かわいい従魔の育て方

久下ハル

第1話 天才魔導士

 むかしむかし、ビガラスの町に、シロメと名のる一匹の妖魔が現われました。

 髪は、光り輝く銀。目は、深い海の青。小さな子どものような妖魔は、鋭い爪で人々を襲い、肉を喰らっておりました。

 人々は、どうすることもできず、ただ恐怖に怯えるだけでした。

 何人もの魔導士が、この妖魔を退治しようと試みましたが、棲家にしている森に入っていって帰ってきた者はいません。犠牲は増える一方です。

 ただ、大人しく喰われるのを待つしかないのかと、人々が諦めかけたその時、一人の魔導士が現われました。

 黒い髪に深い青の目をした、若い若い魔導士でした。

 名前を、リード=シーク。

 優しく穏かに笑う彼は、最年少の高等魔導士で、年はまだ、二十代半ば。

 妖魔の棲む森へと向かった彼は、死闘の末、見事、町を恐怖へ陥れていた妖魔を封じ込め、無事、帰還したのでした。

 九十年経った今も、妖魔・シロメは、天才魔導士・リード=シークの力によって、封印されているのです。








 カクテュス大陸にある、大小様々な国の一つ、ライトレーク。

 妖魔蠢くこの世界において、妖魔を滅することのできる魔導士は、重要な役割を担っていた。





Ⅰ・天才魔導士



 カーテンの隙間から漏れる朝日が、さっきからずっと、起きろと言わんばかりにリードの顔を照らしていた。

 仕方なく目を開けると、背中に感じるもう一つの寝息。

 自分は、生まれ育ったこの家で、もう何年も一人暮らしをしているハズ。

 加えて、この家に、引っ掛けた女を連れ込むなんてしない。

 シーツの中で、まだボーっとする頭を覚醒させながら、ゆっくりと思い出す。

「……そうだった……」

 もう、かれこれ一ヶ月近くなるというのに、未だに慣れない。目が覚めて、背中に感じる人肌に。

「おい……起きろよ、ユキ」

 半身を起こし、欠伸をしながら、横で眠る小さな小さな同居人を起こしにかかる。人の年で言えば、二歳くらいだろうか。

 体をゆすれば、小さく身じろぎをして、コテンとこちらに寝返りをうった。

 ため息をついて、もう一度、体をゆする。

「ユキ、朝……」

 リードの声に反応して、柔らかなまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。二、三回、ぱちぱちとまばたきをして、ベッドの上に、ゆっくりと体を起こす。それから、小さな両手でごしごしと目をこすった。

「りーどぉ……」

 小さな腕を精一杯伸ばして、抱っこをねだる。

 朝からぐずられるなんて、面倒でしかない。リードは、せがまれるままに、ユキを抱き上げた。

 ここ一ヶ月の日課である。

 小さな背中をポンポンとやさしく叩けば、頭をリードの肩に預けて人差し指を咥える。

 これも、日課の一つ。


――なんだって、こんなことになったんだか……。まだ、二十三になったばっかだってのに。ライトレーク国No.1とも言われる、天才魔導士・リード=シークだぞ、俺は。この国の英雄である大じい様の名を受け継ぐ男だぞ?!――


 それでも、突き放せない、腕の中の小さな男の子。

 息子じゃない。

 いくら、肩にかかる程の髪が、同じ黒のストレートであろうとも。いくら、瞳の色が、同じ深い青であろうとも。

 断じて、息子じゃない。



 始まりは、一ヶ月と、五日前―――――。



 魔導士資格を持つリードが、依頼を受けて行った妖魔退治。

 国に従事し、中央公所を通じて事務局へと持ち込まれる依頼の中でも、難易度の高い仕事を受け持つ、高等魔導士、通称・マスター。その中でも、トップクラスの技能を持つリード=シークにとって、それは、さほど難しい仕事ではなく、なんの問題もない―――ハズだった。

 あのハプニングさえなければ――――。



 若草色の高い襟のついた、白のジップアップジャケット。胸の辺りで留めるようになった、二つの短い緑のベルトには、青いボタンがつけられている。広がった袖口には、リード愛用の杖の先についた飾りと同じ模様が、ラベンダー色で描かれていた。

