、鋭い眼差しで。

「目的はそこか……?ユキを暴れさせて、自分は手を汚さずに」

「それも、少し違うが……。月の妖力は、俺たち魔族の本能を曝け出す。いいのか?ここで問答してる間に、被害はどんどん広がるぞ?」

「分かってる!お前をさっさと片付けて、ユキを追う!」

 リードが杖を振り、魔法陣を描く。描かれていくのと同時に、風があふれ、青白い光が放たれていく。

「精霊召喚・ゲイル!」

 杖を地に一突きすると、青白い光の中から鋭い風を纏わせた精霊が現われた。リードと同じだけの背丈。

「攻撃!!」

 風の刃を纏う精霊は、猛スピードで獣へと向かっていく。

 獣は、ニヤリとした口元のまま、片手をふわりと振り上げた。

 微動だにもしない。

「なっ!」

 目を見開くリードの前で、精霊は、跡形もなく消え去った。

 確認できたのは、消え去る寸前、縦に裂けたこと。見えない刃で、切りつけられたかのように。

「思い上がるな、リード=シーク」

 獣は、何もなかったように、悠然とした姿でこちらを見ていた。

 力を加減したわけではなかった。この依頼と、さしたる被害も出さない妖魔相手に使うには、もったいないほど力の強い精霊を召喚したはずだった。

 感情のまま、思いっきり叩き潰すために。

 しかし、悔しがっている場合ではない。

 リードは、再び杖をふり、魔法陣を描き出した。そして、今度は杖を持たない手で、もう一つ小さな魔法陣を作り出す。

「従魔召喚!精霊召喚、スコール!!」

 言葉と同時に、杖をつく。

 二つの魔法陣が、それぞれ青白い光を放つ中、従魔と水の精霊、二つの異なる生き物が姿を現した。

「二重魔法陣……」

 驚愕の思いで、レタールはリードの背中を見つめていた。高等魔導士であっても、二重魔法陣を完璧に扱えるものは少ない。

 そこへ、突然、リードでも獣でもない、別のシルエットが飛び込んできた。

 小さな躯。リードと同じ色の、深い青の瞳。長い黒髪。月明かりに映るそれは、紛れもない。

「ユキちゃん、危ない!!」

 叫んだレタールの声は―――――。

「従魔攻撃!!」

 リードの声と、唸り声を上げて地を蹴った大型の狼のような従魔に、見事にかき消されてしまった。

「ユキちゃん!!」

 土煙の上がる中、レタールは、もう一度、リードに届けとばかりに叫んだ。両腕を盾にするように、顔の前で交差して行方を見守る。ゼロの視界の中で、獣と従魔のぶつかり合う音に混じって、この緊迫した場にそぐわない、リードの声が聴こえた気がした。

