第8話 逢瀬の森2
満天の星空と、濃紺の空に浮ぶいびつな形をした銀色の月。
森の湖にほど近い場所で花をつける桜の木は、淡く妖しい光をあたりに散らしていた。
寝息だけが聞こえる部屋の中、窓側のベッドで、小さな影がモゾモゾと動いた。
閉じられたカーテンの隙間から入り込む夜空の明かりで、部屋の中は、真っ暗というより幾分か明るい。
「りーど、おといれ……。りーど、りーど」
目を覚ましてユキが、同じベッドに熟睡中のリードを、精一杯揺さぶった。
「ん、あ~……分かった、分かった……」
起きたてのボーっとした顔でベッドを降りると、先に駆けていくユキを追うように、欠伸をしながら一階へとついて行く。
ダイニングの明かりをつけて、トイレの扉を開けて、ユキの準備が整ったところで。
「終ったら言えよ……」
扉を閉めて、すぐ横の壁に寄りかかる。
腕組みをして、欠伸をもう一つ。
やがて、水の流れる音が聞こえ、トイレの扉が開いた。
リードの肩あたりを過ぎていく、銀の髪。
「あのなぁ……」
怒りを含んだ声が、シロメの足を止めた。
「その姿になるなら、最初っから俺を起こすなっ。ヒトは気持ちよく寝てたってのに……」
頭を掻きつつ、リードがぼやく。
反論もしてこないシロメを置いて、リードは、先に歩き出した。
昼間、あちこち歩いたせいで、体はだるいし、眠いことこの上ない。
ダイニングの明かりを消そうと、リードは、壁のスイッチに手をかけた。
――――――ドスっ。
鈍い音、鈍い痛みが、リードの首筋から後頭部にかけて走りぬけた。
「お前の言いたいことは……よく、分かってる」
シロメの少し高い声が、静かに響いた。
シロメは、倒れていくリードの体を、横から腕を取って支えると、ゆっくりとその場に横たえた。
気を失ったリードは、起きる気配はない。
「……ダメなんだ」
逢いたいあのヒトに、よく似た姿を見下ろして、シロメは、哀しげに、そして苦しげに呟いた。
「すぐに、戻ってくるから……。一度、逢うだけだから」
静かな真夜中の町を、シロメは、森へと駆け出した。
淡く妖しくヒトを誘う、薄紅の花の下へ―――――。
楕円の月が、揺れる銀の髪に光を落としていた。
不思議な謂れのある森は、もう目の前。
心臓が、いつもより早く脈打っていた。
「…………リード……」
足を止めて、まだ、距離のある森を見つめる。
楽しそうに、嬉しそうに笑う、あの日の彼を思い出して。
二人で過ごした、最初で最後の創国祭。
彼に連れられて訪れた町は、ここより、だいぶ大きくて賑やかな観光地で、仕事にもくっついていっていたシロメには、ただ遊ぶだけの彼が、不思議だった。
『ねェ、リード。仕事は?調査しなくていーの?』
不思議そうに見上げるシロメを、あの日、彼は、本当に楽しそうに笑って見下ろした。
『有給休暇。いーだろ?たまにはこうして、普通にのんびり旅するのもさ』
『…うん!なんか、いいなっ』
彼の笑顔につられて、シロメも楽しそうに笑った。
『でしょ?でしょ?』
『で?何で、リード、子どもの俺よりはしゃいでんの?』
『だぁって、俺、誰かと旅行するの、生れて初めてなんだもん』
『……や、俺も初めてだけど……』
『シロメと来ることができて、もぉ~、すっげー幸せ!!』
『……マジ、人間がわからなくなってきた……』
幸せで、楽しくて、嬉しくて、大好きで、大切で、かけがえのない瞬間だった。
ゆっくりと、歩を進める。
あのヒトに、逢うために。
月は、だいぶ、西に傾いていた。
ゆっくりと浮き上がる意識に、レタールは、窓のほうへとゴロント寝返りを打った。
ボンヤリと目をあけて、隣のベッドを見やる。
仲良く身を寄せる二人が――――――いない。
「あれ?!」
ガバッと体を起こして、空のベッドを見つめ、思い返してみる。
ユキが、トイレと言ってリードを起こしているのは、薄っすらと覚えている。
あれは、何時だったろうか。
サイドテーブルの時計を手にとって、「まだ、こんな時間か…」と思ったような気がする。
「三時半……」
手の中の時計を見つめて、思い出す。
確か、針の角度は、鋭角だった。
俯いた、鳥のくちばしのような。
ベッドを出、レタールは、急いで下に降りる。