 魔導士の正装に身を包み、リードは、月明かりの森の中に佇んでいる。

 巨大な蜥蜴のような姿をした妖魔が、威嚇をしながらリードに迫っていた。

「俺が、出るほどでもないだろうに……」

 唸り声をあげる妖魔を見上げ、リードは、持っている銀の細工のついた杖を振り、空中に魔法陣を描き出した。

「従魔召喚!!」

 体の正面に突き立てた杖を、両手で支える。

 空中に描き出した魔法陣から、青白い光があふれた。

 そこから、魔導士と契約を結んだ力ある従魔が現われる。獣型か、人型か、もしくは精霊か。それは、魔法陣の描き方によって変わる。思い描く契約者が現われるかどうか、より能力の高い契約者が現われるかどうか、そこで、魔導士のレベルが分れるのだ。

 妖魔を一撃で倒せる従魔を――――いつもなら。

「……何?」

 光が収まり、目の前に現われた従魔に、リードは数秒固まった。

 自分と妖魔との間で地面にぺたんと座る、ヒトの姿をした二、三歳ほどの小さな男の子。肩にかかる黒い髪が、横からの風に揺れている。

 あまりのことに、一緒になって固まっていた妖魔が、思い出したように唸り声をあげた。

「……マジかよ。一応、やってみるか……。従魔、攻撃」

 小さな小さな従魔は、やる気ないリードの声に振り返り、再び前を向いて、つぶらな青い瞳で自分の数十倍はある妖魔を見上げた。

「……うぇっ……」

 しゃくりあげる声。

 頭を過ぎる、いやな予感。

 直後、響いたのは、思ったとおり、大音量の泣き声だった。

 足にしがみついて泣きじゃくる従魔に、リードは頭を抱えた。

「何やってんだよっ!召喚されてんだから、やれよっ!」

 怒鳴りつければ、足元で、首を大きく横に振った。

 一向に泣き止む気配はない。

「ヤダじゃねーよ!お前、仮にも、この天才魔導士・リード=シークに呼び出された従魔だろ!!」

 ズボンの裾をぎゅっと握り締め、再び、従魔は首を大きく横に振った。


――俺が何したってんだよ……。どこで何、間違ったってんだよぉ――


 心の中でぼやいたところで、現状は変わらない。

 現われた従魔がたいしたことないと悟ったか、妖魔は、唸り声を上げて迫ってくる。

「くっそ!精霊召喚!フレイア!!」

 リードの描いた魔法陣から、今度は、炎の精霊が現われた。

 精霊の放つオレンジ色のまぶしい炎で、巨大な妖魔が包み込まれる。

 妖魔が、最期の唸り声をあげた。



 そして、召喚した精霊は消え、何故か、幼い従魔・ユキだけが残り、今に至る。

 慣れない幼児の扱いに、報告書はなかなか書けない上に寝不足と、踏んだり蹴ったりの一夜だった。



 普通なら、妖魔を倒した後、召喚された者たちは、役目を終えて自分たちのあるべき場所へ還って行くはずなのだが、ユキは、わけもわからないまま居座っている。

 魔導士に仕事を振り分ける事務局へ、ユキを腕に抱き抱えて、今回の報告がてら相談に行ってみた。

 報告書を渡す窓口で、ガラスを隔ててワケを話す。

「原則として、こちらでは、お預かりすることは出来ません」

 予想していた通りの返事が返ってきた。

「じゃ、例外ってことで…」

「出来ません。従魔は、基本的に召喚したものが、責任を持ち扱うということになっておりますので」

「(んなこたぁ、分かってるよ!)そこを、なんとか、さぁ」

「どうしても、と仰るのでしたら……」

 ようやく折れてくれたと、リードの顔がパッと輝いた―――――が。

 続いた言葉は。

「こちらで、処理いたしますが」

 言葉の中に、なにやら、物騒な響きがした。

「……処理?」

「はい。あまり気は進みませんが、抹殺か封印ということになります」

 淡々と告げる事務局員と、腕の中で眠る幼い従魔とを、交互に見やる。

 そして、深く息を吐くと、報告書の提出後、ユキを抱いたまま、リードは事務局を後にした。



 抹殺も封印も選べなかった。

 こんな――――こんな、幼い子どもに。



 「自らが責任を持ち扱う」と決めて手元に置いたはいいが、何せ、わけのわかっていない幼児。

 リードがまず、まいったのは、名前すらわからないという事態だった。仕方なく、彼の白く日に焼けてない肌の色から、昔読んだ童話を思い出し「ユキ」と名づけてやる。すると、嬉しそうに何度も自分の名前を繰り返す――――この姿が、妙にかわいくて、自然と、リードの頬は緩んでいた。





