深淵もまたこちらをのぞいている
タブリスカ様を追放させる計画は、僕一人で練り上げた。
まずは、タブリスカ様との接触を増やすために、教典について教えを請いたいと理由をつけて、タブリスカ様の屋敷に何度となく足を運んだ。
タブリスカ様は、熱心に教義を学ぶ僕のことを次第に気に入り始めていた。
向こうから、夕食に誘うことすらあったほどだった。
ルバスタンとの関係を考えて、愛弟子である僕に対して恩を売ろうという考えも、あるいはあったのかもしれない。
その間にも、レックがタブリスカ様の居室に誘われることがあったのだが、それは体調を理由に断るようにレックには言い聞かせてあった。
レックとタブリスカ様の関係は、次第にギクシャクとしていき、レックは不安を覚えていた。
一方、教会では、次期司祭の叙階式の準備が進められつつあり、タブリスカ様自身もそのことでさまざまな人との会食が増え、忙しくなりつつあった。
作戦を決行するのに、最高のシチュエーションが完成していた。
レックの告白を聞いてから約2ヶ月後。
僕はその作戦を決行した。
教典の解釈についての質問があると、教会の聖堂にタブリスカ様を呼び出した。
「お忙しいのにお時間をいただき、ありがとうございます」
聖堂の入り口から入ってきたタブリスカ様に、僕は会釈をして声をかけた。
「後進を育てるというのも、上に立つものの役目だよ」
目尻に皺をたくさん刻みながら、タブリスカ様は僕のいる神の像の前までやってきた。
聖堂の入り口から見たら、僕とタブリスカ様のちょうど真上に神の像が見えるはずだ。
鼓動が速まる。
深呼吸を一つ、ゆっくりとしてから、僕は言葉を発した。
「タブリスカ様は、僕のことをどう思いますか」
そう言いながら、タブリスカ様に歩み寄った。
「とても勉強熱心な修道士だと……」
タブリスカ様が言い終わる前に、彼の膨よかな体に手を回し、口づけをした。
「タブリスカ様をお慰めするのは、僕ではダメですか?」
じっとタブリスカ様の目を見つめて、僕は呟いた。
タブリスカ様は驚きの表情を見せていたが、みるみるその頬は紅潮していき、息が上がっていくのが分かった。
レックとの関係が持てなくなり、もはや僕の見た目など気にならないほどに、その欲求は高まっているはずだ。
僕はローブの紐に手をかけ、それを脱ぎ去り、下着だけになった。
そしてタブリスカ様の手を取り、下着の隙間に滑り込ませた。
強張っていたタブリスカ様の手は、次第に熱を帯びて自ら動き始める。
僕の体を貪るように触りながら、下着を脱がせていく。呼吸も、次第に熱を帯びてくるのが分かった。
そしてついに、露わになった僕の体を眺めていたタブリスカ様は、虚ろな目で礼服を脱ぎ去り、その大きく膨らんだ下半身に自らの手を当てた。
「知らなかったよ。君が私のことをそんなふうに見ていたなんて。もっと早く教えてくれたら良かったのに」
タブリスカ様は、大きく肩で呼吸をし、まるで喘ぐように息を漏らしながら呟いた。
「ほら、これが欲しかったのだろう?」
タブリスカ様はその自分の手の中のものを僕に向けて、囁いた。
僕は吐き気を必死に堪えながら、その膨らんだものの前に跪き、そして、決意を胸に、大きく口を開いて、それを掴んで口に押し込んだ。
強烈な味と臭いが、体に入り込んでくる。
レックの笑顔が脳裏をよぎった。
彼はずっとこんなことをさせられていたのか、と。
激しい吐き気は、こんな運命を友人に背負わせた自分への嫌悪感からくるものだったのかもしれない。
心が千切れるように痛み、涙が溢れそうになった、その時だった。
聖堂の入り口が開く重厚な音が聞こえた。
まだだ、あともう少しだ。自らに言い聞かせる。
そこに立っていたのは、ルバスタンとジュミール様だった。
僕の頭を押さえつけていたタブリスカ様の手の力が抜け、だらりと横に垂れ下がる。
