第3話 伝説の妖魔
東の空に、美しい金色の満月が昇り始めている。沈み行く太陽の変わりに、地上に光を注ぐ、金色の月。街中では、それほど目立たぬ月明かりも、この郊外では、かなりありがたい光の源となっていた。
まばらに建つ家屋と広い畑。
月明かりの作り出す影が、あちらこちらに生れていた。
静かな空気に漂う、夕食の香り。
緑の茂る畑の真ん中に、蠢く影が一つ。狸か狐ほどの大きさをしたそれの、長く艶やかな黒い毛が、緩やかな風にふわりと揺れた。
月の光の注ぐ中、影がゆっくりと起き上がる。
狸か狐ほどだと思っていた体が、起き上がるにつれ、変化していく。
立ち上がり、月を見上げた黒い影。リード程の身の丈に纏うは、長く艶やかな黒の毛皮。肩から破り捨てられたような着衣から伸びる、浅黒い二本の腕。長く伸びた鋭い爪が、月の光を反射している。青く輝く肩ほどまで伸びた髪の間から、猫か狐のような三角の耳が、二つ覗いていた。ニヤリと笑う口元に見えるのは、爪と同様に、鋭い犬歯。
ヒトのような姿をした妖魔。
「出てこい、魔導士・リード=シーク」
少しだけ低い、まだ、少年の面影が残る声。
農作業用の小屋の陰に身を隠していたリードが、月明かりの下に、一歩踏み出す。手には、愛用の杖を持っていた。真剣な眼差しで、目の前の妖魔を見据える。
「お前だな?この町に被害出してんのは」
「あぁ」
ニヤリと笑ったまま、顔だけリードのほうへ向けて、獣は、短く答えた。
「ユキにまで見つかるなんて、たいした間抜けだと思ってたケド、人獣タイプとはな」
人と同等の頭脳と、獣と同等の力と運動神経を持つ人獣タイプは、少し厄介な相手だった。
「あぁ」
「俺になにか用か?」
隠れていたことが見つかったことは、不思議じゃない。
しかし、いくら高等魔導士で天才と呼ばれるリードでも、魔族にまで名が知れ渡っているとは考えにくい。
「思い上がるな。たかだか、数十年生きただけのガキが」
リードは、不快に顔を歪めた。どう見ても、見た目同い年か年下の姿をした奴に、『ガキ』呼ばわりされるのは、カチンと来る。憤りを抑えて、リードは冷静に返した。
「じゃあ、何が目的だ?エサだけじゃないだろう?」
目的が当初の予想通りエサならば、リードを誘うように、宿の窓の外に現われるなんておかしい。退治してくれと言っているようなものだ。
「ヒトとは、全く悲しい生き物だな。己の愚かさにも気づかぬ」
「お前こそ、思い上がるな。ヒトの世界の何を知ってる?」
不快に返すリードに、獣は、嘲笑を浮かべた。
「相手を陥れるのに、自分に言い訳しなきゃならん。自らの行動を正しいとする為にも、理由を作らなきゃならん。上を見ていても下を見ていても、足をすくわれる」
「それと、畑や民家を荒らすのと、どういう関係があるんだよ?」
獣は体をリードへと向けて、目を細め、妖しく口元を歪めた。
伝わる妖気に、リードに緊張が走る。
「目的は、お前の言うとおりエサじゃない。それから、お前でもない。全く……ヒトとは、悲しいな。自分の周りにあるものを、すべて、わかっているつもりでいる」
獣の言葉に、リードは、眉をひそめた。言っていることの、意味が掴めない。
獣は、更に続けた。
「……月の妖力が満ちる夜。魔導士の手を離れた従魔が、一体どうなるか」
「……ユキ」
目を見開いて、リードは小さく呟いた。
心臓の音が、体中で響いている。体中の血が、ざわめいている。
リードの頭に響く感情。ユキが心配だなんて、そんなことを思ったのは初めてだった。宿のほうを振り返ると、こちらへ走ってくる人影が見える。
「リード!!」
慌てた様子で駆け寄ってくるのは、ユキを任せたはずのレタールだった。
「お前、ユキはどうした?!」
声にこもる焦燥感。
レタールが答えようとした、その時、リードの頬を、鋭く光る何かが掠めていった。
駆け寄ろうとするレタールの足元に、太い針のような長い刃が突き刺さる。