トイレにしては、遅すぎるだろう。
一時間以上は経っているはずだ。
階段を下りて、右へ。
「明かりが点いてる……」
扉のないダイニングへ入って、すぐ、レタールは、足を止めた。
入り口の脇に、リードが、仰向けに倒れている。
「リード!」
両膝をついて、呼吸を確かめる。
「リード!リード!」
頬を数回、軽く叩くと、小さくうめく声が返ってきた。
「リードってば!」
声を大きくして呼ぶと、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
「どうしたの?こんなとこで。ユキちゃんは?」
「殴られた……」
苦しげに顔を歪め、リードが、半身を起こした。
軽く頭を振って、息をつく。
「あのヤロウ……下手に出てりゃ、つけ上がりやがって」
「いつ下手に出たの……。常にケンカ腰じゃない」
「うるせェ!行った場所はわかってんだ。とっつかまえて、一発殴ってやるっ」
立ち上がり、リードは、宙を横にスッと撫でて、愛用の杖を取り出すと、森へと駆け出した。
胸に抱くのは、不安でも心配でもなく―――――怒り、ただ一つ。
「ぜってェ、逢わせてやんねェからな、あのクソガキ!」
まるで、森への侵入を拒むように、野原から森への入り口は、鬱蒼と木々が生い茂っていた。
シロメの深い青の瞳は、闇の向こうを見つめていた。
「……リード……」
自然と足が動いた。
心も体も、操られているように、ゆっくりと森へ分け入っていく。
あの木の下まで行けば。
妖しい色を放つ、桜の木まで行けば。
逢える――――。
胸に広がるのは、逢えることへの喜びだろうか。
それとも、現実を突きつけられることへの、不安だろうか。
夢が覚めた時への、恐怖だろうか。
心がざわついて。
強く早く、脈打っていて。
一歩、踏み出して、大地をしっかりと確かめる。
もう一歩――――ゆっくりとした歩調で、桜の木のほうへ。
誘われるように。
惹かれるように。
「リード……」
呼ぶ声は、静かに森へ散っていった。
「ヘェ……妖魔か。面白いのが、かかったな……」
湖のそばに花を咲かせる桜の木の上、幹に手をかけ、森の奥へと伸びる枝に、赤茶の長い髪の妖魔が、一人座っていた。
薄いグリーンの目を細め、口の端を上げて笑う。
「今夜のメインディッシュ……にしてもいいけど……しばらく、あいつの記憶で遊んでやるか……」
薄紅の花が散る。
風に乗り、儚い逢瀬を待つ者の元へと。
「リード……」
縋るように、彼を呼ぶ。
森の入り口から、桜の木までは、そんなに距離はないはずだ。
町の人たちが、仕事の合間や帰路の途中に立ち寄り、子どもの足でも気軽に来ることのできる場所。
話からすると、もう、見えてもいいはず。
「……リード」
景色は、ずっと変わらず、月と星の明かりだけの暗い森。
ここは、逢いたいと強く想っているヒトに、逢うことのできる森のはずなのに。
「……リード、どこにいるの?」
足が止まる。
どんなに願っても、逢えない―――――そんな気がしてきた。
「俺が妖魔だから?……だから、逢えないの?」
声は、どんどん気弱になっていく。
『シロメ……』
体が反応した。
神経を集中させて、耳をじっとすませる。
瞳だけを動かして、辺りを窺う。
『シロメ……俺は、大好きだよ?シロメの事』
「お……俺っ」
聞こえた声に、シロメは、宙へ言葉を投げる。
あの日、言えなかったことがある。
あの日、言いたかったことがある。
あの人に、伝えたいことがある。
『俺が、妖魔と人とが共に暮らせる場所に、必ずしてみせる』
「リードっ……」
言葉と一緒に、涙まで溢れそうで、うまく音にならない。
『その時が来たら、必ず呼んでやる』
あの人と一緒だった、最後の時。
シロメは、歯を食いしばり、泣きそうな顔で俯いた。
『そしたら……そん時は、家族になろうな』
一度も忘れなかった、あの笑顔が、シロメの脳裏に、鮮やかに甦った。
『シロメ……おいで』
声がする。
逢えるのなら、何だっていい。
言葉が交わせるのなら、罠だって、何だって。
ゆっくりと、泣きそうな顔のまま、前へ一歩踏み出した。
『早くおいで。逢いたいよ、シロメ』