 少しずつ晴れていく視界に、リードの背中と、彼の足にくっつく小さな姿が映る。

 ユキがいる。怪我もなく、いやに元気そうだ。

 ほっと息をついて、レタールは、普段のままの二人を見つめていた。

「おまっ……ユキ!何やってんだ?!」

 リードの怒声に、安堵の色が窺える。

 見下ろすリードの目にも、ユキは、普段と変わりなく映っていた。

「りーど、いたぁ~!」

 全く状況を理解していないユキは、満面の笑みを浮かべて、リードの足にしがみついていた。

 ホッとした分、リードの胸に込み上げる怒り。

「いた、じゃねー!」

「りーどぉ、おなかしゅーたぁ……」

「涙流して訴えんな!今、お前をかまってる場合じゃねーんだよ!!」

「おなかしゅーたぁー!!」

 ユキは、リードの置かれた状況などお構いなしに、必死に訴えてくる。

 涙に潤んだ瞳で、ぎゅっとズボンの裾をつかんで。

「どうにかしてやったらどうだ?ご主人様?」

 からかうような獣の声がして、ユキはそのままに、リードは、獣を見据えて悔しそうに奥歯を噛みしめた。

 召喚した従魔の姿も、精霊の姿もない。

 だが、少しは効果があったようだ。獣の息があがっている。


――まずいぞ……。


 足元で泣きべそをかいているユキを、ちらりと見下ろして、ため息をついた。


――……何って、まずはこいつ……。


 自己防衛力があるとは、とても思えない。

 おなかがすいたと喚き散らすユキを、ひとまず、引き離して持ち上げる。

「あのなぁ!目の前のあれをどうにかしないと、メシにありつけねーだろ?!とにかく、お前はっ……ユキ?お前……」

 目の高さを合わせて、ようやく気がついた。

 ユキは、おなかがすいてぐずっているだけだと思っていた。

 しかし、この顔は。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの、この顔は――――。

「おなか、しゅーたぁ……」

 今朝と、同じ顔。

 ただ、ぐずっていたわけじゃない。

 ユキと暮らすようになって、初めて、仕事で留守にする日、泣き止まなくて梃子摺ったことがあった。あの時も、こんな顔をしていた。なかなかやって来ないリードを心配して、様子を見に来てくれたレタールが教えてくれた。

