第4話 リード=シーク


 宿に戻っても、ユキの涙が消えることはなかった。

 ベッドの上で胡座をかくリードのひざに、仰向けで眠っている。

「何なんだ、一体……?」

 誰に問うでもなくこぼしながら、リードは、ユキの腕を染めている赤い血を、きれいにぬぐい落としてやっていた。

 穏かな寝顔を伝う涙が、いやに、胸を締め付ける。

 シロメが、残していった一言。

 あのときの、表情。

「大じい様は、一体何をしたんだ?」

 ユキの涙が止まらない。

 俯いたシロメの姿が、頭から消えないでいた。

 九十年前に、シロメと、確かに出会っているらしい、大じい様。

 高等魔導士就任、最年少記録を持っている、すごいヒト―――――リードが、大じい様について知っているのはこれくらい。

 あとは、シロメを封印したということだが、これは、確証が持てなくなった。

 生れる前に亡くなっていて、会ったことすらない。ただ、昔を知る人には、よく、似ている、と言われる。黒いストレートの髪と、深い青の双眸。それから、魔導士としての才能。それを否定されたのは、初めてだった。


『お前は、リード=シークじゃない』


 天才と呼ばれたリード=シークを継いだのだと知ったときは、嬉しくて仕方がなかった。負けないくらいに、二代目として恥じないように、立派な魔導士になる。皆に、『リード=シーク』だと、認めてもらえるように。

 大じい様に遅れること、四年――――二十才の若さで、高等魔導士となった。

 皆が、『リード=シーク』だと、大じい様に劣らない魔導士だと、言ってくれた。

 しかし、シロメに不快な顔をされた。全く、認めようとしなかった。

「リード」

 レタールの声が、柔らかくリードの耳に届き、ふと、現実に引き戻された。

「これ、何かわかる?」

 向かいのベッドで、こちらに体を向けて座るレタールが、一冊の本を差し出していた。

 紺色の表紙は、だいぶ、古びている。

 よく見ると、上部に薄っすらと『ダイアリー』の文字が見える。

「……日記??いや、日誌か?」

「そ。リードの大じい様、初代・リード=シークの魔導師日誌だよ」

「って、何でお前がそれ持ってんだよ?」

 今まで、大じい様の遺品など、写真すら見たことがなかった。リードの家には、何一つ、残されていなかったのに。

 レタールは、紺色の日誌帳に目を落とした。そっと撫でながら、悲しげな、少し申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「ウチの実家、じい様の部屋で見つけたんだ……」

「……お前のじい様って、チーフが?何で?」

 オーランド家からは、多くの最高位魔導士・チーフ就任者が出ている。レタールの祖父、ラーゲル=オーランドも、その一人だった。

「そう、おかしいんだ。なんで、こんなもの……」

 日誌帳が、レタールの手からリードへ渡される。

 鍵をかけることも出来るが、そこは、こじ開けた痕が残るのみ。

「鍵が、壊されてる」

「あっ、ごめん。それ、俺が壊した……」

 眉間にしわを寄せて見やれば、レタールは、苦笑いを浮かべていた。

「いや、明らかに古そうだったし……裏にリード=シークってあったから、中が気になってさぁ」

「まぁ、いいけど。で?何が書いてあったんだ?」

「それがサ……」

 分からない、と言うレタールの声に疑問を抱きつつ、リードは、パラパラとページをめくった。乾いた音を立ててめくられていく古い紙の上に、見つけられたもの。

「……何も書いてねーじゃん」

「そう。何も書いてないんだ。なのに何でリードん家じゃなくて、ウチにあったのか……気にならない?」

「何か、術がかけてあるのかもな。大じい様かチーフか……先代の、チーフか……」

 日誌帳をジッと見つめていたリードは、ふと思いついて目を閉じた。

 ジッと、神経を集中させる。空いている片手を、閉じた日誌帳にかざして手のひらとの間に薄い水の渦を造り出した。やがてそれは、吸い込まれるようにして、日誌帳の中へと消えていった。

「…何で、水なの?」

「いや、別に、何となくそんな気がした」

 ボンヤリと答えて、リードは、不思議そうに紺色の本を見つめている。

 確信があって施した術じゃない。

 今まで感じたことのない、不思議な感覚だった。知識ではなく、直感。手元のそれ見つめていて、何となくそうだと感じた。ワケのわからない感覚を振り払うように、息を吐き出して、リードはもう一度開く。

