天使の音色と悪魔のささやき

 カルミヌスと暮らすようになって一週間が経った。


 もともと村人たちは、めったにこの作業小屋には来ない。悪い風邪の流行が落ち着いたのか、この一週間で訪れた村人はたったの2人だった。


 小屋の扉からノックの音がしたら、カルミヌスのいる鳥かごにカバーを掛けてから扉の鍵を外す。

 誰も鳥かごの中身を気にする者はおらず、僕たちは信じられないほど穏やかで平和な日々を送ることができた。


 カルミヌスは、その神秘的な出で立ちからは想像できないほど快活な女性で、話すことと歌うことが大好きだった。


 彼女は、海の中の世界のことや、王国の話、人魚たちの話、彼女のつけている七色の光沢を放つ胸当ての話など、僕の知らない世界の話をたくさんしてくれた。


 彼女の話に夢中になってしまい、ガラス細工を作る僕の手はよく止まってしまった。

 工芸品店の店主と約束したティーグラスの納期を延ばしてもらうことにしたので、作業小屋を訪れた店主はあからさまに嫌な顔をして去っていった。


 けれど、それさえも何故か、楽しくて仕方がなかった。


 カルミヌスは人の生活にとても関心が高く、食事も同じ物を欲しがった。だから僕は、ティーグラスも作らずに、小さなガラスのテーブルセットを作ることに熱中していた。


 小さなテーブルに小さなお皿とコップ。

 針金で出来たフォーク。


 お皿とコップは情熱的な彼女に相応しい赤いガラスを使って作った。

 その赤がとても綺麗だと、カルミヌスは気に入ってくれた。


 人魚の主食は、海藻と小魚のようで、野菜や動物を口にするたびに、彼女は変な顔や幸せそうな顔や驚きの顔を見せた。


 そんな穏やかな日々の中で、一つだけ心配なことがあった。


 司教様のことだ。


 村人と違い、司教様はとても人の感情を読み取ることに優れた聡明な人だ。

 彼以上に人心掌握に長けた人物を、僕は知らない。


 彼が白いと言えば、人々は真っ黒な鳥さえも白い鳥と呼び出すのに時間はかからないだろう。

 だから僕は、僕の心の変化を司教様に読み取られはしないかと、気が気ではなかった。


 司教様に殺せと言われたら、彼女を殺す以外の選択肢はない。

 司教様は、この村において、神であり死神なのだ。


 僕と司教様との出会いは、僕が16歳の夏まで遡る。

 今からおよそ、10年ほど前のことだ。

 それは、教会にある霊安室で葬儀の準備をしている時だった。

 今の司教様、つまりルバスタンがまだ助祭だった頃のことだ。


 32歳という若さで、助祭になるというのは、僕の育ての父親である先代司教のジュミール様に次いで、二番目の若さだったそうだ。


 ジュミール様に拾われてから、僕は教会の運営する孤児院で育った。

 孤児院は村の中心にある教会からほど近くにあり、戦争や病気などで両親が亡くなった子供たちや、貧困で子供を育てられない家庭の子供たちが同じ敷地に集まって暮らしていた。


 病気や手足が不自由な子供たちも確かにいたが、その中でも僕は異様な存在だった。

 子供というのは残酷で優しい生き物だ。

 気持ち悪いものは、気持ち悪いと正直に告げてくれる。


 大人たちが眉をひそめて囁き合うその言葉を、僕の目を見て教えてくれた。


 その度に、ジュミール様はその子供たちによく言ったものだった。


「神のお創りになるものに、気持ち悪いものなどありません。神の創るものは、全て意味があり、美しいのです」


 小さい頃の僕は、そんなジュミール様をとても尊敬していたし、そうであると信じていた。


 しかし、周りを見渡せば、嘲笑うような表情を浮かべて僕を指差す大人たちや、僕の食事に足のたくさん付いている虫を入れる子供たちは、僕から見たら、とても気持ちが悪い生き物に見えた。


 体が大きくなるにつれ、僕は人の目に触れることが怖くなり、孤児院の誰も使わなくなった倉庫で、傷んだ古本を読んだり、ゴミ捨て場から拾ってきたガラクタで道具を作ったりして過ごすことが多くなった。


