雪と紅茶と僕の死体

 司祭になってから、ルバスタンは仕事を教会にある司祭室で行うようになった。


 来客が屋敷の執務室へ出入りすることは、殆ど無くなり、その部屋はルバスタンの私室のようになっていて、彼はそこにあるカウチソファに腰をかけて、音楽を聴きながら読書をして時間を過ごすのがひと時の自分の時間となっていた。


 ルバスタンはお酒よりも紅茶を好んだ。


 さまざまな国から取り寄せた物語の題名のような名前の華やかな香りの紅茶を、好んで嗜んだ。


 その姿は、まるで一枚の絵画のようだと、僕はいつも思ったものだった。


 その日、僕がルバスタンの執務室を訪れたときも、扉の向こうには、その一枚の絵が飾られていた。


 窓の外には、その年初めての雪が舞っていたのを覚えている。


「君は、レックを許してやることにしたのかい」


 何も言わずに部屋の入り口に立っていた僕に、ルバスタンは本に目を落としたまま問いかけた。


「はい。あんなものは、子供のいたずらです。天罰を受けるようなものではありません」


 僕はその場に立ったまま、落ち着いた声で答えた。


「そうかな。レックは、いつも何も知らない君を騙して利用していたのだと思うね」


 ルバスタンは読んでいた本にしおりを挟んで閉じ、僕のほうへ顔を上げた。

 その顔は、とても穏やかな表情をしていた。


「どういうことですか」


 ルバスタンの落ち着きぶりに相反して、僕の声は震えていた。


「君が恐ろしく耳がいいということを私に教えてくれたのはレックなのだよ。君の手にある、そのオルゴールを私が君に渡す前に」


 僕はルバスタンの話していることの意味が分からず、ただただ混乱していた。


 レックが僕の聴力に気づいていた?


 それをなぜ、ルバスタンに話すことになったのか?


 まったく想像もしていなかった話に、僕は困惑していた。


「レックは君の聴力に気づいていた。だから皆に君の陰口を言わせた。そういうことだ」


「レックがそう言ったのですか」


 僕は何とか自分を落ち着かせようと必死だった。

 しかし、体は自分の意思とは反対に、熱を帯びはじめた。


「いや、これは私の仮説に過ぎない」


 ルバスタンは落ち着いた表情のまま答えた。


 サラギンさんの懺悔の件で、僕のことについて調べていたルバスタンは、孤児院を訪れ、子供たちに僕のことを尋ねた。


 子供たちは口々に僕のことを気味が悪いやつだと話したそうだ。


 その理由を尋ねると子供たちは言った。


『誰もいないのに、誰かと話してることがある』


 まさかと思った。

 僕が話しかけていたのは、リュクシーという少女だった。図書室のちょうど上に彼女の部屋があり、彼女は孤児院にやってきて間もなくの頃、よく部屋の中で泣いていたのだ。


 それを聞くたびに、僕は耐えられずに彼女に話しかけた。


『大丈夫だよ。君は強い人だ。きっとその辛く悲しい思い出も、神が癒してくださる』


 その声が、彼女に届くことなどないと知りながら、僕は彼女に話しかけた。


 なぜそれを子供たちが知っていたのだろうか。

 僕は不思議に思った。


 図書室には、誰もいないことをいつも確認していたはずだ。


 話を聞けば、簡単なことだった。

 最初は、図書室の本棚の隙間に隠れて遊んでいた子供が、僕が一人で話すのを見かけたそうだ。

 それを他の子供たちに話したところ、次々と代わる代わる子供たちは面白がって同じ場所に隠れて僕の秘密の行為を目撃しようとした。


 何人かの子供が目撃し、アジュアは見えないものと会話をしているという噂が広がった。

 その見えざるものは、悪魔なのではないか、そんな噂まで広がったそうだ。


 その話を聞いたルバスタンは、子供たちにこう聞いた。


「図書室の上は何の部屋だったんだい?」


 聞かれた子供の一人が、記憶を辿るように考え込んでから「たしか、リュクシーの部屋だったんじゃないかな」と答えた。


 それを聞いた他の子供が、「違うよ。図書室の上はずっと空き部屋で、リュクシーが移って来たのは、アジュアが悪魔と話してた時期よりずっとあとのことだ。それに、図書室は一階で、リュクシーの声が聞こえるわけなんてないさ」と明確に答えた。