 先程と同じ様に、パラパラとめくれば、白紙だったページに、今度は、黒いインクで書かれた文字が見えた。

―――――が。

「読めない」

 めくっていた手を止め、見下ろす先には、見慣れぬ文字が並んでいた。

 上から覗くレタールも、眉をひそめている。

「何語?これ」

「俺に訊くな。あ~っ!白紙にしてたイミあんのかよぉ~?!」

 何か、一語でも読める文字はないかと、リードはページを進めていく。

 部屋の中は、いやに静かだった。

 耳につくのは、ページをめくる音とユキの寝息。それから――――。


『どこまで連れてくんだよ、リード』


 ふと、聞いたことのあるような声がして、リードは顔を上げた。

「どうしたの?」

 不思議そうな顔をして、レタールが、見下ろしてくる。

「今、声がしなかったか?」

 一瞬、聴こえた『声』は空耳なんかではないと、レタールに確認する。

「……疲れてるなら、明日にする?」

 聴こえてはいないらしい。

「疲れてねェし、ボケてもねェよ!」

 不機嫌に口を尖らせて言い返してから、リードは、再び、日誌に目を落とした。先程の『声』はきっと空耳なんだと、自分に言い聞かせて。

 それでも、『声』は、リードから離れてはくれなかった。


『なぁ、リードってば~』


 リードは、目を見開いた。

 もう一度、『声』が聴こえたと同時に、それまで、さっぱり分からなかった記号の羅列が、意味ある文字へと姿を変えた。

「読める……」

 小さく声を上げたユキの頭を撫でてやりながら、リードは呟いた。

「なんて書いてあるの?」

 レタールに答えようと口を開きかけたリードは、そのまま動きを止めた。ユキの頭を撫でる手から流れ込んでくる、感情と情景。

 おかしな感覚の中、リードの視界は、ゆっくりと、白に染まっていった。






 体に自由が戻った。

 気づけば、リードは、家の中にいた。

 宿じゃない。懐かしい我が家の中に立っている。

 今の家のように改装する前の、昔の家にだ。

 しかし、リードが覚えているよりも、遥かに新しい。

 黄緑色の壁。白いキッチンシンク。茶色の木製のテーブル。

 そこにいる、二人の人物。

「リード、早くー!腹減ったぁ!」

 キッチンが正面に見える席に座り、テーブル越しに文句をたれる、六、七歳くらいの男の子。黒い髪は、ストレートのショートカット。長く伸びた前髪から覗くのは、深い青の瞳。

 どこかで、見たことのある容姿。

 間違いないのは、先程聴こえたのが、この子の声だという事。

「おまちどう!今日のは、傑作だぞ」

 キッチンで男の子に背を向けて調理していた男が、両手にスープ皿を乗せて振り返った。

 黒く短い髪と深い青の瞳。

 まるで――――。


――俺?……あ、違う。もしかして大じい様?


 黒の前髪は、リードとは違い、真ん中で分けられている。深い青の瞳は、彼の印象をかなり柔らかにしていた。

 リードとは、まるで違う雰囲気。

 しかし、外見は見事に似ていた。

「どうだ?美味そうだろ?」

 満面の笑みで、若き日の先代は、少年の前にスープを置いた。

 どうやら、リードのことは、二人には見えていないらしい。

 男の子は、目の前に置かれた若草色のスープを、訝しげに見つめている。

「見た目はね」

「見た目だけじゃないって。飲んでみな?」

 再びキッチンへと戻りながら、先代が、自信満々に告げた。

 少年は、スープがつくんじゃないかというくらいまで鼻を近づけて、匂いを確かめていた。

 緑色の液体が、少年に、警告を伝えているらしい。

「リード、これ……ブロッコリー、入ってる……」

 ギクリと身を震わせて、男は、メインディッシュの皿を両手に、少年を振り返った。何とも言えないバツの悪そうな顔で、皿をテーブルに置くと、少年の向かいに座る。

「すごい嗅覚だな、お前……」

「あっ!牛乳も入ってるっ!!リード、騙まし討ちなんて卑怯だぞ!!」

「あのなぁ、シロメ、嫌いだからって食べないでいたら、摂れる栄養だって摂れないだろう?」

 いいから食えと、先代が、スープをひと掬い少年・シロメに差し出した。


――シロメぇ?!何で、大じい様がシロメと暮らしてんだよ?!