 淋しくてたまらないんだということ。

 不安で仕方ないんだということ。

 独りになるのは、怖いんだということ。

 そういえば、昔、自分もそうだったことを聞いたことがある――――今はいない、両親に。

 だから、ユキにも、リードが帰ってくる日が分かるように、レタールの提案で、カレンダーに「今日」の印と、仕事に行く日に赤い丸印をつけるようにした。

 淋しくないように。

 不安がなくなるように。

 独りが、怖くないように。

 今回のように、急に予定が変わることには弱いらしいが、それからは、仕事に行く日にも、あまりぐずらなくなった。

 淋しくて、不安で、怖くて――――今朝、今と同じように、泣きべそをかいていた。眉尻を下げて、涙で一杯の瞳でジッと見つめてくる、この顔で。

「おなか、しゅーたぁ。りぃど~……ゆき……わるいこぉ」

 あまりに普通の子どもすぎて、忘れかけていた。

「お前、魔族だもんな。ヒトを襲いたいのガマンして、ここまで来たのか……」

 魔族――――妖魔と従魔の境目は、魔導士との契約をしているか否か。契約をした魔族には、体のどこかに、その印が刻まれている。

 本来、従魔は、魔導士の命を果すと自分のいる世界へと還っていく。彼らのエネルギーの大半は、召喚時の魔導士の魔力。つまり、与えられたエサ分の働きをしてくれる。

 だが、ユキは、召喚時の一時的な魔力のみで、わけもわからずここに留まっていた。

 それが底をつけば、従魔が、妖魔に成り下がることもある。

 今までは、魔導士・主人であるリードが傍にいて、その力によってガードできていた空腹感と妖力。

「俺が傍を離れたのと月の妖力が満ちたことで、抑えられていた本能が、暴れ出したんだ」

 まるで、謝るように呟くユキの声が、リードの胸に突き刺さる。

「あれを片したら、俺がどうにかしてやる。ちょっと待ってろ」

 ユキを下ろしながら、片ひざついてしゃがむリードの顔には、優しい笑みが浮んでいた。

「りーどぉ」

 ズボンの裾をぎゅっと掴んで、心細げに見上げるユキの頭に、優しく乗せられた手。

「ガマンできるな?」

「……うん」

「よし、いい子だ。俺の後ろにいろよ、ユキ」

 ユキの小さな頭をひと撫でして立ち上がり、リードは考えを巡らせた。

 問題は、目の前の獣より、ユキの飯だ。魔力で補う術があればよし。なければ――――何か、食べさせなければならない。

 家畜や動物か、最悪―――ヒト―――ということもありうる。

「妖魔を手なずけようなど、愚かにもほどがある」

 リードの見据える先で、獣が、胸の高さに左手をあげた。

「うるせーよ、ほっとけ(つーか、好きで手なずけてるワケじゃねー!)」

 リードも、体の前に杖を構える。

 ユキは、ちゃんとリードの陰に隠れていた。目の前の獣を怖がり、出てくることはない。

 再び、杖をふり、リードが魔法陣を描く。

 その時、リードの目に、獣が何か呟いたように映った。

「リード、後ろ!!」

 レタールの声にハッとなり、振り返ったリードに、幾本もの鋭い爪の刃が迫っていた。

 素早く、杖を撫で上げるようにして、術をかけると、腕を伸ばして杖を横に構えた。風を纏わせた杖が、爪の刃を弾き飛ばした。

 次の瞬間――――。

「お前は、邪魔だ。リード=シーク!」

 現われたのは、身を低く構えた獣。胸の高さに掲げた右手の爪が、白く月明かりを反射している。

 従魔や精霊を召喚している暇はない。

 あるのは、風を纏った杖一本。

 立ち上がった獣が、口の端を上げて笑う。

 長い爪が、キラリと光りながら、高く振り上げられた。

 ユキを後ろに逃がそうと、リードは手を伸ばした。

 が、両者は突然、ユキを守るように吹き上げた風に、完全に阻まれてしまった。螺旋に吹き上がる風と、巻き上がる土煙。

「なっ、なんだ?!」

 リードは、杖を盾に、吹き荒れる風の中をジッと見つめていた。徐々に大きくなるその気配を、驚愕の思いで。


――ちょっと、待て!これ……この気配。まさか、こいつ……。ユキが言うこと聞かないのも当たり前だ。俺が、コントロールできるような奴じゃない!

 

 少しずつ姿を現す、シルエット。


――こいつ、九十年前に大じい様が封印した……


片膝をついた姿は、ユキより明らかに大きい。土煙から覗くのは、満月の光を浴びて輝く、銀色の髪。


――伝説の妖魔……シロメ……!?


 伸びかけの銀の前髪から覗く瞳は、リードと同じ青色。肩に掛かるか掛からないかくらいの、癖のない髪。

 伝え聞くとおりの容姿。

 しかし、赤い半そでの服と黒いズボンは、まるで、昔の魔導士のようだった。

 高い襟口は少し広がっていて、袖にはエメラルドグリーンのベルトが、水色の留め石でつけられている。

 ゆっくりと起き上がった彼の背丈は、リードより、頭一つ分低かった。

 静かな雰囲気を纏わせて、伝説の妖魔・シロメが、獣を横目で一瞥する。

 獣も、そこに現われたのが何者なのかを察して、数歩後ろへと飛び退いた。

 視線戻したシロメが、今度は、すぐ隣にいるリードをちらりと見やった。

「誰だ?お前」

 澄んだ声。

 聞き心地のよい声だが、明らかに、今の声音は不快を表している。

 いかに、自分の力量を超える相手でも、強気でいなければ、こちらが獣より先に喰われてしまう。リードは、息をのみ、表情を引き締めた。

「俺は、リード=シーク。お前を召喚した魔導士だ」

 シロメが、眉をひそめた。

「……リード=シーク?」

 名前を繰り返して、シロメは、リードに向き直った。観察するように、ジッと見つめて、小首をかしげている。

 やがて、彼から下された結論は。

「嘘だな。こんなガキが、リード=シークであるハズがない。それは、天才魔導士の名だぞ」

 シロメは、腕組みをして、見下すように少し上向いて目を細めている。

 完全に馬鹿にした態度を見て、リードの表情が引きつった。相手が、自分の力量を超える伝説の妖魔だろうが、関係ない。

「なめてんじゃねーぞ、ガキ」

 天才魔導士じゃない、と言われたことはどうでもいい。見た目、明らかに年下な奴に、ガキ扱いされたことに腹が立つ。

「俺が、リード=シークだ!」

 強調するように主張するが、シロメは、涼やかな顔をして偉そうに見下すだけ。

「ありえんな。お前、意味わかって言ってんのか?」

「もう一度言うぞ?俺は、リード=シーク。お前を召喚した、天才魔導士だ!」

 一見すると、冷静な攻防。

 だが、実際は、お互い我慢の限界だった。

 リードの言葉を、シロメは、軽く鼻で笑い飛ばす。

「てめぇの召喚違いにも気づかない奴の、どこが天才なんだ?言ってみろ、このクソガキ」

「クソガキだぁ~~~~?!」

 先にキレたのは、リードだった。

「ガキにガキ扱いされたくねーんだよ!伝説だかなんだか知らねーが、俺は魔導士で、お前は、従魔だろ?!」

 怒鳴るリードをうるさいと言うかのように、シロメはそっぽを向いた。

「過程はともかく、お前は召喚されてんだよ!そもそも、なんであんなややこしい姿で出て来やがった?!この一ヶ月、役に立たねーどころか、足手まといだったんだからな!!」