 それが、レックだったという。


 ルバスタンは教会の記録室で孤児院の入院台帳を調べた。

 リュクシーが入院した時期は、ちょうど僕が悪魔と話していると子供たちの間で噂が広まった時期と一致していた。


 その頃から、僕に対する嫌がらせはひどくなっていった。そう、ちょうど9歳の頃だ。


「レックは嘘をついた。君が話しかけていたのは、リュクシーだと知っていた。私はそう思った。君はどう思う?」


「そうだったとして、そうだったとしても…」


 僕は言葉に詰まった。

 その先に続く言葉が見つからなかった。

 これまでの出来事の一つ一つが、そうだと仮定すると全てがしっくりと来てしまう。

 僕にできることは、なぜだ、なぜなんだと、もう聞けはしない相手に、心の中で問い続けることだけだった。


「レックが、レックこそが、君を悪魔に取り憑かれた気味の悪い人間だと周りに思い込ませた仕掛け人だとしても、それでも天罰を受けるほどのことではない、そう思うということかい?」


 ルバスタンはひどく冷たい声で、僕を問いただした。


「それでも、僕にとっては大切な友人でした」


 僕は絞り出すような声で、そう答えた。

 もう何が何だか正常な判断はできないほど、心は掻き乱されていたが、それでも僕は何とかその場に立ち、そう答えた。


「ならば教えてやる。レックの婚約した仕立て屋の娘は、君がタブリスカを追放に追いやったあとに、私が紹介した娘だ。もともとレックは彼女とは面識など無かった」


 それを聞いて、僕は愕然とした。

 嬉しそうに彼女のことを語ったレックの表情をありありと思い出せる。

 それが全部、嘘だったなんて。


 堪えきれずに涙が次々と溢れ、嗚咽が漏れた。


「君は、人を信じすぎる。だから傷つくんだ。人はそんなに美しくも正しくもない。だからこそ、最後は大義のために美しく犠牲になって死にたい、そう思う人間がいる。レックもその一人だ」


 そこまで言うと、ルバスタンは立ち上がって、泣きじゃくる子供を、叱りつける父親のように、大声で僕を怒鳴りつけた。


「君は、もっと強くなれ。もっと世の中の醜い真実を逃げずに見つめたまえ」


 僕は泣き崩れて、床にうずくまった。

 心が、今にも張り裂けてしまいそうだった。


「私は司祭になった。しかし、この村には誰からも尊敬され敬愛される偉大な司教様がいらっしゃる。けれども、ジュミール様はお優しすぎる。世界を変えるには、この世界の悪しき習慣を変えるには、優しさは時として弱さとなる。司教の地位が私には必要だ。ジュミール様が健在である限り、私が司教になることは決してないだろう。アジュア、私が何を言いたいか分かるね」


 ルバスタンは、いつもの冷静さを取り戻し、穏やかな口調で僕のことを諭すように、語りかけた。


「君は、聡明だ」


 僕はうずくまったまま、全身を使って、首を大きく振った。


「分かるはずだ、アジュア。大いなる偉業を成し遂げるためには、そのためには、犠牲を伴う。そして、その偉業のために命を落とす者のことを、人は英雄と呼ぶ。君はもうすでに、レックという英雄を創り上げた。後戻りすることなど、全てを知る神が許さない」