 リードは、目の前の光景に目を丸くした。

 そういえば、どことなく、さっき見たシロメに面影がある。

 そういえば、なんとなくユキにも似ている。


――つーか、このころから牛乳嫌いなのかよ……。


 驚きの眼差しで見つめる中、差し出されたスプーンを心底嫌そうに眺めていたシロメが、覚悟を決めたように息を呑む。噛み付くようにスプーンを口に入れたシロメは、そのままの姿勢で固まった。

 眉をしかめたシロメの口から、スプーンが抜き取られる。

 シロメとは対照的に、先代は、楽しそうに笑っていた。

「どう?うまいっしょ?」

「……牛乳の味……」

「あーそうかい……」

「あ、の……でも、ちょい……うまかった……かも……」

 照れたように顔を桜色に染め、シロメは、視線を逸らして俯いた。

 ブロッコリーと牛乳という、嫌いなもの同士を組み合わせた今晩のスープに、それでも「うまい」という評価をくれたシロメの言葉が、嬉しくて仕方なかった。

 先代の顔から、笑みがこぼれる。

「でしょ?」

「でもさぁ、リード」

 照れを隠すようにして、シロメは、話題を変えた。

「なんで今日は、こんなゴージャスなの?給料日?」

 スープを掬い目の高さに持ち上げて、シロメはジッと観察している。いつもよりがんばって作った感のあるテーブルの料理と、珍しく「うまいかも」と思った、ブロッコリーと牛乳スープを。

 先代は、優しい笑みを浮かべて手を止めた。

「んー?何って、今日は、シロメと逢って半年目だろ?だから」

 嬉しげに語る先代に訝しげな顔をして、シロメは掬ったスープをそのままに、スプーンを皿へと下ろした。

「記念日ってこと?リードって、案外、ロマンチストだよな」

「だってサ、シロメ。俺、お前と知り合えて、こうして一緒に暮らせて、親友になれて、最高にうれしいんだよ?会ったばっかのお前はサ、天涯孤独で、正に獣……小動物だったけど。そんなお前がサ、一緒に暮らそうって言った俺の手をとってくれて、一緒にいてくれた。これは、記念日としてお祝いするのに十分過ぎない?」

 喜々として語る目の前の男の言葉が、うれしい反面、ものすごく気恥ずかしくて、シロメの頬は、だんだんと赤く染まっていった。

 明るくてあたたかい光に満ちたこの部屋の中、ごまかすように不貞腐れてみても、今更だった。

「……人間って、わかんねー……」

 小さく呟いて、シロメは、スープをひと口飲み込んだ。嫌いな嫌いな、ブロッコリーと牛乳のたっぷり入ったスープを。

 信じられない光景。

 リードの目は、テーブルの二人から離れない。


――大じい様とシロメが、一緒に?これじゃ、まるで今の俺とユキだろ。……いや、それ以上だ。

 

 茫然と見つめている光景が、ボンヤリとかすみ始めた。

 二人の声が、遠くなっていく。

 日誌が読めるようになったときのように、体はふわりと軽くなってきた。


――ちょっと待て!まだ、わかんねーよ、これじゃ!


 次第に視界が白く染まる中、リードは、ここにいない何かに向かって、必死に抗議をぶつけていた。






 晴れた視界に映ったのは、宿ではなく、さっきまでいた、昔の家の中だった。


――なんだ。場面が、飛んだのか……。


 納得して安心する自分に疑問を抱きつつ、リードは、ローカの先に立つ若き日の先代を見つけた。

 閉じられた扉を前にして、困ったような顔をしている。

 近くへと歩み寄れば、扉の向こうに、誰かいる気配がした。

「なぁ、シロメ……そろそろ出て来いよ」

 万策尽きたという響きは、ワケもわからず見つめるリードにすら、憂いと悲しみを感じさせた。

 どうやら、というより、やはり、扉の向こうにいるのはシロメらしい。


――ケンカ?いや、ダダこねてスネてんのか?うわぁ、あいつ、へそ曲げたら閉じこもんのかよ。気をつけよ。


 場の雰囲気にそぐわないことを考えながら、経過を見守る。

 しかし、いくら待っても、扉の向こうから返事は返ってこなかった。


――あいつの顔は見られないのかな。あ、今の俺なら、向こうにいけるかも?