「タブリスカ、何をしているんだ」
今まで、一度たりとも聞いたことがないほど低い声で、ジュミール様は言った。
僕は、口の中にあった異物を吐き出して、激しくむせ込んだ。気持ち悪さで、目眩がするほどだった。
「これ、これは…彼が、アジュアが…」
タブリスカ様が口を開いたと同時に、僕は泣きながら言葉を絞り出した。
「助けてください、ジュミール様。ルバスタン様の大切な書簡を失くしてしまいました。それを黙っていて欲しければ言うことを聞けと、タブリスカ様がおっしゃって…」
僕は裸のまま床に伏した。
演技なのか、そうでないのか分からない感情が込み上げ、体はガタガタと震えていた。
「違うんです。ジュミール様」
タブリスカ様が慌てて服を着ながら、口を開こうとしたその時、ジュミール様の声がそれを遮った。
「黙りなさい!タブリスカ。君は、私を裏切りました。もう二度と、同じ過ちはしないと私に誓ったはずだ。ここを、どこだと思っているんだ。神の御前ですよ。若者の過失につけ込み、こんな酷いことをするなんて」
ジュミール様は、今までに見たことがないほど、恐ろしい表情でタブリスカ様を睨みつけていた。
その気迫に、タブリスカ様はすっかり気圧され顔面蒼白となり、何も言えなくなってしまった。
「君が聖職者であることを、私は絶対に認めるわけにはいかない。私の目の前に二度と現れないでくれ。ルバスタン、アジュアを介抱してやりなさい」
それだけ言うと、ジュミール様は僕たちを残して聖堂を出て行った。
呆然とするタブリスカ様にルバスタンは、こう言った。
「よくも、私の大切な子供にこんなことをさせましたね。どんな言い訳をしても、あなたの罪は消えてなくなりはしない。これは全て、因果応報であり、天罰なのです」
ルバスタンの冷淡な声が聖堂に響き渡った。
ルバスタンはローブを僕に着せると、僕の肩を抱いて、聖堂から連れ出した。
聖堂には、魂が抜けたようにうなだれるタブリスカ様だけが、残された。
その頭上には、穏やかな顔して微笑む、神の姿が見えた。
自分がしたことの恐ろしさが、足の底から這い上がり、恐怖が体全体に広がって指先が氷のように冷え切って小刻みに震えた。
そのあとのことは、よく覚えていない。
僕は計画を遂行できたことに安堵し、何も聞かずあの時間ぴったりにジュミール様を連れて来てくれたルバスタンに感謝した。
次の日に目が覚めると、寝台の側にあるテーブルの上には、僕が前から欲しがっていた貴重で高価な医学書が置かれていた。
その医学書の表紙の裏側には、赤い字でメッセージが記されてあった。
『医学は仮説と実験が繰り返される中で発展し、多くの人々の命を救っている。その過程では、間違った仮説や実験の犠牲になった命もある。偉大なことを成し遂げようとするとき、犠牲は避けて通れない。君は、誰に恥じることも悔いることもない。』
僕はその医学書と、「痛み」とタイトルが刻まれた天使のオルゴールを並べて置き、じっと見つめた。
心の中には、ある感情が芽生えつつあった。
その後、タブリスカ様はひっそりと助祭を辞任し、村からも去って行った。
表向きは、持病の治療のためとのことで、誰もそのことについて疑う者はいなかった。
あれほど尊敬され信頼されていたタブリスカ様の最後は、何とも呆気ないものだった。
実のところ世の中はすでに、ルバスタンが司祭になることを望んでいたからに違いない。
人の気持ちは、まるで空模様のように移ろいやすい。新しい季節が来れば過ぎ去った季節のことは、すっかり忘れてしまう。
新緑の美しさ、聳え立つ雲の雄大さ、色づく木々のコントラスト、山の上の白い帽子、それらに次々と目を奪われる。
それが、人だ。