リードの数メートル手前で立ち止まり、レタールは、月明かりの下に立つ黒い人獣を見つめた。
「レタール!ユキは?!」
リードの声に、レタールは、彼へと視線を戻した。
「いなくなったんだ!夕飯に行こうと思って、俺が上着取るのに後ろ向いた間に、窓から……!」
舌打ちして、リードは、改めて獣を見据えた。先ほどまでとは違う、鋭い眼差しで。
「目的はそこか……?ユキを暴れさせて、自分は手を汚さずに」
「それも、少し違うが……。月の妖力は、俺たち魔族の本能を曝け出す。いいのか?ここで問答してる間に、被害はどんどん広がるぞ?」
「分かってる!お前をさっさと片付けて、ユキを追う!」
リードが杖を振り、魔法陣を描く。描かれていくのと同時に、風があふれ、青白い光が放たれていく。
「精霊召喚・ゲイル!」
杖を地に一突きすると、青白い光の中から鋭い風を纏わせた精霊が現われた。リードと同じだけの背丈。
「攻撃!!」
風の刃を纏う精霊は、猛スピードで獣へと向かっていく。
獣は、ニヤリとした口元のまま、片手をふわりと振り上げた。
微動だにもしない。
「なっ!」
目を見開くリードの前で、精霊は、跡形もなく消え去った。
確認できたのは、消え去る寸前、縦に裂けたこと。見えない刃で、切りつけられたかのように。
「思い上がるな、リード=シーク」
獣は、何もなかったように、悠然とした姿でこちらを見ていた。
力を加減したわけではなかった。この依頼と、さしたる被害も出さない妖魔相手に使うには、もったいないほど力の強い精霊を召喚したはずだった。
感情のまま、思いっきり叩き潰すために。
しかし、悔しがっている場合ではない。
リードは、再び杖をふり、魔法陣を描き出した。そして、今度は杖を持たない手で、もう一つ小さな魔法陣を作り出す。
「従魔召喚!精霊召喚、スコール!!」
言葉と同時に、杖をつく。
二つの魔法陣が、それぞれ青白い光を放つ中、従魔と水の精霊、二つの異なる生き物が姿を現した。
「二重魔法陣……」
驚愕の思いで、レタールはリードの背中を見つめていた。高等魔導士であっても、二重魔法陣を完璧に扱えるものは少ない。
そこへ、突然、リードでも獣でもない、別のシルエットが飛び込んできた。
小さな躯。リードと同じ色の、深い青の瞳。長い黒髪。月明かりに映るそれは、紛れもない。
「ユキちゃん、危ない!!」
叫んだレタールの声は―――――。
「従魔攻撃!!」
リードの声と、唸り声を上げて地を蹴った大型の狼のような従魔に、見事にかき消されてしまった。
「ユキちゃん!!」
土煙の上がる中、レタールは、もう一度、リードに届けとばかりに叫んだ。両腕を盾にするように、顔の前で交差して行方を見守る。ゼロの視界の中で、獣と従魔のぶつかり合う音に混じって、この緊迫した場にそぐわない、リードの声が聴こえた気がした。
少しずつ晴れていく視界に、リードの背中と、彼の足にくっつく小さな姿が映る。
ユキがいる。怪我もなく、いやに元気そうだ。
ほっと息をついて、レタールは、普段のままの二人を見つめていた。
「おまっ……ユキ!何やってんだ?!」
リードの怒声に、安堵の色が窺える。
見下ろすリードの目にも、ユキは、普段と変わりなく映っていた。
「りーど、いたぁ~!」
全く状況を理解していないユキは、満面の笑みを浮かべて、リードの足にしがみついていた。
ホッとした分、リードの胸に込み上げる怒り。
「いた、じゃねー!」
「りーどぉ、おなかしゅーたぁ……」
「涙流して訴えんな!今、お前をかまってる場合じゃねーんだよ!!」
「おなかしゅーたぁー!!」
ユキは、リードの置かれた状況などお構いなしに、必死に訴えてくる。
涙に潤んだ瞳で、ぎゅっとズボンの裾をつかんで。
「どうにかしてやったらどうだ?ご主人様?」
からかうような獣の声がして、ユキはそのままに、リードは、獣を見据えて悔しそうに奥歯を噛みしめた。
召喚した従魔の姿も、精霊の姿もない。