 どう考えても現実ではない世界だから、もしかしたら、壁も潜り抜けられるかもしれない。

 リードは、そっと壁に片手をついた。

 若草色のそれは――――しっかりがっちり、リードを支えてくれている。


――……そこまで、都合よくねーか。


 軽く落胆するリードの耳に、シロメを呼ぶ、優しい声が聞こえる。

「シロメ。もう一週間だろ?」

 反応はない。

 切ない表情を浮かべる先代に、リードの胸も痛んでいた。

「今日は、お前の好きな肉料理だぞ?」

 精一杯、明るい口調で、扉の向こうへと話し掛ける。

「給料日だからな。ちょっといい肉、買ったんだ。あ、デザート作ろうか?久しぶりに、二人でサ。何がいい?」

 口を閉じれば、広がる静寂。

 重く重くため息をつき、先代は、そっと、扉に手を当てた。

「そこに、いるんだよな?シロメ……」

 扉に腕をつき、額をあずける。

 まるで、泣いているようだった。

「頼むから、返事をしてくれ」

 懇願に近い言葉が、静寂にのまれていく。

 リードの目に映る先代の姿は、迷子の子どもそのもの。安心できる腕を見失った、心細い姿。

 まるで、十数年前の、自分を見ているようだった。両親を、妖魔によって失った、あの時の弱い自分を。

「……どうしたんだろうな」

 呟いた先代の口元には、笑みが浮かんでいた。しかし、瞳は、やはり泣いているようだった。

「一人で暮らしてた時のが、ずっと長いのに、一週間お前の顔を見てないだけで、どうしようもなく……怖いんだ。一人なんて、もう、慣れたハズなのに……」

 苦しみにも似た先代の声は、少しだけ、震えていた。

 扉の向こうは、未だ、静かで動く気配はない。

 満ちていく、悲しい静寂。

 そこへ――――。


 ―――――トン、トン。


 迷ったような、控えめな音が、木の扉を伝わった。

 両手を扉につけたままで、先代は、体を起こした。泣いていたような顔が、安堵に緩む。

「シロメ……」

 声に反応するように、もう一度。


 ―――トン。

 

 扉を見つめる先代の口から、笑みがこぼれた。

「なんか、怒ってんのか?……何度目だろうな、これ、訊くの」

 今までより柔らかくなった表情のあちらこちらに、うれしさが見て取れる。重かった静寂も、ふわりと軽くなっていた。

「……お、怒ってないよ」

 おずおずと返された声。

 一週間ぶりに聞く、シロメの声だった。姿を見せてくれなくても、せめて、もっと聞いていたいと、先代は問いかけを続ける。

「じゃあ、どうしたんだ?もしかして、俺に怒られるようなこと、した?」

「違う……」

 すぐに返ってきた声が、先代の心をくすぐる。答えてくれることがうれしくて、そこに確かに居ることにホッとしている。

 シロメの小さな声を、全身で聞き取りながら、先代の質問は続いた。扉の向こうで、小さくうずくまっているだろうシロメを、やんわりと、解きほぐすように。

「そうだな。お前、ず~っとイイ子にしてたもんな。なら、街の人たちに、何か言われたか?俺が、説教してきてやるよ。言ってごらん?」

「ちがう……」

 返ってきた、くぐもった声。

 ひざに顔をうずめている姿が、先代の脳裏には浮かんでいた。

「シロメ……?出て来て、話を聞かせてくれないかな?」

「できない……」

 小さな声に、力いっぱい拒否された。

 胸が痛い。

 それは、二人を見守るリードも同じだった。

「シロメ、俺の顔も……見たくない?」

「ちがうっ!」

 焦って返された答えは、それまでよりもしっかりと、先代の耳に届いていた。

 それだけで、安心する。

「シロメ、どんな小さなことでもサ、ハタから見たら、すごいくだらないことでも、お前に起こったことなら俺にとっては大事件なんだ。……心配で、たまらない……」

「だって……」

 シロメの声が、涙にぬれていた。

「だって……今……リード見たら、リードのこと襲っちゃう。……リードを喰っちゃうよ……!」

 シロメの悲痛な叫びが、ローカに立ち尽くす二人のリードの胸に、深く突き刺さっていた。

 人を食する妖魔の性。いくら、他のモノで補っても、本能が求め出してしまう。一番喰らいたいモノが傍にいて、いつまでも、抑制できるものではない。

 そんな自分を、ヒトを喰いたいと思ってしまう自分を、この人にだけは、見られたくない。孤独だった自分に、一人の淋しさすら知らなかった自分に、誰かと過ごす心地よさを教えてくれた。妖魔を滅する立場にありながら、妖魔である自分を、傍に置いてくれた。従魔としてではなく、親友として。

