静寂のエリュシオン

「私、海の中にいるの?」


 夜が明けようとしている薄暗い作業部屋の机の上で、僕は歌声のような声に起こされた。


 昨日はそのまま机に伏せて寝てしまったようだった。


 机の左端には一昨日まで小鳥が住んでいた鳥かごがあった。


 夜中の作業のために点けていたロウソクは、もう鉄製のロウソク台の底が見えていて、燃え尽きて消えている。


 鳥かごの中には、ガラスでできた小さな浴槽が置いてあった。

 そのガラスの浴槽は、全体が青く、ところどころピンクや黄色など、様々な色が点々と混ざり合っている。

 その浴槽から顔を出し、両手を淵にかけて、人形のように小さな彼女が、こちらを見ていた。


「おはよう」


 僕は、その可愛らしい姿に思わず笑顔になりながら言った。


「気に入ってくれた? 大した材料がなくて、家にあったビー玉を混ぜて作ったから、いろんな色が混じっちゃったんだけど」


 ちゃぷんと音がして水しぶきと共に虹色の尾びれが浴槽の中で跳ねた。


 ちゃぷん

 ちゃぷん


 何度か彼女はその同じ動作を繰り返した。


「これ、あなたが作ったの? まるで、海の中にいるみたい」


 少し興奮したように頬を紅潮させて彼女は言った。


 その浴槽は、昨夜、彼女の出血が止まったのを確認したあとに、急いで作ったものだった。


 彼女の下半身である魚の尾のような部分がひどく乾いてしまっていることに気づいたからだった。


 ガラスの浴槽を作り終え、急いで浜辺で砂と海水を採取して戻ってきた。


 砂を浴槽に敷き詰めて、海水で満たし、矢が刺さっていた彼女の腹部に家にあった布を小さく割いて包帯のように巻きつけてから、彼女の下半身が海水に浸かるように、そっと手作りのガラスの浴槽に浸からせた。


 まるで死んでいるかのように、彼女はぴくりとも動かず、顔には血色がまったく無かった。


 彼女が死んでしまうのじゃないかと心配で、僕は一晩中、彼女の口元に指を持っていき、呼吸をしているか確認し続け、僅かな吐息が指にかかるたびに、僕は安堵で胸を撫で下ろした。


 死を覚悟した僕の体に異変は無かった。

 ただ一点を除いては。


 右腕の肘の近くのエメラルドグリーンの鱗。

 目が覚めてから、その存在に気がついたのだが、アサリの貝殻ほどの大きさの鱗が、確かに腕には現れていた。


 痛みは、ない。


 体が熱いとか、息苦しいとか、そういう変化は何も無かった。


 異変と言えるのは、腕の鱗と、彼女と目が合う瞬間ごとに訪れる鼓動の速まりだけだった。


「すごく器用なんだね」


 彼女は僕が作った貝殻の枕を持ち上げながら嬉しそうに言った。


「ずっと一人だったし、身の回りのことは自分でやらなきゃいけなかったから、気がついたら何でも自分で作るようになってた。別に器用なわけじゃないよ。時間が人よりあっただけ」


 照れ臭くて、ぎこちない笑顔を作って目を背けた。


 笑顔が素敵な人だ、そう思った。

 人と呼んでいいのかは、まだ分からないままだが。

 少なくとも、同じ言葉で会話ができる生き物だ。


「でも、檻の中に閉じ込められちゃったのね、私」


 彼女は鳥かごの天井を仰ぎ見ながら言った。


「いや、違うんだ。えっと、たまに猫が窓から入り込んできて、鳥を捕まえようとすることがあって…。たぶん、君も魚と間違えられちゃうんじゃないかと思って、そこに入れたんだ。檻に閉じ込めようなんて思ってない。本当なんだ」


