喪失者たちの集う部屋
その部屋には天井の近くに小さな窓があった。
換気のために取り付けられた窓にはガラスが貼られることはなく、木枠を手前に倒すと、僅かばかりの朝日と気持ちのいい木々の香りが部屋に流れ込んでくる。
光の淡く射す薄暗い部屋は、死臭に溢れていた。
部屋の床には年齢も性別も様々な6体の死体が隙間なく並べられている。
その中には小さな女の子もいる。
人が腐りゆく臭いには、もう随分前に慣れた。
赤や青の斑点が現れ始めているものはあるが、殆どの死体はまだ人形のように美しい。
1週間ほど前から村で悪い風邪が流行り、遺体が次々と運ばれてきた。
ちょうど昨日、6人目の遺体が小屋に運ばれてきて、それを部屋の隅にある洗い場で綺麗に洗い、床に並べ たので、部屋の床は人形のような遺体で埋め尽くされていた。
東にある窓の向かい側の壁際には、遺体を載せる寝台があり、その前には木で作られた古びた簡素な椅子が一つだけ置いてある。
この世から旅立つ人を、最後に美しくするための場所だ。
その寝台に、先ほど手提げに入れて持ち帰った人魚を取り出して載せ、簡素な椅子に腰を下ろす。
傍に置いた手提げから人魚を置いた場所まで、まるで花びらのように真っ赤な斑点が、点々と散らばった。
エメラルドグリーンの鱗が淡い光を反射して、優しく煌めいていた。
なんとも不思議な光景だった。
朝日は入っていたが、部屋の中は薄暗くて、朝なのか昼なのか夜なのか分からない。
その部屋の中で、まるで夜光虫のように人魚の鱗だけが、煌めいていた。
小さな声がした。
まるで歌のような、そんな声だった。
鼓動が全身に広がるのが分かった。
人魚は、静かに目を開いた。
目を開いてすぐに、僕の存在に気がつくと、小さな悲鳴を上げた。
「大丈夫。僕は君に矢を放った人間じゃない」
僕は出来うる限りの優しさを声に乗せ囁いた。
人魚は、沈黙したまま、気が遠くなるほどの時間、僕の顔を見つめていた。
木々の葉が擦れる音に混じって、小鳥の鳴く声が窓から聞こえてくる。
何十年も前からきっと変わらない、この小屋が知る、朝の音だ。
僕が移り住む前に住んでいた木こりは、蔦で覆われた森の一部になってしまったようなこの小屋のこの作業場で、一人で生き絶えていたそうだ。
きっと彼が最後に聞いた音も、こんな朝の音だったに違いない。
僕は、この作業場で聞こえる朝の音を、とても愛していた。
もう一度、僕は言った。
「大丈夫。僕は君を傷つけたりしない」
人魚は、全身を震わせながら小さく呟いた。
「どうか、殺さないで」
「大丈夫。僕は君を殺したりしない」
もう一度、はっきりと僕は答えた。
ビー玉のように透き通る琥珀色の瞳で、彼女は僕の目をじっと見つめた。
「でも、このままだと君は、死んでしまう。誰かに矢を放たれて、その矢が君の体を貫いているんだ。これを抜いて、止血しないといけない。分かる?」
人魚の震えは次第に小さくなり、彼女は小さく頷いた。
「大丈夫。僕は傷ついた小鳥の治療をよくするんだ。きっと、君は助かる」
そう言うと僕は、手袋をはめた手を、彼女の体を貫いている矢に添えた。
「抜くよ。痛いかもしれないけど、少しだけ我慢して」
僕は矢を掴んだ手に力を込める。
人魚は、耳を突き刺すような悲鳴を上げた。
矢は僅かに彼女の体から引き抜かれたが、手袋をはめているせいで滑ってしまい、上手く抜ききることができなかった。
矢の刺さっている彼女の腹部から、赤い血が溢れて寝台に流れ広がる。
彼女は、肩を上下させ全身で大きく息をしながら、苦痛に歪んだ顔を横に向けた。
時間がない。これ以上の出血は危ない。
手袋を外して、彼女の体を抑えて抜けば上手く引き抜けそうだったが、それは、村の掟を破るということを意味した。
『小さな人魚を見たものは、それに触れてはいけない。触れたものは、鱗の紋様が身体中に現れ、死に至るだろう』
頭の中で、その掟の言葉が聞こえた。
この声は誰だろう。
二人の司教様の顔が浮かぶ。
一人は温かくて厳しくて、まるで本当の父親のように愛情深い。
もう一人は聡明で志が高く、まるで本当の悪魔のように冷酷だ。
僕は、その二人の司教様、そのどちらも慕っていた。
ある時までは、確かにそうだった。
僕のような人間に興味を示してくれたのは、僕にとって、その二人だけだったからだ。
それがどんな興味であれ、僕はそのことが嬉しかったのだ。
それがたとえ、どんな目的のどんな興味なのだとしても、僕という汚らわしい存在を見つめてくれる、その存在を慕わずにはいられなかった。
物思いにふけていると、矢を持つ手の下から声が聞こえた。
「手袋を…」
人魚はひどく怯えるような表情で、僕を見つめながら言った。
「手袋を外して、取ってもらえませんか」
彼女の全身は、またいつのまにかガタガタと震え、まるで怪物を見るような表情で、僕を見上げていた。