ルバスタンの叙階式は間もなく執り行われ、それはそれは厳かで美しいものとなり、村人たちは美しい司祭様の誕生を祝い、夜通し祝杯を上げた。
レックはタブリスカ様の屋敷を出ることが決まり、仕立て屋の娘と婚約した。
村はお祝いムードのまま、冬の祭りである<タナーグ>を迎えた。
炎の祭りと呼ばれるタナーグの夜は明るい。
村のいたる所には松明が焚かれ、普段は真っ暗な農道さえも、点々と続く幻想的なオレンジ色の灯りに染められる。
村の酒場からは、タナーグに演奏する音楽が、そこかしこから聴こえていた。
僕は、タブリスカ様の屋敷からの引っ越しを明日に控えるレックの元を訪れた。
「レック、いよいよだな。おめでとう」
何度となく書簡を渡したタブリスカ様の屋敷の玄関に立ち、僕は婚約のお祝いであるペアのワイングラスをレックに手渡した。
夫婦の夕食に花を添えたくて、飾り彫りのあるものを選んだ。
レックは、それを受け取りながら、「少し、歩かないか」と言った。
僕たちは、ランタンを提げて農道を通り抜け、人が滅多に訪れない崖の上までやってくると、二人とも、人を吸い尽くす大きな底なし沼のように深い闇となった海のほうを向いて腰を下ろす。
静けさの中で、遠くから微かにタナーグの喧騒が聴こえてくる。
冬の冷たい海風が、空気を澄み渡らせているようだった。
長い沈黙を破り、レックが口を開いた。
「覚えているか、アジュア。初めて君がタブリスカ様の屋敷に来た時に話したことを」
「何だったかな。レック、君とは数え切れないほどの事柄について話をしたからな」
レックは声を出して少し笑うと「君は、この国の戦争の話をしたんだよ」と言った。
「そうだったかな」
僕も自分の記憶の悪さに苦笑しながら答えた。
「ああ、そうだ。君は『この国ではいつも戦争の犠牲になるのは、戦争などまるで興味が無かった庶民たちなんだ』と話していたよ」
「ああ、そうだったな」
ようやく記憶が戻ってきた僕は、その話に頷いた。
先の交戦で、この村からも兵士として何人か徴兵された。
そのことについて話したのだった。
その後、またレックはしばらく話をせずに海を眺めていた。
僕もまた彼と同じように、深い闇のような海を眺めた。
「僕のおじいちゃんはさ、この地方の村の出身じゃないんだ。だから、小さい頃に一度だけしか会いに行ったことがない」
唐突にレックは祖父の話をしはじめた。
「うん」
僕は、彼が結婚を控えて、思い返すことが多いのだろうと思いながら聞いていた。
孤児院では、家族の話をするのは何となくはばかられた。だから、周りの子供の親や親戚のことを聞いたことは、殆ど無かった。
そもそも親戚の話をするほどの友人も、僕には一人もいなかったのだが。
「おじいちゃんの村にはさ、人魚の像があって、人魚の伝説があったんだけど、それがさ、すごく不思議でよく覚えてるんだ」
「人魚の伝説なら、この村にもあるじゃないか」
僕は人魚の掟の話を思い出して、そう言った。
「ああ。それが、その村の言い伝えはさ、人魚を見た人は幸せになるって話なんだ。その人の不幸の一つだけ、人魚が身代わりになってくれるっていう伝説なんだよ。ウルグ村の言い伝えと真逆だろ? だから不思議で、よく覚えてる」
「へえ」
僕は、なぜレックがこんな話をするのかよく分からないままに、相槌を打った。
「僕にとって、アジュアはその村の人魚の伝説みたいなものだよ」
レックの声は上ずっていた。
「ありがとう、アジュア。君は恩人であり、生まれて初めて出来た僕の親友だ」
横を向くと、レックの目には今にも零れ落ちてしまいそうな涙が、ランタンの光を反射して輝いていた。
灰色の瞳のそこかしこにオレンジ色の光が映り込む。
「僕は…」
今、言わなければ、そう強く思った。
真実を言わなければ。
僕は君が思っているほど、勇敢な人間でも、英雄でも、聖人でも、何でもない。
そう言わなくては。
