夢色の朝空と窒息する心

 ウルグ村のウルグというのは、古い言葉で砂浜という意味だと父から教わったことがある。


 小屋から歩いて行ける場所にある砂浜は、まるで古代から、ずっとそうだったのじゃないかと思えるほど白く美しい砂で覆い尽くされている。


 なのに、人々はその砂浜にやってくることはあまりなかった。


 村の半分が海に面するこの村には、大きな港があり、港の近くには教会や商店などが並ぶ中心的な広場がある。

 近年、港にはたくさんの品物が届き、また多くの特産物も都市へと運ばれて行き、大変な賑わいを見せていた。


 都市から随分と離れたこんな小さな村が、これだけ発展を遂げたのも、現司教ルバスタン様の功績と言って間違いがなかった。

 現在のように港を拡大し整備した立役者は、現司教であるルバスタン様、その人だ。

 修道会が運営する医学館の資金が村へと流れるようになったのだ。


 村の中心的な人物は、修道会で地位を確立したルバスタンの顔色を伺うようになり、もはや村議会や裁判所はルバスタンの私兵と言っても過言ではない状態になりつつあった。


 港の近くには、大きな海水浴場も作られ、人々はそちらの砂浜にしか遊びに行かなくなった。


 小屋の近くの、この村外れの砂浜には、ごくたまに貝殻を探しにやってくる孤児院の子供たち以外の来訪者は殆どおらず、村の中でも、とても静かな場所になった。


 この砂浜をずっと辿ると、隣村の辺境地へとつながる。


 隣村は内陸のほうが栄えているらしい。

 僕は隣村へ行ったことがない。

 生まれてからこのかた、この村から出たことが無かった。


 この近代社会において、そんなやつがいるのかと思われてしまいそうだが、この村は世間の時間よりも遥かに古い時を過ごしている辺境地であり、僕のような人間もいる。


 外の世界に興味はあったが、世界は本の中にも広がっていた。本の中の世界は、怖くも無ければ傷つくこともない。

 思想の海だ。

 臆病な僕でも、本があればどこへでも行ける。だから、本当に行く必要性など、感じたことが無かったのかもしれない。


 与えられた使命があり、それは、世間の人にとっては違っても、僕にとっては、けして惨めな仕事では無い。


 同じことがただひたすらに繰り返される日々が、つまらなくないと言えば嘘になる。

 しかし、僕には傷ついた小鳥を助ける以上にやってみたいことが、もういつのまにか見当たらなくなっていた。


 鳥かごを右手に下げて、僕は浜辺まで歩いて来た。


 朝日が出始めて、空は薄紫と水色とオレンジ色のグラデーションカラーに染められている。


 砂浜に着くと、波打ち際に座り込み、鳥かごを置いた。


 そして、長袖をまくし上げ、そのすぐそばを両手で掘り始めた。


「何をしてるの?」


 鳥かごの中からカルミヌスが体を乗り出して尋ねる。


「君専用の展望席」


 僕は袋に入れて持ってきた金属の皿の中に砂と海水を入れ、砂を掘って積み上げて作った土台の丸い穴のところへ置いた。


 鳥かごの中に手を差し入れて「僕の手に乗って」と言った。


 カルミヌスは浴槽の縁をよじ登るようにして、僕の手のひらに辿り着くと「いいわ。引っ越し準備完了よ」と言って、尾びれで僕の手のひらをパシャンと叩いた。


 僕は勇ましい彼女の表情に笑いながら、「はい。姫君」と言って、その展望席への引っ越しを行った。


 カルミヌスは、そのお皿の淵から身を乗り出して、遥か彼方まで続く、海を眺めた。


「綺麗」


 彼女は独り言のように言った。


「うん。綺麗だね」


 僕も彼女のすぐ後ろに座り込んで、遥か彼方の水平線を眺めながら、頷いた。

 波が、足や太ももや服を濡らしていく。


「あのロウソクみたいな白い塔は何?」


 カルミヌスは埠頭にある灯台を指差して言った。


「あれは、灯台だよ」


 僕は答えた。


「へえ。あれが灯台なのね。初めて見たわ」


 カルミヌスは僕のほうを振り返ってワクワクしたような顔で言った。


 そして、遠くに見えた船や桟橋や山といった景色の中の一つ一つのことについて、次々と僕に質問を浴びせかけた。


 僕は、その一つ一つに丁寧に答えた。


 それは、僕に懐かしさを覚えさせた。


 まだ僕がとても幼かった頃。

 僕はカルミヌスのように、その人に次々と質問を浴びせかけた。


『アジュアは、とても好奇心が強いんだね。大きくなったら、学者様になるかもしれないな』


 目尻にたくさんの皺を寄せて、その人は笑っていた。


 懐かしかった。

 あの頃、僕は幸せだったんだなと、思った。

 今まで、すっかり忘れてしまっていた。

 いや、気づいてすらいなかったのかもしれない。

 僕が、幸せだったということを。


「君は海から来たのに何も知らないんだね」


 僕は、目尻に皺を寄せて笑いながらカルミヌスに言った。


「だって私、お城から出たことがなかったんですもの」


 カルミヌスは、僕のほうを見ずに海のほうへ顔を向けて答えた。


「この400年で、王国の王族の数がとても減ったの。私の兄は両親が亡くなって若くして王になったんだけど、王妃との間には跡継ぎがずっと生まれなかった。その間、私はずっとお城に閉じ込められることになったの。王位継承第一位だったから。まるで死刑囚のように」