 静かにリードの言葉を聞いていたシロメが、怒りを露に向き直った。

「リードの名を騙る、エセ魔導士が!調子に乗ってんじゃねーぞ!!」

「足りねー脳みそに、いい加減叩き込みやがれっ!リードは俺だ!!」

「お前がリードを騙るなぁ!!」

 言葉とともに、シロメの全身から発せられた妖気。シロメの怒りも、頂点に達していた。

 しかし、今のリードに、そんなことは関係なかった。

 譲歩ということを知らない二人の口論は、まだまだ終りそうになかった。

「誰がっ……!」

 反論しようとしたリードの目に、獣が、右手を構える姿が映った。

 直後、飛んで来る鋭い爪の刃。

 リードが声をあげるより早く、シロメの腕が動く。振り返りもせず、爪の刃を、片手で薙ぎ払っていた。

「お前らの敵は、この俺だ!」

 唸るような、獣の声が響いた。

 口をはさまれたシロメが、獣に怒りの目を向ける。

 次の瞬間、シロメの姿は消えていた。

 続いて響いたのは、獣の、最期の短い叫び声だった。

 シロメが立っている。獣の斜め前に。左腕を突き出して。

「俺にケンカを売ろうなんて、百万年早いんだよ」

 シロメが腕を戻すと、獣は、血を噴出して倒れていった。

 獣の体を貫いていたらしいシロメの腕は、真っ赤に染まっている。

「こんなのに梃子摺ってたなんて、やっぱりお前、リードじゃないな」

 肩越しに少しだけ振り向いて、シロメは、冷たく獣を見下ろした。

 真っ赤に染まった片腕に、何か持っているのが見える。

 リードが目を凝らしてみても、月明かりだけでは、よく見えなかった。

 肉の塊のようにも見える、何か。

 シロメはそれを高く掲げ、上を向いて、大きく開けた口に入れようとしている。

 赤い血を、滴らせる塊。

 満月の光を浴びて、輝くそれは―――――。

「まさか、獣の心臓か……?」

 目を見張るリードをよそに、シロメが、のどを鳴らして飲み込んでいく。

 リードは、言葉なく、立ちすくんでいた。

 血の付く指をなめながら、シロメは、チラリとリードを見やる。そして、妖しくニヤリと口の端を上げて笑った。

「何だ?こんなことでビビってんのか?たいした天才だな」

 リードにも、知識はあった。

「ん~、まぁまぁかな。……しかし、妖魔じゃ、質が劣る……」

 少々不満げに、感想を述べるシロメ。

 ヒトを喰らう、妖魔。

 リードも、魔導士という職業柄、そういう妖魔を相手にしたことだってある。

 しかし、実際に食しているところを目にしたのは、これが初めてだった。正直、足がすくんだ。

「さて、改めて訊くぞ。リードは、どこだ?」

 向き直るシロメに、リードは息を呑む。

 次は、自分が喰われる番かもしれない。

「それ訊いて、どうする気だよ?」

 先ほどより強ばった顔を見て、シロメが、嘲笑を浮かべた。

「エセ魔導士に話して、何になる?」

 リードは、大きく息を吸い込んだ。

 なめられている。

 ビビっている場合じゃない――――厳しく自分に言い聞かせた。そして、心を落ち着けて、しっかりとシロメを見据えた。

「封印された妖魔が、偉そうにしてんじゃねーよ」

「封印?だぁれが、封印されたって?俺は、今まで一度だって封印されたことなんてない。あいつが頼むから、還ってやっただけだ」

 不快に顔を歪めたシロメに、リードは、眉を寄せた。

「……封印されたんだろう?ビガラスで、暴れまわって、それで……」

「バカなこと言うな。俺が暴れたら、ビガラスなんて一日で血の海だぞ?」

 言っていることは、尤もだった。

「さっさと教えろ。リードは、どこだ?」

「だぁ~からっ!リードは、俺だ!」

 再び繰り返されようとしている、同じ口論。

「リード!」

 少し離れた場所から呼ぶレタールに、シロメを睨みつけたまま、リードは、少し苛立った声で答えた。

「あ?!」

「その子が言ってるリード=シークって、もしかして、リードの大じい様のことじゃないの?」

 レタールの指摘に、リードの頭が一気にクールダウンしていく。