だが、少しは効果があったようだ。獣の息があがっている。
――まずいぞ……。
足元で泣きべそをかいているユキを、ちらりと見下ろして、ため息をついた。
――……何って、まずはこいつ……。
自己防衛力があるとは、とても思えない。
おなかがすいたと喚き散らすユキを、ひとまず、引き離して持ち上げる。
「あのなぁ!目の前のあれをどうにかしないと、メシにありつけねーだろ?!とにかく、お前はっ……ユキ?お前……」
目の高さを合わせて、ようやく気がついた。
ユキは、おなかがすいてぐずっているだけだと思っていた。
しかし、この顔は。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの、この顔は――――。
「おなか、しゅーたぁ……」
今朝と、同じ顔。
ただ、ぐずっていたわけじゃない。
ユキと暮らすようになって、初めて、仕事で留守にする日、泣き止まなくて梃子摺ったことがあった。あの時も、こんな顔をしていた。なかなかやって来ないリードを心配して、様子を見に来てくれたレタールが教えてくれた。
淋しくてたまらないんだということ。
不安で仕方ないんだということ。
独りになるのは、怖いんだということ。
そういえば、昔、自分もそうだったことを聞いたことがある――――今はいない、両親に。
だから、ユキにも、リードが帰ってくる日が分かるように、レタールの提案で、カレンダーに「今日」の印と、仕事に行く日に赤い丸印をつけるようにした。
淋しくないように。
不安がなくなるように。
独りが、怖くないように。
今回のように、急に予定が変わることには弱いらしいが、それからは、仕事に行く日にも、あまりぐずらなくなった。
淋しくて、不安で、怖くて――――今朝、今と同じように、泣きべそをかいていた。眉尻を下げて、涙で一杯の瞳でジッと見つめてくる、この顔で。
「おなか、しゅーたぁ。りぃど~……ゆき……わるいこぉ」
あまりに普通の子どもすぎて、忘れかけていた。
「お前、魔族だもんな。ヒトを襲いたいのガマンして、ここまで来たのか……」
魔族――――妖魔と従魔の境目は、魔導士との契約をしているか否か。契約をした魔族には、体のどこかに、その印が刻まれている。
本来、従魔は、魔導士の命を果すと自分のいる世界へと還っていく。彼らのエネルギーの大半は、召喚時の魔導士の魔力。つまり、与えられたエサ分の働きをしてくれる。
だが、ユキは、召喚時の一時的な魔力のみで、わけもわからずここに留まっていた。
それが底をつけば、従魔が、妖魔に成り下がることもある。
今までは、魔導士・主人であるリードが傍にいて、その力によってガードできていた空腹感と妖力。
「俺が傍を離れたのと月の妖力が満ちたことで、抑えられていた本能が、暴れ出したんだ」
まるで、謝るように呟くユキの声が、リードの胸に突き刺さる。
「あれを片したら、俺がどうにかしてやる。ちょっと待ってろ」
ユキを下ろしながら、片ひざついてしゃがむリードの顔には、優しい笑みが浮んでいた。
「りーどぉ」
ズボンの裾をぎゅっと掴んで、心細げに見上げるユキの頭に、優しく乗せられた手。
「ガマンできるな?」
「……うん」
「よし、いい子だ。俺の後ろにいろよ、ユキ」
ユキの小さな頭をひと撫でして立ち上がり、リードは考えを巡らせた。
問題は、目の前の獣より、ユキの飯だ。魔力で補う術があればよし。なければ――――何か、食べさせなければならない。
家畜や動物か、最悪―――ヒト―――ということもありうる。
「妖魔を手なずけようなど、愚かにもほどがある」
リードの見据える先で、獣が、胸の高さに左手をあげた。
「うるせーよ、ほっとけ(つーか、好きで手なずけてるワケじゃねー!)」
リードも、体の前に杖を構える。
ユキは、ちゃんとリードの陰に隠れていた。目の前の獣を怖がり、出てくることはない。
再び、杖をふり、リードが魔法陣を描く。