 傷んだ古本の中で、僕が熱中したのは医学書と科学書だった。

 孤児院に寄付される本の中で、子供たちには難しすぎるような本を、その昔その倉庫に保管していたのだろう。

 倉庫の壁一面に天井の高さまである本棚が並び、そこにはびっしりと古本が詰め込まれていた。


 医学書を読むだけでは飽き足らず、書いてある薬草の効能を確かめるために、森に行って多くの薬草を掻き集めてきて、傷ついた動物に試すということをするようになった。

 ある時は上手くいったが、ある時は動物たちを余計に弱らせてしまうこともあった。


 薬だけでは不十分だと思った僕は、病気や怪我の病原を切除し縫い合わせるということにも、挑戦し始めた。


 まずは動物たちの身体がどうなっているのか、死んだ動物を倉庫に拾い集めてきて、一晩中、内蔵や骨、筋肉がどう組織されているのか、ナイフで切り分けて研究をした。


 学校へも行かずに倉庫に引きこもる僕のような異様な存在を、気にしてくれる優しい子も孤児院の中には当然いる。


 僕が12歳の頃、みんなの面倒をよく見ていた、僕よりも3つほど年上の男の子が、倉庫にやってきた。

 学校へ一緒に行こうと誘いに来てくれたのかもしれない。


 しかし、その彼が見たのは、古い屋敷のような倉庫の中央にある大きなテーブルに、おびただしく並べられた切り刻まれた動物たちの死骸と、異様な香りのする瓶詰めされた薬草の数々だった。


 彼は、その尋常ならざる光景を、ジュミール様や他の子供たちに告げて周り、僕には近づかないようにと御触れを出した。


 僕の行動に一番胸を痛めたのは、他でもないジュミール様だった。ジュミール様は、その巨大な倉庫を立ち入り禁止とし、教会の地下の貯蔵部屋を改装して、僕のために簡素な部屋を仕立てて住まわせた。


 そして朝になると聖堂に僕を呼び出し、神の像の前で必ず命の大切さを説教するのだった。


 ジュミール様ほどの人が、医学の本質を理解していないということに、僕はひどくショックを受けていた。


 例えば、子供や使用人が言うのなら分かる。

 しかし、ジュミール様はあらゆる学問にも精通した優秀な方だ。


 体とは、命の入れ物だ。

 命の入れ物である体の、どこが壊れてしまうとダメなのか、どこを直せば命が留まるのかということを知るためには、その入れ物を研究する以外に最善の方法などない。


 入れ物がダメになってしまえば、ジュミール様が日々尊いと説いている命は、天に召されてしまう。


 それが天の意思であるならば、医学とは神に抗う行為なのか。僕はそうは思わなかった。


 科学や医学を学べば、救える命がある。

 救えない命もある。

 生きるということは、いつも僕にとっては生き残るということに近いような気がしていた。


 僕の消え去りそうな命をジュミール様が救ってくれ、可哀想な赤ん坊に乳を恵んでくれた人がいなければ、僕は今、生きていなかっただろう。


 誰かが何かをすれば救える命がある。

 生き残った僕には、その使命があるような気がしていた。


 しかし、僕のその使命感はジュミール様に理解されることはなかった。


 僕の思想は、村人に危険視されていることが幼いながらも感じられ、前にも増して、息を潜めるように、まるで自分の存在を隠すようにして、教会の祭事の中でも人の目に触れることのない葬儀の準備や、教会の掃除を手伝いながら生活をするようになった。


 もはや、学校に通うことは、自分の意思とは関係なく、許されてはいなかった。


 そんなふうにして、4年ほどが経った夏のことだった。


 教会の霊安室で、葬儀の準備のため棺へ白い花を並べていたところに、その人は神秘的な笑顔を携えてやってきた。


 細身で、とても背が高く、絹の糸のような美しいブロンドの髪と、深海のように深い青色をした瞳を持つ、容姿端麗な人。

 歩く姿、立ち姿、その全てにおいて、まるで同じ人間とは思えないほど、完璧なフォルムをしていて、特別なオーラのようなものをいつも纏っている人だった。


 それが、つい数ヶ月前に、近隣の村からこの村に赴任したばかりの新しい助祭のルバスタン様だった。


「アジュア、君は孤児院の夏祭りには行かないのかい?」


 僕は、ジュミール様以外の人に話しかけられること自体がかなり久しぶりだった上に、間近で助祭様を見るのが初めてだったため、まるで時が止まったかのように、白い花を手にしたまま、棺の前で立ち尽くしていた。