 そして、今日も、ユキは牛乳とにらめっこ。

 小さい体をグッと縮めて、コップの中の牛乳と、目の高さを合わせて睨みつけている。サラダもトーストもスープもたいらげて、テーブルに残っているのは、大嫌いな牛乳と、大好きなデザート。リードが、デザートは全部食べ終わってから、と叩き込んだため、ユキにとって、今や牛乳は天敵と化していた。

 リードが、ジッと待っているのは、五分が限界。

 忙しい朝に、それ以上の時間はとりたくない。

「ユキぃ~、睨んでたって、牛乳は減らないぞ?」

 他の食器を片付け終わり、リードは、ユキの正面に腰掛けて、ウンザリした視線を送る。 

それでもユキは、変わることなく、コップの中の牛乳を睨み続けていた。

 もう、最後の手段しかない。

「飲まないなら、デザートはなしだな」

 今朝のデザート、フルーツヨーグルトの入った皿にリードの手が伸びる。

 牛乳を睨んでいたユキの顔が、泣きそうにリードを見つめた。

「いやぁ~ん」

「なら、早く飲めよ」

「いや~ぁ……」

 答えた声が、最初よりも小さくなった。

 大好きなデザートは、リードの手の中にある。デザートと牛乳を交互に見つめていたユキが、ようやくコップに手を伸ばした。

 ――――が。

「ユキ、早く」

 ユキの手は、コップを握ったところで止まった。

 冷たいのがいやなのかと、温めたこともある。味をごまかすために、ココアやイチゴ味にしたこともある。

 しかし、一度インプットされた牛乳の味というものは、なかなか消えてはくれず、結果、どれも失敗に終った。

「一口でいいから、早く飲め」

 毎朝の光景ながら、ため息が出た。

 ユキは、眉尻を下げて、正面にいるリードを見上げている。

「ひとくち?」

「あぁ。その代わり、デザートも半分な」

「いや~ぁ」

「じゃ、全部飲めよ」

「……ひとくち」

 呟くユキが、両手で持つコップを口へと運ぶ。

 ユキのノドが少しだけ動いて、コップの中が少しだけ減ったことを確かめると、リードは、デザートを半分に分けてからユキに返してやった。

 残り半分は、リードの口の中へ。

 ユキは、満面の笑みを浮かべて、フルーツヨーグルトを頬張っている。

 二口目を口に入れて、ユキは、ふと動きを止めた。スプーンを口に咥えたまま、ジッと、目の前に座るリードを見つめる。

 自分が残した分の牛乳を飲み干しているリードを。

ユキは、ずっと、牛乳と格闘していて気がつかなかった。リードが、いつの間にか、魔導士の正装に着替えている。

 ユキは、リビングの壁にかかったカレンダーを振り返り、「今日」の印のある日から、一番近い赤い丸印を探した。

 リードが仕事に出かける日につけてある、赤の丸印。そこから数えて五日後は、二日間休み、というのが、大体のパターンだった。

 今日は、休みのはず。昨日、仕事から帰ってきたばかりだ。

 ナゼ、この人は、制服を着ているんだろうか。

「何、ボーっとしてんだよ?早く食えよ」

 思い出したように、ユキは、フルーツヨーグルトを頬張った。口の中に広がる、幸せの味。きれいに食べ終えると、皿をキッチンシンクへ持っていき、すぐ後ろのリビングにいるリードの元へ駆け寄った。

 リードは、ソファとテーブルの間に立って、ユキのカバンを持ってあれこれ詰めていた。

 ふと手を止めて、足元で見上げてくるユキに視線をやる。

「……スモックは~、いっか。今日は、パペットランド休みだし」

 リードが仕事で留守にしている間、ユキを預けておくパペットランドは、リードの友人レタール=オーランドが経営する、小さな保育所だ。

 何日か家を空けるときでも、レタールが預かっていてくれる。

 レタールは、明るくて人付き合いがよく、世話好きな、同い年の幼なじみだ。自分より、よほどしっかりしていて、ずいぶん前から大人だという印象がある。魔導についての知識はあるが、魔導士になる気はないらしい。

「ユキ、上着とハンカチとティッシュ、そこに置いてあるだろ?自分で用意しろ」

 パペットランドに持っていくぞうさんカバン。サイドに大きな耳のついた、ぞうさん色のお気に入り。

 紺色の上着と、タオルハンカチにポケットティッシュ。そして、お仕事服を着たリード。極めつけに、ソファに置かれたお泊まり用のサルカバン。かわいいサルの絵が真ん中に一つ描かれたトートバックも、ぞうさんの次に気に入っているカバン。

 ユキは、ようやく事態を理解した。

 やっと帰ってきたのに。

 いい子でお留守番していたのに。

 今日と明日は、休みのはずなのに、リードが仕事に出かけてしまう!