 顔を上げ、ルバスタンの眼を見つめた。


 透き通る深い海のような真っ青な、その瞳を。


 何度となく見つめた、一枚の絵画のように美しい、その姿を見つめた。


 彼の眼には一点の曇りも無かった。

 遠い、遥か遠い彼の目指す美しい世界を見つめる眼だ。


 僕には、二人の父親の思い出があった。


 一人は、時には厳しく、しかし計り知れないほどの温かさで僕を愛してくれた。

 けれども、僕の才気をけして理解してはくれなかった。


 もう一人の父は、悪魔のように聡明で冷酷でありながら、しかし計り知れないほどの情熱で僕を愛してくれた。

 そして、僕の才気を誰よりも信じて疑わなかった。


 海岸で船と世界の国々と神のことを教えてくれた父。

 美しいシルクのフードと修道服を創ってくれた父。


 選ぶことなど、僕にはできない。

 人がそれを選ぶことは、許されない。


「ルバスタン様、やはり僕は、あなたのように強くはなれません。友人の裏切りの事実すらも、信じることができない弱い人間です。この世には、どんなに貴重で高価なものよりも価値があるものが存在します。それは、人の命です。愛する人の命です。どんなに高価なものも、愛する人の命の前では、石ころのように何の価値もなくなるのです」


 恥ずかしげもなく大きな体を震わせて、涙をボロボロとこぼしながら僕は訴えた。


 手に力を込めると、左の手の中にある小さな金属の感触が伝わった。


『きっと君がその約束を果たしてくれると信じてる』


 彼が僕を騙していたとして、しかし、あの言葉からは真実の音がした。

 それだけは揺るぎなかった。


 左手を開き、握っていたレックから渡された指輪を見つめた。


 そして、右手に持つ、ガラスで出来たそれはそれは美しい天使のオルゴールに視線を移した。


 視界は滲み、そのどちらも、眩く煌めく夜空の星のようだった。


「僕は、もともと神には愛されていなかった。産まれた時から、愛されてなどいませんでした」


 僕は千切れそうな心を強く掴んで、決意を胸にその言葉を口にした。


「だから、僕は金輪際、ルバスタン様にお力添えをすることはできません」


 そう言い終わると、手に持っていたオルゴールをルバスタンへと差し出した。


 ガタガタと震えた僕の手からそのオルゴールを受け取ると、ルバスタンは何の躊躇もなく、それを掴み上げ、まるで天から突然に落ちる稲妻のように激しく、床に叩きつけた。


 飛び散ったガラスの破片が、床に座り込んでいた僕の頬をかすめ、頬には鮮烈な痛みが走る。


「今日のこの選択を後悔する日が、君には必ず訪れる。神から愛されていない君のような人間に価値を与えられるのは、この世界で私だけだということを、よく覚えておきなさい」


 ひどく悲しげな眼をして、ルバスタンは言った。

 その時、これまで、一度たりとも見せたことのない涙が、ルバスタンの目には浮かんでいた。


 しんしんと降り積もる雪が、窓の向こうには見えた。


 ルバスタンは、雪のような人だ。

 真っ白で冷たくて、その中にいると、全身が千切れそうなほどにジンジンと痛む。


 なのに、僕の心をいつも惹きつける。

 美しく汚れのない人だ。


 美しく汚れのないままに、人を人ならざるものに変えてしまう。

 それが、悪魔と呼ばれるものだ。


 それから間も無くして、ジュミール様は持病のために亡くなった。

 ルバスタンがやったことなのかは分からなかった。


 司教様が亡くなってすぐに、僕はレック殺害の容疑で裁判所に呼び出された。

 しかし、決め手となる証拠は何もなく、数ヶ月の拘留ののちに釈放されることとなった。


 しばらくすると、事件を重く見た修道会からは、一方的な退会通知が送られてきた。

 事実上の破門だった。


 そして、村にはこんな噂が出回った。


『レック殺害の犯人はアジュアで、自分の子供同然として育ててきた司教様はご心労で亡くなった。

 司教様が亡くなったのは、一つ目の呪いだ』


 そんな噂が村中で囁かれるようになった。


 そしてジュミール様の死後、司教となったルバスタンから命じられるがまま、僕は死人洗いとして、村の外れにある廃墟となった蔦に覆われた木こり小屋に移り住むこととなった。