「本当は行きたいだろう? 君だって」


 薄暗い霊安室の窓から斜めに差し込んだ西日をくぐりながら、ルバスタンは言った。

 まるで吸い込まれてしまいそうな深く青い色をした瞳だった。


「いえ、僕なんかが夏祭りに行ったら誰も楽しめません」


 僕はやっとのことで、独り言のように小さな声で返答した。


「答えになってないな」


 ルバスタンは、優しい笑顔を保ったまま僕の前に立つと、そっと僕の手の上に彼の手を重ねた。


「本当は行きたいけれど、人々に嫌われていて、奇妙な目で見られるのが嫌だから行きたくない。そうちゃんと言わないとダメだ」


 僕はあまりにも図星なことを言われ、血が湧き上がってくるのを感じた。

 恥ずかしさで僕の顔は真っ赤に染まり、手にしていた白い花を落として俯いた。


「私はね、この3カ月、この村に来てからさまざまな人をよく観察してきたんだ。君は、医学の知識があるね。運ばれてきた遺体の瞳に、光りを当てているのを何度か見かけた。本当に亡くなっているのか、確認しているんだろう?」


 僕は驚いて、顔を上げた。


「よく…ご存知ですね。そのとおりです」


「医学や科学と宗教は、あまり相性が良くない。分かるね、アジュア」


「はい」


 僕は、知らず知らずのうちにルバスタンの言葉に引き込まれ、次に彼が何を言うのか、ある種の期待のようなものを抱いていた。


 ルバスタンは、腰に携えていた皮の袋からおもむろに何かを取り出した。


 手のひらに収まるくらいの大きさで、ガラスで造られたそれは、窓から入り込んだ光をキラキラと反射して眩く煌めいていた。


 羽の生えた少年。

 ガラス細工の天使だった。


 その天使の足元の台座の底には、金色のネジがついていて、それをルバスタンがクルクルと巻いたのちに、僕の手のひらに乗せた。


 なんとも悲しく美しい音が、静かな霊安室に広がる。


 僕はその音に感動して、気がつくと頬にはいく筋もの涙が流れ落ちていた。


「これは、この国で最高のマエストロが作った世界にたった1つのオルゴールだ。花の都、カランから、わざわざ君のために取り寄せたんだ。これを、君にあげよう」


 見るからに恐ろしく高級な代物だ。

 にわかには信じられず、僕は驚きを隠せなかった。


「こ、こんな素晴らしいもの、いただけません」


 そう言ってルバスタンの顔を見上げた。


「答えになっていないね。君は、私がこの村で出会った少年の中で、最も優秀だ。私が聞きたいのはそんな答えじゃない。私の目は節穴ではないのだよ」


 ガラスで出来た天使はとても美しく微笑んでいた。


 僕の部屋にはゴミ捨て場から拾ってきた1つのオルゴールがあった。

 それを、夜独りになるとよく鳴らしたものだった。

 そのオルゴールの横には、掃除中に拾ったガラスのカケラを集めたワイングラスが置いてある。


 僕はオルゴールの音色が好きで、また、ガラスの創り出す光の乱反射が好きだった。


「本当は欲しいけれど、僕がこんな素晴らしい贈り物をされるほど、誰かから慕われるはずなどないので、欲しくありません」


「さすがだ。やはり君は、私が見込んだだけある」


 ルバスタンは誇らしそうに目を細めて僕を見下ろし、彼の手を僕の頭にそっと置いた。


「勘違いしてはいけない。これは贈り物などという陳腐なものではない。これは、君の働きに対する対価だ。君は、類まれなる”能力”を持ち合わせている。その”能力”を私のために使ってくれるなら、これを君に報酬として支払う。そういうことだ」