しかし、言葉は続かなかった。
どうしても言えなかった。
嬉しくて。
初めて出来た友人の言葉が、痛いほどに嬉しくて。
レックは、言葉に詰まって涙を流している友人の手を取り、その手に何か小さいものを握らせた。
「これを、預かっていて欲しい。僕にとって大切な人と交わした約束の指輪だ。君が僕にしてくれたことを、僕はその人にするつもりだ。もしも僕が、約束を果たせなかったら、きっと君がその約束を果たしてくれると信じてる」
手を開くと、そこには金で出来た赤い宝石のついた指輪があった。
「どんな約束なんだ」
僕はそれを見つめながら聞いた。
「今は言えない。ただ一つだけ、友人として忠告しておきたいことがある」
その真剣な声色に、僕は顔を上げた。
その時のレックの顔を、今でもはっきりと覚えている。
まるで、暗闇に浮かぶ霊を見つめるかのようなゾッとする表情をしていた。
そして、恐ろしいほど小さな声でこう言った。
「ルバスタン様を信用してはいけない。あの方は、聖人ならざるお方だ」
吸い込まれてしまいそうなほど、真っ暗な海にその言葉は飲み込まれて行った。
この約束を交わした崖から、レックが身を投げたと聞いたのは、彼の結婚式が行われる予定の前日のことだった。
彼の遺体は見つからなかった。
海の彼方に消えてしまったと人々は言った。
彼が自殺する前日に、窃盗の容疑で裁判所から呼び出しを受けていたことが分かった。
その後、レックの部屋からは、教会から盗まれたとされていた金品が発見されたのだった。
村人たちは、犯罪の発覚に絶望し崖から身を投げたのだろうと噂した。
ただ一人、僕だけは、それが自殺などではないと確信していた。
彼を死に追いやったのは、おそらく僕だ。
あの日、僕が真実を告げていたら、彼が死ぬことは無かったのではないか。
そんな気がしてならなかった。
僕に芽生えていたルバスタンという人間に対する違和感、それを彼に話していたら。
彼を悪魔の生贄にしたのは、愚かで強欲な、この僕、この僕のくだらないプライドなのだと確信していた。
それは、これまでの違和感という名の点と点が繋がった瞬間だった。
人生には、多くの分岐点がある。
あの時こうしていれば、あの時ああしなかったら、いつも僕はそんなことばかり考えて生きてきた。
その分岐点で正しい選択ができなかったことを思い知るのは、いつもその選択が終わったあとだった。
そしてそれを振り返ると、いつも弱くて醜い自分がそこにはいた。
変わらなければいけない。
なぜ、僕の親友は命を奪われなければならなかったのか、確かめなければいけない。
天使のオルゴールのネジを巻き、自室でそれを聴いた。
これまでのことが、次々と思い出された。
数々の感謝と喜び。
胸を焦がすほどの憧れ。
体が焼け付くようだった。
この信じたくない、ひどく醜い仮説を検証するため、僕は天使のオルゴールを手に、ルバスタンの部屋へと向かった。
『私はこの差別と不平等と戦争にまみれた世界を変える』
ルバスタンのその声が、焼き印のように僕の耳に張り付き、ジリジリと身を焦がした。
僕は、正義のために真っ直ぐ生きている彼の生き方を、ルバスタンというその人を、どうしても嫌いになることができなかった。
僕の二度目の誕生、それはあの日、このオルゴールの音色を聴いた瞬間。
人に初めて必要とされた瞬間。
痛みを理解してもらえた瞬間。
僕は、生まれた。
ひどく醜い僕は、美しく完璧な世界を望みながら生まれた。
そして僕は、その生まれ出でた命を、自らの手で殺すことになるのかもしれないという痛みと闘っていた。
正しい選択肢も分からないままに、僕は人生の分岐点に立たされていた。
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