「分かった」
自分でも信じられないくらい自然に、そう答えていた。
掟を忘れたわけじゃない。しかし、ひどく怯えて震えながら、真っ直ぐに僕を見つめる彼女の願いを、受け入れないという選択肢は、僕にはないように思えた。
どうせ、僕はちょうど、なぜ生きているのか、何のために生きているのか、その意味を探すことに飽き飽きしていたんだ。
ちょうど良かった。これは運命だったのかもしれない。
僕のこのつまらない生涯が終わる、その運命の日が、今日という日だっただけ。
今日という、ありふれた、しかし二度と訪れない、美しい日。そうだっただけ。
そう思えた。
ゆっくりと、手袋を外し、そっと彼女の肩に手を近づけた。
人魚は、全身を強張らせて、ひどく怯えている。ぶるぶると震える唇を噛みしめて、目を閉じた。
「僕が、怖い?」
人魚はやっとのことで口を開いたが、その唇はひどく震えていて言葉にはならなかった。
「僕の目が、一つしかないから?」
僕は、込み上げる何かに気づかないふりをして、落ち着いた声で、そう彼女に問いかけた。
こんなことを聞いて、何と答えて欲しかったのか、よく分からないままに。
自分の運命を心から呪いながら。
彼女は、美しかった。
血まみれで震えていても、彼女は美しかった。
その瞳、その口、その鼻、その顔の輪郭。
髪の一本一本さえも、信じられないほどに美しかった。
きっと、彼女が同じ人間だったなら、僕はきっと、目を合わせることすら難しかっただろう。
僕は生まれながらに、片方の目がない。
通常、人の顔に二つあるべき目の片方が完全に存在せず、左目があるべき場所は醜くただれたような皮膚で覆われていた。
だから、僕を産んだ母親は、僕を教会の前に捨てた。
醜い我が子をどうしていいのか分からずに、ただ自分に降りかかったその運命を恐れて、小さな命を守ることから逃げ出した。
そんな母親を、僕は憎んではいなかった。
僕にこれまで降りかかった数々の悲しい出来事を思い出すたびに、母は正しかったと、それは母親としての優しさだったと、僕はそう思えてならなかった。
きっと何の責任もない人間は、彼女の行いを知ったら、ひどく責め立てただろう。
だけど僕は、その彼女の弱さが理解できた。
許すことは難しくても、この世界にいる誰よりもそれを理解することができた。
そして、彼女の弱さと迷いが、今こうやって、生まれて初めて感じる感動を、僕に与えている。
生まれて初めて、生きていることに感謝することができた。
死にゆく直前に、なぜこんなにも美しい人と僕は出会ったのだろうか。
皮肉だった。
彼女を助けないという選択肢は、もう僕には無いのだから。
「いいえ」
いつのまにか、人魚の震えは止まっていた。
そして、閉じていた瞼をゆっくりと開いて、その引力のように惹きつける眼差しで、真っ直ぐに僕の目を捉えた。
「そうじゃないわ」
彼女の声は、どこか力強く凛としていて、その美しい歌声のような声が、死臭の漂う薄暗い部屋にこだました。
「あなたが怖いんじゃない。人が人魚を怖がり忌み嫌っているから怖いの」
眼差しは力強かった。
「一緒だね。僕も人から怖がられ、忌み嫌われてる。僕の目が生まれたときから一つしかないから。みんな気持ち悪いんだ」
僕は自然と笑っていた。
こんなことを、人に話したのは初めてのことだった。
彼女を人と呼んでいいのかは、分からなかったけれど。
「あなたは気持ち悪くないわ」
優しい声だった。
まるで、春の風のような、そんな声だ。
「僕のこと、怖い? 僕は君のこと、怖くないよ」
そう言って、彼女の白い肩に、そっと、子猫に触れるようにそっと、左手の指先を置いた。
ひんやりとした人魚の肌の感触が手の指先から、全身に広がっていく。
体に何かゆっくりと冷たい電流が巡っていくような、そんな感覚だった。
鼓動が、高鳴った。
「ううん。初めて見たときから、あなたの目は優しかった」
人魚の小さな手のひらが、彼女の肩に置いた僕の指先の上に重なった。
彼女の大きな琥珀色の瞳から一気に水が溢れて、まるで宝石のようにキラキラと輝きながら、塊となり、こぼれ落ちた。
「あなたの目は、優しかったわ」
彼女がそう言い終わる瞬間に、僕は全身の力を込めて彼女の腹部から矢を引き抜いた。
彼女は悲鳴を上げ、体が引き裂かれたかのように全身をのけぞらせ、そしてそのまま、意識を失った。
彼女の体内から溢れる血液を、僕は必死に両手で抑えた。
何故か、僕の瞳からは、次々と涙が溢れてはこぼれ落ちていった。
「どうか、どうか神様。僕の命と引き換えに、この美しい人を助けてください」
どうか、この醜い僕の命と引き換えに、この人を助けてください。
そう、必死に願った。
心から願った。
もう死ぬことは、怖くなかった。
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