その時、リードの目に、獣が何か呟いたように映った。
「リード、後ろ!!」
レタールの声にハッとなり、振り返ったリードに、幾本もの鋭い爪の刃が迫っていた。
素早く、杖を撫で上げるようにして、術をかけると、腕を伸ばして杖を横に構えた。風を纏わせた杖が、爪の刃を弾き飛ばした。
次の瞬間――――。
「お前は、邪魔だ。リード=シーク!」
現われたのは、身を低く構えた獣。胸の高さに掲げた右手の爪が、白く月明かりを反射している。
従魔や精霊を召喚している暇はない。
あるのは、風を纏った杖一本。
立ち上がった獣が、口の端を上げて笑う。
長い爪が、キラリと光りながら、高く振り上げられた。
ユキを後ろに逃がそうと、リードは手を伸ばした。
が、両者は突然、ユキを守るように吹き上げた風に、完全に阻まれてしまった。螺旋に吹き上がる風と、巻き上がる土煙。
「なっ、なんだ?!」
リードは、杖を盾に、吹き荒れる風の中をジッと見つめていた。徐々に大きくなるその気配を、驚愕の思いで。
――ちょっと、待て!これ……この気配。まさか、こいつ……。ユキが言うこと聞かないのも当たり前だ。俺が、コントロールできるような奴じゃない!
少しずつ姿を現す、シルエット。
――こいつ、九十年前に大じい様が封印した……
片膝をついた姿は、ユキより明らかに大きい。土煙から覗くのは、満月の光を浴びて輝く、銀色の髪。
――伝説の妖魔……シロメ……!?
伸びかけの銀の前髪から覗く瞳は、リードと同じ青色。肩に掛かるか掛からないかくらいの、癖のない髪。
伝え聞くとおりの容姿。
しかし、赤い半そでの服と黒いズボンは、まるで、昔の魔導士のようだった。
高い襟口は少し広がっていて、袖にはエメラルドグリーンのベルトが、水色の留め石でつけられている。
ゆっくりと起き上がった彼の背丈は、リードより、頭一つ分低かった。
静かな雰囲気を纏わせて、伝説の妖魔・シロメが、獣を横目で一瞥する。
獣も、そこに現われたのが何者なのかを察して、数歩後ろへと飛び退いた。
視線戻したシロメが、今度は、すぐ隣にいるリードをちらりと見やった。
「誰だ?お前」
澄んだ声。
聞き心地のよい声だが、明らかに、今の声音は不快を表している。
いかに、自分の力量を超える相手でも、強気でいなければ、こちらが獣より先に喰われてしまう。リードは、息をのみ、表情を引き締めた。
「俺は、リード=シーク。お前を召喚した魔導士だ」
シロメが、眉をひそめた。
「……リード=シーク?」
名前を繰り返して、シロメは、リードに向き直った。観察するように、ジッと見つめて、小首をかしげている。
やがて、彼から下された結論は。
「嘘だな。こんなガキが、リード=シークであるハズがない。それは、天才魔導士の名だぞ」
シロメは、腕組みをして、見下すように少し上向いて目を細めている。
完全に馬鹿にした態度を見て、リードの表情が引きつった。相手が、自分の力量を超える伝説の妖魔だろうが、関係ない。
「なめてんじゃねーぞ、ガキ」
天才魔導士じゃない、と言われたことはどうでもいい。見た目、明らかに年下な奴に、ガキ扱いされたことに腹が立つ。
「俺が、リード=シークだ!」
強調するように主張するが、シロメは、涼やかな顔をして偉そうに見下すだけ。
「ありえんな。お前、意味わかって言ってんのか?」
「もう一度言うぞ?俺は、リード=シーク。お前を召喚した、天才魔導士だ!」
一見すると、冷静な攻防。
だが、実際は、お互い我慢の限界だった。
リードの言葉を、シロメは、軽く鼻で笑い飛ばす。
「てめぇの召喚違いにも気づかない奴の、どこが天才なんだ?言ってみろ、このクソガキ」
「クソガキだぁ~~~~?!」
先にキレたのは、リードだった。
「ガキにガキ扱いされたくねーんだよ!伝説だかなんだか知らねーが、俺は魔導士で、お前は、従魔だろ?!」
怒鳴るリードをうるさいと言うかのように、シロメはそっぽを向いた。