シロメの鼻先を掠める、水の香りと、ほのかに甘い花の香り。
桜の木は、すぐそこらしい。
心臓の音が、全身に響いている。
『あれから、ずいぶん経ってるからなぁ。大きくなったんだろうなぁ』
「リード、俺っ……」
月明かりが、シロメの銀の髪に光を降らせる。
キラキラと光を反射する、肩の長さの髪が、スッと闇を吸い込むように色を変えた。
この先で待っているはずの彼と同じ、艶やかな黒へと。
『シロメ……』
右にある湖へと、風が吹いた。
薄紅の花びらが、静かに散っている。
シロメは、前方を見つめ、僅かに目を見開いて足を止めた。
風に乗り、舞う花びらの中に、人影が見える。
彼らしい、カジュアルな服。
優しくて、迷いのない眼差しと、柔らかな笑みをたたえる口元。
「リード」
彼の口が、名を呼ぶ形に動く。
―――――が。
「シロメっ!!」
駆け出そうとしたシロメの体は、怒りを含んだ声がした直後、後ろへと思いっきり引っ張り飛ばされた。
抵抗の間もなく投げられて、尻から頭にかけて、鈍い痛みが走った。
頭を擦りながら、半身を起こすと、最初に目に入ったのは、かなりご立腹の様子の二代目の姿だった。
斜め後ろから月明かりを浴びて、じっとシロメを見下ろしている。
「てめェ……思いっきり人の頭、殴りやがって!ただで済むと思うなよ?!」
二代目を見上げるシロメの表情が、苛立ちに変わっていく。
よく似た黒髪。
よく似た深い青の瞳。
「お前じゃない……。お前に逢いに来たんじゃない!どけ、エセ魔導士!」
「……エロ魔導士のが、よっぽどマシだな」
独りごとのように呟いて、リードは、シロメに背を向けた。
「お前とのケリは、とりあえず、妖魔退治の後だ。それまで森の外で、レタールとおとなしく待ってろ。こんな夜中にウロウロしてんじゃねェよ、クソガキ」
『シロメ?どうしたの?』
自分を呼ぶ、大好きな声に応えようと、口を開きかけたシロメの目が捉えたのは、桜の木のそばに立つあの人を、力いっぱい殴り倒す、二代目の姿だった。
「おい、妖魔……」
声のトーンが、普段よりずいぶんと低い。
「お前に言いたいことが二つある……」
背を見つめているだけなのに、彼が、どんな顔をしているのか、何故か手に取るように分かった。
「とりあえず、そこから降りて来い!」
舞うように散っていた桜の花びらが、静かに動きを止めた。
花をつけた枝の一つが、ゆらりとしなる。
二代目とシロメの間に、弧を描いて降り立った。
シロメと向き合う形で、二代目に背を向けて立つのは、赤茶の長い髪に薄いグリーンの瞳をした妖魔。
髪と同色の三角の大きな耳が、ピンと、斜めに立っていた。
「もう少しで、感動の再会だったのになぁ?」
意地悪にニヤリと笑って、妖魔が、半身を起こしたままのシロメを見下ろした。
外見だけから判断すれば、シロメと同じくらいの年齢の少年。
『残念だなぁ、シロメ』
耳に届いたあの人の声に、シロメは、目を見開いた。
目の前のこの妖魔が起こしている現象だと分かっていても、体が反応してしまう。
動けないでいるシロメの瞳は、二代目が、今度は、妖魔を殴り倒すさまを、ただ呆然と追っていた。
「人の記憶おもちゃにして、あそんでんじゃねェぞ、コラ」
真剣な眼差しは、怒りだけをそこへ浮かべていた。
「おい、シロメ。何、ボーっとしてんだよ。さっさと森から出てろ」
二代目が怒ってることは、分かっている。
何故、こんなに怒っているのか、それが分からない。
疑問を素直に顔に出して見上げていると、二代目は、小さく舌打ちをした。
右の手で、スッと宙を撫で、杖を取り出すと、両手で中心を持ち、まっすぐシロメに向けて左に一回転させる。
シロメの体は、光に包まれていった。
二代目が、杖の先の銀細工をシロメに向けると、光と共に、シロメの体は、地面から消えていく。
「こいつが、どんな気持ちでリード=シークを待ってたのか、知ってるか?……覚悟しろよ、ガキ」
消えていくシロメを見つめたままで、リードは、自分を威嚇する妖魔へ、深い深い怒りを向けた。
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