 途端に、ユキは表情を変えた。俯いて、眉をグッと寄せ、口を尖らせたまま動かない。

「ユ~キ、ホラ、上着」

 不機嫌になったユキに気づき、リードはため息をついてから、上着を着せようとしゃがみこんだ。

 ソファにおいていた紺色のジップアップの上着を手にとって、ユキの顔の高さに合わせて広げる。

 ユキが、渋々、上着に腕を通した。

 ぞうさんカバンを斜めにかけさせて、タオルハンカチとポケットティッシュを上着のポッケに入れたら、出かける準備は完了。

 いつもなら、自ら進んで行う行為だが、今日ばかりは不貞腐れたまま動かない。

 リードは、仕方なしに、ユキの手を取った。

 リードに手を引かれ、明るい色の木のローカを玄関に向かうユキは、まだ、口を尖らせて俯いていた。

 ユキが、お出かけ靴に履きかえる間に、赤い綿の帽子をしっかりとかぶせると、出かける前のチェックが始まる。

「ハイ、ユキ。ハンカチは?」

 不貞腐れた顔のままで、いつものようにユキは、上着のポッケからハンカチを出して、リードに見せた。

「よし。ティッシュ」

 同様に、ハンカチをしまって、ティッシュを取り出す。

「よっしゃ、出かけるか」

 ユキを抱き上げると、リードは、玄関の扉を開けた。






 仕事に出かけるには、もったいないくらいのいい天気。

 柔らかな日差し、穏やかな空気。

 そして――――目に涙を浮かべて、口をぎゅっと横に結んだ、腕の中のユキ。

 この天気に全く似合わない。

 小さな腕をリードの首へ回し、右の肩にあごを乗せる形で、遠くなる景色を睨みつけている。

 会話なし。

 いつもは、ユキが耳元で、わけのわからない歌を歌っていたり、好奇心旺盛にいろいろ訊いてきたりと、うるさいくらいだ。

 なのに、今日はなんとなく、空気が重い。

 ユキのいないほうへ、顔を向けて息を吐く。

いつもは、ユキが耳元で、わけのわからない歌を歌っていたり、好奇心旺盛にいろいろ訊いてきたりと、うるさいくらいだ。

 なのに、今日はなんとなく、空気が重い。

 ユキのいないほうへ、顔を向けて息を吐く。

 すると、目的の場所が見えてきた。

 ユキを預けるレタールの家は、ライトレーク国の首都・ビガラスの郊外にあるリードの家から、中心街へと、徒歩で十分程行った場所にある。

 パペットランドのすぐ隣。

 赤い屋根に、白い壁。

「ホラ、ユキ。レタ先生の家が見えてきたぞ」

 ユキは、レタールがお気に入りだ。

 意外と人見知りをする性格のユキが、何の警戒もなく懐いたのは、レタールだけだった。

 彼の家に着くまでに宥めておこうと、かけた言葉だった―――――のに。

「う、うぁ~~~~!!」

 リードのセリフは、ユキの涙の堰を、見事に叩き切っていた。

「あ~~~~~~!!」

 レタ先生の家へ行く=リードがいなくなる=お留守番。

 どれだけ気に入っている人よりも、リードといるほうがいい――――などということに、リードが気づくはずもない。

 いい加減、ウンザリ気味のリードは、足を速めた。

 一軒だけ離れて建つ我が家とは違い、ここは住宅街。家がひしめき合う中心部ほど密集してはいないが、広い庭や、緑豊かな牧場地のおかげで、余計に泣き声が響いていた。

 時々顔を出してくる住人たちに、少々引きつった愛想笑いを向けながら、リードは、土のままの道を曲がった。

 街の中心部へと続く大きな通りを横に入り、両脇に緑の牧場が広がる、舗装されてない道の突き当たりに、赤い屋根と白い壁が見える。その手前に、若草色の屋根に空色の壁をした、パペットランドがある。

