小さな人魚と青い幸福の香り

林桐ルナ

去っていくもの、訪れるもの

 誰もが、本当は自分は普通などではないと知っている。


 誰もが、本当は自分は一体どういう個性を持って生まれたのか答えを持っていない。

 だけど、誰もが、自分以外の誰かを普通じゃないと思うことがある。


 自分は普通で、自分と違う人は普通じゃない、そうであってほしいと、強く願う。

 それは、本当は自分が普通ではないと、知っているからに違いない。


 自分と違う何かを差別することで、人は、自らが普通ではないかもしれないという恐怖から解放される。

 もしかすると僕も、そういう人たちの恐怖を取り除くために生まれてきた、そういう個性を持ち生まれてきた、多くの普通じゃない者たちの一人として、ごく普通の存在なのかもしれないと、思うことがある。


 違う形をした石も、人間にとってはただの石だ。だけど、同じ石たちにとっては、違う形をした石は、普通ではない石なのかもしれない。


 朝、目が覚めると、鳥かごの中はカラになっていた。

 黒い鉄格子で出来た鳥かごの扉が開いている。

 もう随分古い時代に作られたであろう鳥かごには、あちらこちらに花の模様がかたどられ細かな細工が施してある。

 僕に似つかわしくない、完璧なほどに美しい鳥かごだ。


 昨日までは、その美しい鳥かごの中には一羽の青い鳥が住んでいた。

 一か月ほど前に、森で見つけた鳥だ。

 羽を傷めて飛べなくなり、衰弱しているようだった。


 青い鳥は毎朝決まった時間になると、綺麗な声で鳴いてくれた。

 寂しくないと言えば嘘になる。

 鳥の鳴き声が聴こえない朝は、とても寂しい。


 しかし、あの扉を開けたのは、他でもない僕だ。


 青い鳥の羽の傷は癒えていた。

 この扉を開けたら、きっと元いた世界にその羽を広げて戻って行くだろう。

 誰よりも、それを、僕がその日が来るのを心待ちにしていた。

 今日が、その日だったというだけのことだ。

 それでも僕は、やはり胸の奥にポカリと開いてしまう穴のようなものを感じずにはいられなかった。


 美しいものは、僕に似つかわしくない。

 その羽を広げて、どこか自由な、ここではないどこか美しい別の場所へ、飛び立って行く。

 それが、残酷で美しい、この世界の摂理だ。

 それで、いい。

 いや、むしろ、それがいい。


 作業場の机には<美しい人>と名付けられた琥珀色の紅茶が入ったグラスが置いてある。

 湯気と美しい香りが僕の顔を覆った。


 ひとくち口に含むと、カリンとローズの香りが体に広がった。

 前回の仕事の報酬で買ってきたとても貴重なものだ。

 この日のために用意しておいた。


 僕は、昨日よりも美しい人になれただろうか。

 そう心の中で呟きながら、もうひとくち琥珀色の液体を口に含んだ。

 甘い香り、幸福の香りだった。


 紅茶を飲み終えて、家を出る。

 ガラス工芸品を作るために、海岸に流れ着いたガラスの欠片を探すのだ。

 丸みを帯びて白みがかったガラスの欠片を手にすると、その優しい手触りに時の流れを感じる。


 海岸にほど近い作業小屋に移り住んでから始めたガラス工芸も、今では村の工芸店の店主が買い取りに来てくれるほどになった。

 もちろん、工芸品の作者を店主が村人に話すことはなかった。

 僕が作ったと知ったら、どんなに美しいものでも買いたいと言う人はいないだろう。


 作者不明のガラス細工。

 海から流れ着いた工芸品だ。

 優しくて孤独で誰のものでもない。

 僕という人間に相応しい作品だと思っている。


『幸福』という意味を持つ美しい自分の名前を作品に刻む日は、きっと来ない。

 アジュアーー。

 今は亡き司教様が付けてくれた名前だ。

 司教様には言えなかったが、僕はこの名前が嫌いだった。

 嫌いだったというより、似つかわしくないと思っていた、と言うほうが正しい。

 まるで、僕には似つかわしくない、美しい名前だった。

 司教様が、その名前で僕を呼ぶたびに、僕の心は恥ずかしさと幸福で満たされた。

 今はもう、呼んでくれる人さえも、ほとんどいない。


 僕が生まれたのは季節外れの雪の降る日だったという。

 村で1つしかない教会の前で、僕は生を受けた。