「そうだったのか」


 僕は驚いて、そう答えた。


 春の海は、まだまだ冷たくて、僕の素足に打ち寄せる波は、まだ冬のそれのように冷たかった。


「アジュアは? アジュアはどんな子供時代を送ったの?」


 彼女は僕のほうを見上げて言った。


「そうだな。父とこの浜辺でよく遊んだよ。貝殻拾いをして、その貝殻で陣取りゲームをするんだ。桃色のシルキメの貝殻と白いルクスの貝殻で」


「あ……」


 カルミヌスは小さな声を上げた。


「知ってるわ。ゲルシュナね。王国でも大会があるわ」


 僕は驚いて目を丸くした。

 人魚の世界でも地上と同じゲームをするとは思ってもみなかったからだ。


「驚いた。人魚の国と僕たちの国に、同じ文化があるなんて思ってもみなかったよ」


「私も。私も知らなかった。でも、不思議なことじゃないわ。昔は、私たち人魚と人間はお互いの王国を行ったりきたりして共に暮らしてたそうよ。もう遥か昔のことだけど」


 カルミヌスは複雑な表情を浮かべ、海のほうへ視線を向けた。


「僕は、幸せな子供だったよ。大好きで尊敬する父がいて、食べ物も寝る場所も教育も不自由したことはなかったし」


 僕は自分に言い聞かせるように、はっきりと明るい声で言った。


 カルミヌスは、そう言った僕のほうを振り返って、じっとその琥珀色の瞳で、僕の目を見つめた。


 僕はなんだか照れ臭くて、ぎこちない笑い声を漏らした。


「嘘つきだわ、アジュアって」


 ふいに彼女は言った。


「だって、とっても悲しそうな目をしてるもの」


 その言葉は、僕の心に突き刺さった。


 僕は言葉が見つからなくて、ぎこちない作り笑顔のまま俯いた。


「本当のことを、教えて。あなたのことが知りたいの。知りたくなったの」


 彼女は、真っ直ぐに僕の顔を見つめながら言った。


「本当の僕のことを知ったら、きっと君は僕のことが嫌いになると思う。君が思うほど僕は、美しい人間じゃない」


 独り言を呟くように、僕は言った。


「そんなことは、私が決める。あなたが思うほど、私も、美しくなんかないわ。私は、王国から逃げて、私たちを殺す人間と交流してる裏切り者よ」


 空が、ピンク色に染まっていた。

 彼女の眼差しは、真剣で、情熱的で、まるで僕の心の形が見えてしまうのじゃないかと思うほど、不思議な力があった。

 それに突き動かされ、込み上げる言葉を、僕は口にした。


「本当の僕は、醜くて、弱い。僕の父は本当の父じゃない。母は生まれたての僕を、その醜さに驚いて、捨てた。それを拾って育ててくれたのが、神父であるジュミール様だったんだ」


 言葉が堰を切って溢れ出し、そして、止まらなくなった。


「だけど僕が変わってたのは、見た目だけじゃなかった。だから人々は、僕を気味悪がったし、大好きな父にも、本当の自分を理解してもらうことができなかった。理解してもらう努力をしなかった。僕はどこか、僕は特別で、それを理解できない周囲の人間は、間違っている。不平等で汚くて、醜い人間だと思い込もうとしたんだ」


 胸が苦しくて、両手で胸を掴み、うずくまって激しく息を吐き出した。


 涙が、次々と溢れて、白い砂浜にこぼれ落ち、その涙の重みで、砂がまだらにえぐられていく。


「僕は幸せじゃなかった。今まで、満たされたことなんてなかった。いつもどこか、捨てられないために嫌われないために必死で、何が幸福で、何が不幸なのか、気づくこともせずに、自分の境遇ばかりを呪いながら生きてる。今も君に、嫌われないか不安で、嘘ばかりついてしまう。そういう弱い人間だ」