「過程はともかく、お前は召喚されてんだよ!そもそも、なんであんなややこしい姿で出て来やがった?!この一ヶ月、役に立たねーどころか、足手まといだったんだからな!!」
静かにリードの言葉を聞いていたシロメが、怒りを露に向き直った。
「リードの名を騙る、エセ魔導士が!調子に乗ってんじゃねーぞ!!」
「足りねー脳みそに、いい加減叩き込みやがれっ!リードは俺だ!!」
「お前がリードを騙るなぁ!!」
言葉とともに、シロメの全身から発せられた妖気。シロメの怒りも、頂点に達していた。
しかし、今のリードに、そんなことは関係なかった。
譲歩ということを知らない二人の口論は、まだまだ終りそうになかった。
「誰がっ……!」
反論しようとしたリードの目に、獣が、右手を構える姿が映った。
直後、飛んで来る鋭い爪の刃。
リードが声をあげるより早く、シロメの腕が動く。振り返りもせず、爪の刃を、片手で薙ぎ払っていた。
「お前らの敵は、この俺だ!」
唸るような、獣の声が響いた。
口をはさまれたシロメが、獣に怒りの目を向ける。
次の瞬間、シロメの姿は消えていた。
続いて響いたのは、獣の、最期の短い叫び声だった。
シロメが立っている。獣の斜め前に。左腕を突き出して。
「俺にケンカを売ろうなんて、百万年早いんだよ」
シロメが腕を戻すと、獣は、血を噴出して倒れていった。
獣の体を貫いていたらしいシロメの腕は、真っ赤に染まっている。
「こんなのに梃子摺ってたなんて、やっぱりお前、リードじゃないな」
肩越しに少しだけ振り向いて、シロメは、冷たく獣を見下ろした。
真っ赤に染まった片腕に、何か持っているのが見える。
リードが目を凝らしてみても、月明かりだけでは、よく見えなかった。
肉の塊のようにも見える、何か。
シロメはそれを高く掲げ、上を向いて、大きく開けた口に入れようとしている。
赤い血を、滴らせる塊。
満月の光を浴びて、輝くそれは―――――。
「まさか、獣の心臓か……?」
目を見張るリードをよそに、シロメが、のどを鳴らして飲み込んでいく。
リードは、言葉なく、立ちすくんでいた。
血の付く指をなめながら、シロメは、チラリとリードを見やる。そして、妖しくニヤリと口の端を上げて笑った。
「何だ?こんなことでビビってんのか?たいした天才だな」
リードにも、知識はあった。
「ん~、まぁまぁかな。……しかし、妖魔じゃ、質が劣る……」
少々不満げに、感想を述べるシロメ。
ヒトを喰らう、妖魔。
リードも、魔導士という職業柄、そういう妖魔を相手にしたことだってある。
しかし、実際に食しているところを目にしたのは、これが初めてだった。正直、足がすくんだ。
「さて、改めて訊くぞ。リードは、どこだ?」
向き直るシロメに、リードは息を呑む。
次は、自分が喰われる番かもしれない。
「それ訊いて、どうする気だよ?」
先ほどより強ばった顔を見て、シロメが、嘲笑を浮かべた。
「エセ魔導士に話して、何になる?」
リードは、大きく息を吸い込んだ。
なめられている。
ビビっている場合じゃない――――厳しく自分に言い聞かせた。そして、心を落ち着けて、しっかりとシロメを見据えた。
「封印された妖魔が、偉そうにしてんじゃねーよ」
「封印?だぁれが、封印されたって?俺は、今まで一度だって封印されたことなんてない。あいつが頼むから、還ってやっただけだ」
不快に顔を歪めたシロメに、リードは、眉を寄せた。
「……封印されたんだろう?ビガラスで、暴れまわって、それで……」
「バカなこと言うな。俺が暴れたら、ビガラスなんて一日で血の海だぞ?」
言っていることは、尤もだった。
「さっさと教えろ。リードは、どこだ?」
「だぁ~からっ!リードは、俺だ!」
再び繰り返されようとしている、同じ口論。
「リード!」
少し離れた場所から呼ぶレタールに、シロメを睨みつけたまま、リードは、少し苛立った声で答えた。
「あ?!」
「その子が言ってるリード=シークって、もしかして、リードの大じい様のことじゃないの?」