 大切な、大好きな、この人には――――。

 シロメの想いに、リードは、満月の下で見た、今夜のユキの泣き顔を思い出していた。


――おなかがすいたって、泣いて助けを求めたユキと、同じなんだな……。本能と、理性の間で、どうしたらいいのかわかんないで、ただ、苦しんでる……。


 シロメの、嗚咽を我慢する声が、扉越しに伝わってくる。

 何もできず、扉を見つめるだけのリードの耳に、先代の、不思議なほど穏かな声が聞こえた。

「いいよ」

 静かな響きが、周囲の音すべてを飲み込んでいた。扉の向こうにある、シロメの泣き声さえも。

「腕の一、二本……喰っていい」

 信じられない思いで、リードは、先代を見つめた。

 目を見開くリードの視線の先で、先代は、限りなく優しい笑みを浮かべている。

「出ておいで、シロメ……」

 どこまでも、優しい響き。

 それは、確かにシロメにも伝わっているらしかった。

 扉の向こうで、動く音がする。

 ――――カチャリ。

 ゆっくりと、二人を隔てていた扉が、内側へと開けられた。

 俯いたシロメが、闇の中から姿を現す。

 シロメと視線を合わせるように、先代は膝をついた。浮ぶのは、至極うれしそうな笑顔。

 その先にあるのは、涙と鼻水でグシャグシャのシロメの顔。

 先代が、手を伸ばす。何も言わずに。シロメを迎え入れるように。

 溢れる涙をぬぐいながら、シロメは、大好きな腕の中へ歩き出した。一歩踏み出せば、すぐに包まれる腕の中。あたたかさに安心したら、また、涙が零れた。しがみつくように、首に腕を回す。

「何泣いてんの、シロメ」

 軽い笑いを含んだ声が、シロメの心をくすぐった。

「うるさいっ……」

 照れくささを隠すために叩くいつもの憎まれ口が、先代の頬を更に緩める。

「……会いたかったよ」

 素直にストレートに伝えても、腕の中の小さなこの子は、きっと、ひねくれて答えるだろう。それでも、先代には、答えてくれることが何よりの喜びだった。

「恥ずかしいコト言ってんなよ、エロ魔導士」

「恥ずかしくないだろ?」

 と、否定すれば。

「エロ魔導士を否定しろよな……」

 ちゃんと、反応を返してくれる。すぐ傍で伝えてくれる。

「そこ否定したら、男じゃないでしょ?」

 先代は、嬉しくて嬉しくて、緩んだ頬が戻らない。

 腕の中のシロメも、いつもの会話が嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。

「……なぁ、シロメ」

 思い出したように、先代が切り出した。

「何だよ」

「やっぱ、腕一本じゃ、ダメ?……ホラ、両方なくなったら、俺、お前のこと養ってけないし……」

 不安げに問う先代に、シロメが、精一杯の力で抱きついてくる。

「心配しなくても喰わねーよ。リード、まずそうだからな……」

「なんか、喜んでいいのか、哀しんでいいのか、わかんないセリフだな、それ」

 何でもないように接してくれるこの人を、大切だと思う。

 改めて感じるあたたかい感情に、シロメは、ふと、不安になった。自分が妖魔で、この人が人間で魔導士である現実。

「……リード、いいの?」

「何が?あぁ、腕?」

「そうじゃなくて……サ。俺、妖魔だよ?」

 不安げなシロメの言葉と、淋しげに抱きしめてくる腕。

 先代は、軽く笑って答えた。

「知ってるよ」

「じゃ、なくて。……俺、ヒトを喰う妖魔だよ?」

 分かっている。

 シロメが何を言おうとしているのか、先代には、ちゃんと分かっていた。少し前に、シロメが、街の人たちから突きつけられたらしい事実。

「……リードの、父ちゃんと母ちゃん、殺したのと……同じ……」

「知ってるよ」

 同じ口調で、先代は繰り返した。

 会ったときから知っていた事実。それでも、愛しいと、放っておけないと、そう思ってしまったのだから仕方が無い。まだ、不安そうに抱きついてくるこの小さな子を、育てたいと。

「……いいの?」

「俺と同じに、胸を痛めてくれてる。それで十分だよ。俺は、シロメが大好きだ」

「うん……」

 シロメの付けたしたかった言葉は、溢れてくる涙にかき消されていた。

「さて」

 先代は、シロメを抱き上げて、ダイニングへと歩き出した。

「メシにしよう。腹減ったろ?デザート、何がいい?」

「桃のゼリー食べたい」

 首に腕を回したまま、シロメは、先代の肩に頭を預けて少しだけ微笑んだ。

 幸せそうな二人を見つめるリードの視界が、白く濁る。


――……やっぱり、俺が召喚していい奴じゃなかったんだ。あいつが、シロメが求めてたのは先代で……俺じゃない……。


 ボンヤリと胸の痛みを感じながら、リードは、浮遊感に身を任せ、ゆっくりと目を閉じた。

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