「……あぁ」

 納得したように呟いて、リードは、改めてシロメを見つめた。

 シロメは、『大じい様』の言葉に反応して、レタールを見つめている。

 先ほどまでより穏やかな顔をして、シロメは口を開いた。

「お前、何か知ってんのか?リードはどこにいる?……大じい様、か。あれから、ずいぶん経ってるからな」

 懐かしそうに話すシロメに、レタールの口が重くなる。

「あ、の……リードなら、そこにいるケド……」

 シロメは、一度リードを振り返り、眉を寄せてレタールを見やった。いい加減にしろとでも言うように。

「あれは違う」

「いや、彼が、大じい様の名前『リード=シーク』を継いだんだ」

 シロメは、改めてリードを振り返った。時が止まったように、ジッと見つめて動かない。

 すると、何かを悟ったように、シロメが僅かに目を見開いた。

 やがて、ゆっくりと俯いたシロメが口を開く。

「ヒトの寿命は……俺たち妖魔と違って、ずいぶん短いと聞いた。あいつは……リードは、もういないのか?」

 レタールが、リードに視線を送る。

 これまでと180度違うシロメの雰囲気に、レタールはもちろん、リードも途惑っていた。

 彼から感じ取れるのは、怒りではなく、哀しみ。苛立ちではなく、淋しさ。傲慢は、すっかり姿を消していた。あるのは、孤独な姿。小さな小さな、独りの少年の姿。

「大じい様なら」

 遠慮がちに、リードが言葉をのせる。

「俺が生れる、ずいぶん前に……亡くなってる」

 シロメが、ビクッと体を震わせた。

「………そうか……」

 小さく答えた声が、微かに震えているように、二人の耳には聞こえた気がした。

 温かな風が、三人の間を吹き抜けていく。

 立ち上がる土煙に、リードもレタールも顔の前に腕をかざし、目を細めた。

 少しして収まった風の通り路に、小さな小さなシルエット。

 地に、丸まって眠っているのは。

「用が済んだら、還れよな」

 独りごとを呟きながら、リードが、小さく眠るユキへと歩み寄る。

 今朝、着せた服。見慣れた、肩まで伸びた黒い髪。裸足で来たらしく、足は汚れている。

 そして―――――。

 シロメが、獣の体を貫いたときの血の痕が、片腕にしっかり残されていた。

 リードの胸に残る、妙なしこり。

「……リード」

 レタールに促され、ひとまず、獣の亡骸を土へと還す。

「精霊召喚、ガイア」

 静かな呼び声に、魔法陣から現われた大地の精霊が、獣の体を包み込んで消えていく。

 それにも気づかず、ユキは、静かな寝息を立てていた。

「リード、さっきの……」

 レタールが、信じられないというように、地を見つめている。獣を飲み込んでいった、大地を。

「あぁ……妖魔じゃない」

 倒れた獣に近づいて、ようやく気がついた。

 右側の首筋に、深緑色をした円形の複雑な模様が刻まれていた。


――あれは…確か…。


 事務局の書庫で、以前見たことのある、魔導士が従魔に施す証の登録書を、リードは思い出していた。

 ランク別に記録されている中で、一番後ろに記されていた証。

 レタールが、そこまで知らないことを願う。

「あれって、サ……」

 落ち着いた様子の中に、僅かな困惑を滲ませて、レタールが大地から顔を上げた。

 彼が何か言い出す前に、リードは口を開いた。

「宿に帰るぞ」

 ユキを抱き上げようと、その場にしゃがんだリードは、ふと、動きを止めた。

「ユキ?」

「どうしたの?リード」

 上から、腰をかがめて、不思議そうにレタールが覗き込んでいた。

 リードは、ユキを見たままで顔を上げない。

「泣いてる。ユキ……」

 小さく丸まって眠るユキのまぶたから、幾筋もの涙があふれている。

 抱き上げて、いつものように肩に小さな頭を預けるユキを、リードは、しっかりと抱きしめた。

「……泣くなよ」

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