 隣の村で開かれた会合から帰ってきた司教様が、教会の階段の端に隠すように置いてあった白い布に包まれた赤ん坊を見つけた。


 赤ん坊の顔には薄っすらと雪が積もり、死んでいるかのように冷たかったという。

 可哀想な赤ん坊の顔から雪を払おうと手を近づけると、その赤ん坊はわずかに残った力でそっと司教様の指を掴んだそうだ。

 神のくれた奇跡に感謝し、司教様はその赤ん坊に『幸福』と名付け我が子のように育ててくれた。

 それが、僕だった。


 海岸にはガラスの欠片の他にも美しいものがたくさんある。

 村の中心地からほど遠いこの海岸を訪れる村人はほとんどいなかったが、ごくたまに孤児院の子供たちが貝殻を拾いにやってくることがあった。


 いつものように海岸の端から波打ち際に煌めくガラスの欠片を拾っていく。

 綺麗な貝殻があれば、それも一緒に手提げ袋に入れた。

 波の音しか聞こえない、とても静かな朝だった。


 ふと岩場の近くに目をやると、海岸に似つかわしくない鮮烈な色が目に入った。

 近くに寄って拾い上げると、それは血のついた白い貝殻だった。

 よく見ると、その周囲にも血のついた貝殻が落ちている。


 その貝殻たちを辿るようにして岩場の奥までやってくると、一番奥の岩の上に何か魚のような小さな生き物が横たわっているのが見えた。

 小さな生き物からは真っ直ぐに棒のようなものが突き出ている。

 それは、ボウガンの矢のように見えた。


 ゆっくりと近づくと、その小さな生き物が魚ではないことが分かった。

 その生き物は頭から腰にかけて人のような形をしていた。

 濡れた長く茶色い髪が岩場に扇のように広がっている。


 その生き物の腹部には、やはりボウガンの矢が刺さっていた。

 矢は腹部から真っ直ぐに背中へと貫通していて、その周辺には、小さな血溜まりが出来ている。


『小さな人魚を見たものは、それに触れてはいけない。触れたものは、鱗の紋様が身体中に現れ、死に至るだろう』


 子供の頃から何度となく聞かされてきた村の掟だ。


 しかし、人魚を見たことがある人などどこにもいなかったので、ずっと、おとぎ話なのだと思っていた。


 人魚は、僅かに呼吸をしているように見えた。

 驚きと好奇心が混じり、さらに一歩足を踏み出し人魚のそばにしゃがみ込む。


 大きさは僕の手のひらより僅かばかりに大きいくらいだった、


『人魚なんて言うけどさ、本当は醜い怪物みたいな顔をしてるかもしれないぜ』

 掟の話をしていた孤児院の子供の言っていたことを思い出していた。


 真っ白な透けるような肌に、小さな鼻と口。

 濡れた長いまつ毛が、その白い肌に張り付いている。

 腰から先は、眩く煌めくエメラルドグリーンの鱗で覆われていて、尾びれは太陽の日差しを反射してキラキラと虹色に煌めいていた。


「美しい…」

 そう呟きそうになり、心の中でそれを口にする。


 気がついた時には、僕の手は人魚のそばにあった。

 惹きつけられるように、僕はその小さな人魚へと手を伸ばしていたのだ。


『小さな人魚を見たものは、それに触れてはいけない。触れたものは、鱗の紋様が身体中に現れ、死に至るだろう』


 司教様の、年老いて目尻にたくさんの皺が刻まれた微笑みがよぎった。

 ずっと死にたいと思いながら生きてきた。

 でもまだ僕は、死ぬ勇気が持てないままだった。


『聖人になりなさい。神を信じ正しい行いをしていれば、人はそれだけで幸せになれるのです。ちょうど神が、私に君を授けてくれたように、君にもきっと奇跡のような幸福が訪れます』


 ずっと正しい行いをしてきたつもりだった。

 だけど、いつも気がつくと、それは間違いだらけの行いだった。

 僕に幸せが訪れることは、もうないのかもしれない。


 ガラス収集用の手袋を取り出し、手にはめる。

 周囲を見回し誰もいないことを確認してから、素早く人魚を持ち上げて手提げの中に入れた。

 手袋にはびっしりと血液が付いたので、波打ち際で手袋の血を洗い流してから、急いで作業小屋へと向かった。


 村にはもう1つおとぎ話のような掟がある。


『小さな人魚を見つけたものは、ただちにそれを殺さなければならない』


 ちゃんと手袋ははめた。

 掟は1つしか破っていない。

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