レタールの指摘に、リードの頭が一気にクールダウンしていく。
「……あぁ」
納得したように呟いて、リードは、改めてシロメを見つめた。
シロメは、『大じい様』の言葉に反応して、レタールを見つめている。
先ほどまでより穏やかな顔をして、シロメは口を開いた。
「お前、何か知ってんのか?リードはどこにいる?……大じい様、か。あれから、ずいぶん経ってるからな」
懐かしそうに話すシロメに、レタールの口が重くなる。
「あ、の……リードなら、そこにいるケド……」
シロメは、一度リードを振り返り、眉を寄せてレタールを見やった。いい加減にしろとでも言うように。
「あれは違う」
「いや、彼が、大じい様の名前『リード=シーク』を継いだんだ」
シロメは、改めてリードを振り返った。時が止まったように、ジッと見つめて動かない。
すると、何かを悟ったように、シロメが僅かに目を見開いた。
やがて、ゆっくりと俯いたシロメが口を開く。
「ヒトの寿命は……俺たち妖魔と違って、ずいぶん短いと聞いた。あいつは……リードは、もういないのか?」
レタールが、リードに視線を送る。
これまでと180度違うシロメの雰囲気に、レタールはもちろん、リードも途惑っていた。
彼から感じ取れるのは、怒りではなく、哀しみ。苛立ちではなく、淋しさ。傲慢は、すっかり姿を消していた。あるのは、孤独な姿。小さな小さな、独りの少年の姿。
「大じい様なら」
遠慮がちに、リードが言葉をのせる。
「俺が生れる、ずいぶん前に……亡くなってる」
シロメが、ビクッと体を震わせた。
「………そうか……」
小さく答えた声が、微かに震えているように、二人の耳には聞こえた気がした。
温かな風が、三人の間を吹き抜けていく。
立ち上がる土煙に、リードもレタールも顔の前に腕をかざし、目を細めた。
少しして収まった風の通り路に、小さな小さなシルエット。
地に、丸まって眠っているのは。
「用が済んだら、還れよな」
独りごとを呟きながら、リードが、小さく眠るユキへと歩み寄る。
今朝、着せた服。見慣れた、肩まで伸びた黒い髪。裸足で来たらしく、足は汚れている。
そして―――――。
シロメが、獣の体を貫いたときの血の痕が、片腕にしっかり残されていた。
リードの胸に残る、妙なしこり。
「……リード」
レタールに促され、ひとまず、獣の亡骸を土へと還す。
「精霊召喚、ガイア」
静かな呼び声に、魔法陣から現われた大地の精霊が、獣の体を包み込んで消えていく。
それにも気づかず、ユキは、静かな寝息を立てていた。
「リード、さっきの……」
レタールが、信じられないというように、地を見つめている。獣を飲み込んでいった、大地を。
「あぁ……妖魔じゃない」
倒れた獣に近づいて、ようやく気がついた。
右側の首筋に、深緑色をした円形の複雑な模様が刻まれていた。
――あれは…確か…。
事務局の書庫で、以前見たことのある、魔導士が従魔に施す証の登録書を、リードは思い出していた。
ランク別に記録されている中で、一番後ろに記されていた証。
レタールが、そこまで知らないことを願う。
「あれって、サ……」
落ち着いた様子の中に、僅かな困惑を滲ませて、レタールが大地から顔を上げた。
彼が何か言い出す前に、リードは口を開いた。
「宿に帰るぞ」
ユキを抱き上げようと、その場にしゃがんだリードは、ふと、動きを止めた。
「ユキ?」
「どうしたの?リード」
上から、腰をかがめて、不思議そうにレタールが覗き込んでいた。
リードは、ユキを見たままで顔を上げない。
「泣いてる。ユキ……」
小さく丸まって眠るユキのまぶたから、幾筋もの涙があふれている。
抱き上げて、いつものように肩に小さな頭を預けるユキを、リードは、しっかりと抱きしめた。
「……泣くなよ」
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