 僕は気がつくとまくし立てるように早口で話していた。

 なんだか言い訳がましくて、恥ずかしかったけど、本当のことなので仕方ない。


「ああ、そうなんだ。”猫”も人魚を殺そうとするのね。知らなかった」


 大きな瞳を丸くして彼女は答えた。


「それから…」


 僕がもう一つの理由を話そうとした時、遠くで教会の鐘が鳴る音が聴こえた。


「あ……」


 僕は作業部屋にある置き時計を確認した。

 窓の外は夜が明けて、朝日が森の木々に降り注いでいる。

 すでにグルドワの刻を回っていた。


「急がないと。ごめん、今日は<送り出しの日>なんだ」


「送り出しの日?」


 不思議そうにする彼女を尻目に、送り出しのために化粧部屋へ繋がる木の扉を開いて急いで中へ入った。

 化粧部屋には外に出られる大きな引き戸式の出入り口が一つあり、普段は頑丈な鍵がかけられてある。


 昨日、彼女に初めて触れた寝台とは反対側の壁に、その出入り口があった。


 鍵を外し扉を横に引くと、低い音が小屋全体を震わせた。


 眩い光と新鮮な空気が外から流れ込んでくる。


 出入り口の扉の前には、燻した銀で作られた手の込んだ装飾が施された<エルドワ>と呼ばれる大きな手押し車が置いてある。


 エルドワは、死者を送り出す時に墓地まで遺体を載せて運ぶために使われる手押し車だ。

 遺体を載せるとかなりの重さになるので、墓地までの道のりはとても遠く感じる。


 今日は6体の遺体を太陽が一番高いところへ昇るガンギルの刻までに運び、遺体を埋めて、送り出しの式を終えないといけない。


 通常、送り出しの儀式は、司教様が行う。

 死者の家族や友人の目の前で送り出しを行ったのちに、死者に土をかけて埋めていく。


 しかし、悪い風邪で亡くなった人の送り出しは、村人の参列は禁止されていて、送り出しの儀式も司教様は執り行わず、僕が一人でやることになっていた。


 万が一、悪い風邪が移ってしまうことを避けるために、司教様が決めたことだった。


 だから、今日、墓地に来る村人はいない。

 死者の最後を見送るのは、僕だけだった。


 寝不足の体に鞭を打ち、急いで5体の遺体を運んで、小屋に帰ってきたときには、まるで服のまま泳いできたかのように服が汗でびしょ濡れだった。


 疲れ切って、作業机の前の椅子に腰を下ろして水を一気に飲み干す。


 すると、美しい歌声が、鳥かごから聴こえてきた。


 僕は、時間がないことも忘れて、彼女の歌に聴き入ってしまった。


“優しいひと

 それは美しいひと

 美しいひと

 それは悲しみを知るひと”


「歌が、上手なんだね」

 思わず、僕はつぶやいた。


「人魚はみんな上手なの。知らなかった?」


 歌を歌っていた時とはまるで違ういたずらをしようとする子供のような表情で、彼女は答えた。


「送り出しっていうのは、死んだ人を天国に送り出す儀式のことで、送り出しができる日と時間が決まってるんだ。僕は、ここで死んだ人を綺麗にして、墓地へ運んで埋める仕事をしてる。だから急いでて…。お腹、空いたよね? すぐに済ませてくるから、ちょっと待ってて」


 最後の遺体をエルドワに載せようと立ち上がった時に、彼女の「あぁ…」という寂しそうなつぶやきが聞こえた。


「あ…」


 僕は俯いた彼女のほうを振り返り、しばらく考え込んだが、その寂しそうな佇まいに意を決して言った。


「よかったら、一緒に来ない? 今日は村の人は絶対に墓地には来ない。もしも、村の人とすれ違うことがあっても、その鳥かごにはシルクのカバーがあって、それを上からかければ絶対に君は見つからない」