 恐ろしい洞察眼の持ち主だと思った。

 たった3カ月で、僕に医学と科学の知識があることに気づき、僕が喉から手を出すほど欲しいものを見抜き、さらに、常人にはない僕の”能力”のことまでも見抜いている。


 ルバスタンは、僕の頭から手を放すと、踵を返して西日の差し込む窓辺へ足を進め、後ろ向きのまま話を続けた。


「君ほどの人間が、私という人間の聡明さに気づけないわけがない」


 そしてゆっくりと、光の中でこちらへ振り返り、こう言った。


「君は私の犬になれ」


 僕は彼の唐突な言葉に困惑して聞き返した。


「ど、どういうことですか」


彼は、その美しい唇の端をわずかに引き上げた。


「命令をただ言う通りに聞く犬じゃない。自分で考え、自分で最適な方法を選べる犬だ。君にしかできない。私はこの村やこの国を変えたいと思っている。

 おかしいと思わないか? 君はこれほどまでに優秀な能力を持ち合わせているのに、村人たちからの扱いはその辺に落ちている石ころよりもひどい」


「それは……」


「君の目が1つしか無い上に、科学や医学などといった神の意志に抗う学問に傾倒しているから、人々は気味悪がっている。そうだね?

 ならば君は、それが正しいと思うのか? 目が1つしかない人間は、いくら優秀でも、石ころのような生活をしなければならない。そんな世界が正しいと思うかい?」


 ルバスタンの声は、力強かった。

 その声は霊安室中に高らかに響き渡り、深い青色の瞳には、その声と同じくらい強い光が宿っていた。


「私に協力してほしい。私は偉大な人間になり、この世界を変える。君は、未来の君のような人間が人間らしく生きることができる世界を創るために、私の犬になるんだ」


 言い終わると、ルバスタンはまた笑顔を讃え僕のもとへ近づいてきた。


 そして、オルゴールを大切そうに抱える僕を満足そうに見つめ、そっと抱きしめた。


「協力して欲しい。私は、優秀で心優しい君のことがとても好きだ」


 抱きしめられたのは、何年ぶりだっただろうか。

 その手は、とても温かかった。


「はい。こんな僕で良かったら、お手伝いさせてください」


 自分でも信じられなかったが、考えるよりも先に、僕はそう答えていた。


 ルバスタンは悪魔のような人だ。

 これは全て、僕が他人から言って欲しいと夢想していた言葉たちだった。


 美しく甘く僕を魅了する悪魔のささやき。


 不自然なほどに甘いささやきとは知りながら、僕がそれを無視できなかったのには、理由があった。


 ルバスタンは、心の底から僕を気に入っていた。


 自分が飼う犬として、最高だ。

 そう彼が思っていることに、疑いの余地はなかった。


 彼のことを聡明だと僕が感じたように、彼が僕に同じものを感じないわけがなかった。


 ルバスタンならば僕を理解してくれる。


 慕わない理由は、どこにもなかった。


 どうせ僕はもう、ジュミール様に心の底から愛されることはない。


 容姿端麗で、人々に尊敬され、いつも堂々としている彼が、僕のような人間を特別に思ってくれる。

 それだけでも、僕にとっては彼に協力する十分な理由になった。


 一人残された霊安室で、僕は天使のオルゴールのネジを巻いて、その音色を聴いた。


 悲しいメロディの曲だ。


 よく見ると、台座に「痛み」と小さくタイトルが彫られていた。


 これを選んでくれたルバスタンに対する、尊敬と畏怖、そして思慕が湧き上がった。


 これは悪魔との契約なのかもしれないと言い聞かせてもなお、余りあるほどの思慕だった。


 いや、あの時の僕は、そんなことさえ思っていなかったかもしれない。


 彼が悪魔なのだとさえ、気づいてもいなかった。


 それほど、そのオルゴールの音色とルバスタンの演説は、素晴らしかった。


 その日、僕は悪魔と契約した。


 聡明で美しく、偉大な正義と志を持つ悪魔と。


 これが、人ならざるものに堕ちる始まりだとも知らずに。


 いや、これが、僕が気持ち悪いと思っていた生き物と全く同じ生き物なのだいうことを、自覚するきっかけとなることも、知らずに。


 それから2年後、18歳の冬、僕は生まれて初めて出来た親友の命を奪った。

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