 激しい動悸で全身が震えていた。


「アジュア、私ね…」


 カルミヌスはそこまで言うと、口をつぐんで俯いた。


「僕のこと、嫌いになった?」


 僕は勇気を振り絞って聞いた。

 本当は怖くて仕方なかった。


「いいえ、違うの」


 彼女は目に大粒の涙を浮かべ、微笑んだ。


「嘘つきは、私なの。だから、私たち、とても似てるわ」


 彼女はそう言うと、まるで子供のように泣きじゃくった。


 そんな彼女を金属の皿からすくい上げて、僕は手の中でそっと包み込んだ。

 彼女の体温が、僕の手のひらに広がった。


「僕と君が似てるなら、きっと、僕は醜くはないんだね」


 海風が濡れた僕の頬を優しく撫でていく。

 彼女の温もりが、僕の心の中に入り込んで、じわじわと滲みながら広がっていく。


 遠くでイルカが跳ねるのが見えた。

 腕の鱗がジンジンと痛み、まくし上げた袖の付近を見ると、前よりも鱗が広がっているのが分かった。

 鱗は肘に達するくらいまで広がっていた。手のひらと同じくらいの大きさになっている。


 僕は、いつ死んでしまうのだろう。

 そんなことが頭をよぎる。


 もしかしたら、明日。

 もしかしたら、今日。


 いつ死んでもいいと思ってた。

 なのに、今は死んでしまうことが、こんなにも、恐ろしい。


「君に見せたいものがあるんだ。誰にも教えたことがない、とっておきの場所。明日、一緒に見に行こう」


 僕は、手のひらの上の彼女に小指を差し出した。


「約束だ」


 その小指を、彼女は両手を伸ばして包み込んだ。


「私、今日のこの景色を、きっと一生忘れないと思うわ。なんだか、そんな気がするの。見たことのないものをたくさん見て、ワクワクして楽しくて、そして、孤独なのは私だけじゃなかったことを知ったわ」


 彼女の小さな手に、熱が帯びているのが分かった。


「あったかいね」


 僕はそう言いながら、微笑んだ。


 この世界に足りないものは、何もない。

 そう思わせる美しい景色が、そこにはあった。


 この世界は完璧で美しい。

 彼女さえいれば。

 この景色が人生最後の景色だったら、どんなにいいんだろう。

 そう思えてしまうような光景だ。


 しかし彼女は、いつかこの海の彼方へと帰らねばならない。

 彼女のお腹の傷は癒えてきて、その傷口はもう殆ど塞がっていた。


 海へ返してくれと彼女が言えば、僕はきっとそうするだろう。


 彼女は言葉が通じても、“人”じゃない。

 同じ世界で出会うはずなどなかった。


 この気持ちを伝える日は、きっと来ない。


 この、僕にも言い表すことが難しい気持ちを。


 君の目の形、君の笑い方、君の栗色の髪、君の興奮した時に尾びれを叩くあの仕草、その一つ一つを見るたびに、僕の心はトクンと脈打つ。


 君の芯の強い瞳、美しい歌声、すぐに怒ったり泣いたりする豊かな感性、そのすべてに心が惹かれる。


 こんな気持ちになるのは、初めてだ。


 好きというよりも、どうしようもなく大切と表現したほうが近い気がした。


 まるで、宝物のように大切で、失いたくない。


 だけど、僕だけが、彼女のことをそう思っているのかもしれない。

 彼女と僕は別の世界の存在であり、出会うはずなどなかった。

 彼女にとって僕は、たまたま命を救ってくれた別の種族、それだけの存在なのかもしれない。

 そう思うたびに、胸が焼けつくようにズキズキと痛んだ。


 僕の命が終わることよりも、彼女が海へ帰ることよりも、そのことのほうが、僕にとっては苦しいことのように思えた。

 僕は、彼女にとって何者でもない。


 こんな気持ちを、人は何と呼ぶのだろう。


 この世界は完璧だ。

 彼女さえいれば。


 そんなふうに思えてしまう、こんな気持ちを、彼女に一番伝えたいこの気持ちを、人は何と呼ぶのだろうか。


 僕の生涯で、もう二度と感じることがないこの感情を伝えられるのは、この美しい空と海だけ。


 そう思いながら眺めたこの景色を、たぶん僕も、生涯、忘れることはないだろう。


 もう間もなく訪れる死を前に、思い出すのは、たったの一週間、彼女と過ごした一週間。


 彼女にとってはただの一週間、だけど、僕にとってはとても特別な時間だった。


 王国の人たちは、きっと今頃、美しい王女を必死に探しているだろう。

 彼女を育ててきたばあや、王となった兄、友達である貝殻のハリス。

 彼女を愛する人たち。


 居なくなっても誰も悲しまない僕と、彼女とは違う。


 僕たちの別れは、近い。


 僕と彼女は、彼女を奪って、全てを捨てて、どこか遠くに行ってしまうほどの関係じゃない。


 そういう関係ではないということが、僕の胸を締め付けて、突き刺して、激しく焦がした。


 僕たちは、長い人生という物語の1ページで、ただ通りすがりに、同じ場所に居合わせただけ。

 その事実を受け入れなければならないことに、息が詰まりそうだった。


 愛して欲しかった。

 ただ僕は、彼女に愛されてみたかった。

 誰かでは、もうダメだった。


 こんなことを考えるのは、どうかしてる。

 分かっていても、どうしようもなかった。


 別の種族の、大きさもまるで違う、秘密を抱える彼女に、僕は恋をしていた。

 叶うことはない、生まれて初めての、窒息してしまいそうなほどに、特別な恋を。

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