「あぁ」


 彼女は驚いたようにこちらを見つめた。

 そしてしばらく考え込んでから、満面の笑みを浮かべて、「行く」と元気よく答えた。


 最後に残っていたのは、小さな女の子の亡骸だった。

 その亡骸をエルドワに載せ、僕は手を組んで祈りを捧げた。


 どうか、安らかな場所に行けますように。


 この醜い世界とは違う、どこか遠い、心配なことも、苦しいことも、憤ることも、何も無い世界に行けますように。


「急ごう」


 僕はエルドワの荷物を載せるところに鳥かごを置いて、墓地へと向かった。


 墓地へと続く道は森の中にある。

 森の中ではあったが、もう何度も通っていたので地面が固く踏み固まっていて歩きやすかった。


 この静かな道をエルドワを押して歩くとき、なんだかいつも厳かな気持ちになった。


 この人の生きていた証を、輝きを、心と目に焼き付けよう。

 そういう静かな情熱が、心の底にたゆたう感じがする。


 長い森の道が終わりに近づく。


 目の前には、朝の太陽の陽だまりが広がり、その先に、広大で静かな墓地が広がる。


 そして、微かな海の香り。


 あと、もう少しだ。


「よかった。間に合った」


 僕は彼女に微笑んでみせた。


 彼女は真剣な顔をして、鳥かごの中からおびただしい数の墓が並ぶ墓地と、その先に見える海を見つめていた。


「こんなに多くの人が、ここに眠っているのね」


 その真剣な眼差しは僕の心を打った。

 美しい人だ。

 さまざまな表情の彼女を見つけるたびに、僕は彼女のことをもっと知りたいと思ってしまう。


「送り出しの式をするから、ここで待ってて」


 僕は彼女を、浴槽ごと鳥かごから取り出し、墓地が見渡せる石のベンチに置いて作業に取り掛かった。


 すでにこの女の子の墓は数日前に準備してあったので、その穴に小さな亡骸を沈めて、上から手ですくって土をかけた。


 少女の体が全て土に覆われたら、そこへ残りの土を農具を使って上からかけていった。


 どうか、もう苦しまないように。


 何度やっても、この瞬間は慣れるものではなかった。


 悲しみが足の底から湧き上がり、僕の全身を包む。


 綺麗に土をかけ終わると、今日埋葬した人たちのお墓全てに、用意してあった花束を置いていく。


 そして、送り出しの歌を、歌う。


 けして歌は上手くなかった。


 しかし僕は、この儀式が好きだった。


 僕の想いが、大切な人を失った人たちの深い悲しみが、天に、神に届き、彼らを素晴らしい場所へ導いてくれる。


 そうであるに違いない。


 こんな醜い僕でも、誰かのためにできることがある。

 この職業が、僕は嫌いではなかった。


 歌声が遙か遠くに消えて行く。


 歌が終わりに近づくと、遠くの雲間から雨のように日差しが降り注ぎだした。


「なんて美しいの」


 背後から彼女の声が聞こえた。


 静かな墓地に人魚の歌声のような声が広がる。


「今、魂は天に昇っているのね。知らなかった。地上が、こんなに美しい場所だなんて」


 振り向くと、彼女の瞳には大粒の涙が溜まっていた。


 それが、ほろりと溢れて、彼女の白い頬を伝った。


「私ね、両親が幼い頃に死んだの。だから、ずっとばあやと二人きりだった。ほかの人魚は、いつも楽しそうに、遠くの海まで遊びに行くのに、私だけはそれが許されていなかった。怖いこともなかったし、ばあやはいつも厳しいながらも、優しかった。私にいたのはばあやと、唯一の友達である貝殻のハリスだけ。そんな生活が、幸せであり、退屈だった。そうやって死んでいくのが、怖かったの」


「僕も、同じようなものだよ。でも君には、勇気がある。僕と違って、運命に抗う、勇気があった」


「いいえ、勇気なんかじゃないわ。卑怯で打算的で醜い、逃亡よ」


 彼女のいるベンチに僕は腰を下ろした。


 遠くから辿り着いた海風と静寂が、僕たちを包む。


 力強いその眼差しに込められた意味は分からなかったけれど、僕は彼女の凛とした横顔に惹きつけられた。


 どうしようもなく、惹きつけられた。


「僕は、君の卑怯で打算的な逃亡を手伝う。君の気が済むまで。約束する」


 彼女は、小さく頷いた。


 こちらを見て「あなたは、本当に美しい人ね」そう呟いた。


 全身が脈打つのが分かった。


 生まれて初めて言われる言葉だった。


 美しい人。


 彼女の前では、本当に僕は、美しい人であるような気がした。


 もし幸せというものが僕にも与えられるものなら、これがそうだと思う。


 幸せ、こんなにも突然に、それはやってくる。

 僕は彼女と出会うまで、そんなことさえも知らなかった。


「そうだ。まだ名前を聞いてなかったわ。私、カルミヌス。海の王国、アナカサハラの王女です。あなたの名前は?」


「僕は……」

 まっすぐに見つめる彼女の眼差しと、その高貴な位に戸惑い、俯いて肩をすぼめて答えた。


「僕は、アジュア。ウルグ村の死人洗いをしています」


「アジュア…」


 彼女は何か思い出すように考え込んでから、尾びれをパシャンと打ち付けて「思い出した!古い言葉で<幸福>という意味だわ」と言った。


 恥ずかしさで、僕は耳まで真っ赤になった。


「アジュア、とってもいい名前ね」

 彼女は、夏の日差しのように明るい笑顔で笑っていた。

 降り注ぐ陽の光が彼女の小さな体についた水滴のいたるところで反射し、キラキラと輝いている。


 抜けるように青い空と海。

 そして目の前には、好きな人がいた。


 世界は完璧だった。


 幸福は、ある日突然、前触れもなくやってくる。

 まるでそれは、夏の夕立のように。

 雨上がりの虹のように。


 そして、人の死のように。

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