 もうすぐ、レタールの家。

 ユキは、全く泣き止まない。顔を肩にうずめてみたり、空を仰いでみたり。


――また、鼻水ついてんなぁ~……


 時折聴こえる、「ズズズッ」という音に、自分の右肩を思いやると、ため息が出た。

 最初に泣いた、召喚したてのあの時も、妖魔を倒してよくよく自分の足元を見てみると、付いていた。

 光に反射する液体が。

 ユキが顔をこすりつけていた辺りに、しっかりと。

 濃い茶の色をした木の扉の前に立ち、リードは、数回ノックをしながら、早く出て来いと念じていた。

「はい、は~い」

 すぐに、中から軽い響きが聞こえて、扉が内側に開けられた。

 玄関に立つレタールの色素の薄い茶色の髪が、太陽の光を浴びて、キラキラ光っている。

 ユキの涙は、ピークを超えてはいるが、まだまだ、泣き足りない様子。

「おはよう、ユキちゃん♪」

 背を向けて泣きじゃくるユキに、レタールは笑顔で朝のあいさつをした。

 振り向きそうにない。

 仕方なく、レタールは、その大きな天色の瞳をリードに向けてきた。

「ナニ、今日は、ずいぶん荒れてんねェ」

「あぁ」

 そう、いつもなら、パペットランドの手前でリードの腕からするりと降りて、お気に入りのレタールのところへ、トコトコ駆けていくのに。そして、彼に抱っこされて、ご機嫌でリードを見送る。

 しかし、今日のユキの顔は、涙と鼻水だらけ。

 それでも、レタールの声を聞いて少し安心したのか、ただ単に泣き疲れただけなのか、ユキの涙は、収まり始めていた。

「良心が痛まない?」

 ようやく振り向いてくれたユキの頭を、レタールは優しく撫でた。

「俺に言うな」

「口の悪いパパだね~?」

 笑顔を向ける先は、当然ユキ。

「パパじゃねーよ!」

「パパみたいなモンでしょ?外見そっくりだし。それに、ちゃ~んと育ててんだからさぁ。さ、ユキちゃん、パパ、お仕事だから、ニッコリ笑って『いってらっしゃい』言おうかー?」

 まだ、リードに抱っこされたままのユキに、レタールが腕を差し出す。

しかし、ユキは、キュッと小さくなって、リードの胸に顔をうずめてしまった。

「ヤだってよ?」

「おい!」

 レタールは、呑気に笑っている。

「諦めてんじゃねーよ。子連れで妖魔退治が出来るか!」

「休日のはずだろ?」

 家の中のカレンダーを振り返って、レタールは、日付と赤い印を確認した。

 レタールの家のカレンダーも、リードの家のものと同様に、「今日」の印と、リードの仕事の日に赤い丸印が付いている。ユキを預かっているときも、ユキが、リードの帰ってくる日を確認できるように、という、レタールの配慮だ。

「文句なら、事務局に言ってくれ。ったく、あいつら、俺に面倒なことばっかやらせやがって」

「仕方ないんじゃない?いかなる従魔も精霊も、召喚し、コントロールできる高等魔導士・マスターってのは、そう数いるわけじゃないし。その若さなら、尚更だよ」

「こき使えるヤツが、少ねーってわけだ」

「そういうこと」

 面倒だと言わんばかりのリードと、宥めているのか、おもしろがっているのか分からないレタールとを、ユキは、交互に見つめていた。

 まだ、涙は頬を伝うし、しゃくりあげては鼻水をすすっている。

 しかし、だいぶ落ち着いたようだ。

「ユキちゃん、先生と絵本でも読む?ぞうさんの絵本」

 抱っこされているユキと、レタールは、目の高さを合わせて微笑んだ。

 レタールの言葉に反応して、ユキの動きが、ピタリと止まる。袖でグイグイと、ぬれたホッペと目の周りを拭い、ユキは、ようやく、レタールへと小さな腕を伸ばした。

 まるで、何かの魔法のような出来事。

 リードが感心している間に、ユキは、レタールの腕の中へと移動していた。

 レタールの腕の中、こちらを見やるユキの顔に、涙はないが、ヘタな事を言うと泣き出しそうなことに変わりはない。

「じゃ、頼むな。明後日の昼には帰れると思うから」

 あえてユキとは視線を合わせずに、リードは踵を返した――――が。

「ホラ、ユキちゃん、パパに行ってらっしゃい」

「いってらっちゃい……」

 背中で聞こえた会話に、思わず振り返る。

「パパって言うな!」

 振り返ったとたん、ユキとバッチリ目が合った。

 小さく手を振っていた、ユキの動きが止まる。一瞬の間の後、ユキの顔が、一気に涙に歪んでいく。


――うわっ、やっべ!!