 ルバスタンは何事も無かったかのように、素晴らしく聡明で誰にでも公平な司教となり、絶大な尊敬を村人たちから集めるようになった。


 村には、僕が生まれてから、またとないほどの繁栄と平和がもたらされ、人々の顔には、幸せの証である笑顔が溢れていた。


 村には、若い修道士を集めて医学を学ばせる医学館ができ、村人たちの流行り病の収束がずいぶんと早くなった。


 噂を聞きつけた周囲の村からは、病の人々が集まり、僕の小屋へは小さな子供からお年寄りまで、さまざまな人の亡骸がやってきた。


 その中には、自然死とは思えないものもいくつか紛れていた。

 医学館では、おそらく病人の病原を探るための研究が行われているのだろう。


 これはルバスタンの与えた罰なのだと思った。


 人の命の大切さを訴えた僕の矛盾を、毎日まざまざと見せられているようだった。


 彼らは英雄なのだ。

 多くの人の命を救うための犠牲者なのかもしれない。


 そして、その犠牲の先には、多くの人の笑顔があった。


 その笑顔を、僕はやはり受け入れることができなかった。


 こんなことは間違っている、遺体を洗いながら僕はいつもその憤りをどこへもぶつけられずに、しかしルバスタンへ抗うこともせず、ただただ静かな日々を送った。


 いつしか僕は、その憤りすらも抱かなくなっていった。


 ただただ不幸でも幸せでもない同じ日々の中で、自分の死がいつ訪れるのだろうか、そんなことをぼんやりと考えながら日々の役目をこなしながら生きるようになった。


 そして、あの日僕は、カルミヌスと出会った。


 まるでおとぎ話の中から出てきたかのように美しい彼女と出会った。


 そして僕は気づいたのだ。


 正義のために生きたかったわけじゃない。

 僕は誰かのために生きてみたかったのだと。


 僕はルバスタンのことを、ただ慕っていただけだったのだと気づかされた。

 悪魔のような、あの人を。


 夜明け前の薄暗い部屋。

 鳥かごの中のカルミヌスは、ガラスの浴槽の中ですやすやと寝息を立てている。


 僕は僅かな光を頼りに作業部屋の机の上に白い紙を広げ、その輪郭を筆で描き始めた。


 はっきりと思い出せた。

 もう何年も前の、たった一日を。


 あれから8年近い歳月が流れた。


 その部屋の窓には雪がちらちらと舞っていて、左右の本棚には、天井までびっしりと本が並んでいる。


 部屋の左側に、苔で覆い尽くされたかのような色をしたカウチソファがあり、そこには一人の美しい男性が本に目を落として足を組んで座っている。


 その前には、この国では見たことがない繊細な柄が描かれたカップとティーポットが置いてあり、静かに湯気を立てている。


 瞳は深い海の青。

 髪は絹糸のような金色。


「優しそうな人ね」


 いつのまにか起きていたカルミヌスがいつものように浴槽に腕をかけて、こちらを眺めていた。


「ああ、もうどこにもいない僕の家族だった人だよ」


「亡くなったのね」


 カルミヌスは、切なそうな表情でポツリと呟いた。


「せっかく早く起きたから、海岸を独り占めしに行かない?」


 僕は空気を変えるように、明るく笑顔で彼女に話しかけた。


「私たち二人だから、二人占めよ」


 カルミヌスはそれに答えるようにして、意地悪そうな顔で笑った。


「ああ、そうだ。二人占めだ。小さい頃、朝早く起きた日には、お父さんと二人で海岸に遊びに行ったんだ。父は教会で働く神父だったから忙しくてたまにしか行けなかったんだけど」


「羨ましい。私、父が小さい頃に死んだから、ほとんど遊んでもらった記憶が無いの」


 カルミヌスは笑顔で答えた。


 あの日以来、海岸に行くのは初めてだった。


 描きかけの絵を、ぐしゃぐしゃに丸めて、僕は屑かごへ捨てた。


 僕の父は、一人しかいない。


 そう心の中で呟いた。


 あの日、僕がそれを選んだ。


 雪のように冷たく美しい聡明な父を、正義に身を捧げる尊い自分を、あの日僕は、殺すことを選んだ。

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