 大泣きされる前にさっさと姿を消そうと、リードは、再び、くるりと背を向けた。

 とたんに、聞こえてくるユキの泣き声。

「あれでも、従魔か?あいつは……」

 ぼやきながら、リードは、胸の高さで右の腕をまっすぐに伸ばすと、宙を横へスッと撫でた。

 リードの手に、愛用の杖が現われた。

 手にした杖を、一回転させて、先についた銀の細工で円を描く。そして、トンッと、杖で地面を一突きすると、リードの体は光に包まれ消えていった。

 高等魔導士の扱える、移動術。

 精神を全く集中させないで、この術をやってのけるリードに、レタールは、毎度感心させられていた。

「りーどぉ~」

 もっとも、今は、それどころではないが。

 涙でぐしゃぐしゃのユキを、どうにかしなくてはならない。ここはひとまず、余韻を持たせず。


――さっさと中に入って、話題を変えよう


 ユキを抱え、レタールは、開け放していた扉から家へ入った。後ろ手で扉を閉めると、少し涙の収まったユキを、台所へと連れて行く。

「ココア入れよっか?ユキちゃん」

 尋ねると、ユキは涙の残る顔をあげ、レタールを見つめて頷いた。

 少し気持ちが浮上してきたようだ。

「ユキちゃん、自分でかき混ぜる?」

「まぜる」

「よ~し。じゃ、あっちでイスに座って待ってて」

 ユキを下ろすと、レタールは、二人分のココアを作り始めた。背後で、ユキがイスに登る音が聞こえる。

「れたてんて~、これなぁに?」

 カップにお湯を注ぎながら、チラリとユキを振り返る。

 どうやら、テーブルに置いたままの、作りかけのパペットたちを見ているらしい。

「あぁ、それ?今度、パペットランドで使うやつだよ。針、危ないから、触らないでね?」

「あーい」

 ユキの良い返事を聞きながら、レタールは、温かいココアの入ったカップを、両手に一つずつ持ってテーブルへ歩み寄る。

 ユキの関心は、上手くパペットへと移ったようだ。

「はい、どうぞ。熱いから、気をつけてね?」

「あ~い」

 返事をするユキの顔には、もう、涙の痕はなかった。

 取っ手に小さな手をかけて、こぼさないように、ゆっくりとスプーンを回しながら、ジッとココアを見つめている。

 ユキのかわいい姿に目を細め、レタールは、中断していたパペット作りを再開した。

「れたてんて~、ぞうたんつくってるの?」

 気づけば、ユキがココアをかき混ぜる手を止めて、レタールの手元を興味深げに見つめていた。

「そうだよぉ。ユキちゃん、ぞうさん好き?」

「つきぃ~!」

 ニッコリと満面の笑みを浮かべたユキに、レタールの笑顔も、自然と深くなった。

「ユキちゃん、今日は、何の絵本読もうか?」

 パペットを仕上げながら、ユキに尋ねる。

 至福の笑みでココアを飲んでいたユキが、顔を上げてかわいく笑った。口の周りにココアのひげをくっつけて。

「ぞうたん!!」

「ホント、ぞうさん好きだねぇ~、ユキちゃん」

 ユキを見て、ニコニコ笑うレタールは、不意に窓の外へと視線を移した。

 少しだけ、真剣な顔で外を見据えた後は、何もなかったように、すぐ笑顔に戻す。

「そうだ!今日は、絵本読んだらお弁当持ってお出かけしようか?」

「ニッコリ笑ってお出かけ?」

 ユキが、絵本の一節をまねた。

 レタールは、完成したパペットぞうさんを右手にはめて意味ありげな笑みを浮かべた。

「そう。天気もいいしね。確か、リードの仕事先もそう遠くないハズだから、二人で行ってビックリさせちゃおう!」

「おでかけ♪おでかけ♪」

 残りのココアを一気に飲み干したユキを抱え、イスを一つ片手に持って、レタールは、再び台所へ向かった。ぞうさんよりも(きっと)好きなリードのところへ行けると、大喜びのユキをイスの上に下ろす。

 すっかりテンションの上がってしまったユキに、おにぎりを任せ、おかずを作りながら、レタールは、絵本を読み聞かせた。

 ユキの好きな、『ぞうさんのようちえん』を。

「最初にぞうさんが行ったのは?」

「おかちづくりの、びーたん!」

 元気よく答えるユキと一緒に、お弁当を詰めていく。

 出かける準備を整えて。

 ぞうさんカバンに、サルカバンを持ったら――――。

「さぁ、ニッコリ笑って出発です」


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