さようなら、初恋

 森からの帰り道は朝の出来事がまるで嘘だったかのように穏やかな道のりだった。


 鬱蒼とした木々から伸びた枝についた葉が擦れ合い、囁きのような音を立て、鳴き合う鳥たちのさえずりと混じり合う。

 まるで一つの協奏曲のようだった。


 もう獰猛な山の動物たちの遠吠えは聞こえなかった。

 しかし、僕とカルミヌスはお互いに一言も声を出さないまま、僕は黙々と小屋までの道を歩き続けた。


 そしてちょうど、小屋が見えてきた頃、カルミヌスが小さく声を上げた。


「人がいるわ」


 その声に立ち止まり、小屋のほうを見ると、小屋の入り口の前に3人の人影が見えた。

 背が低く小太りな髭を蓄えた男。

 背が高くがっちりとした体格の男。

 そして、背が高く痩せ細った男。

 見たことのある顔だ。

 いつも遺体を運んでくる村人のうちの数人だった。


 僕はすぐさま腰に提げた袋からシルクベールを取り出して、カルミヌスの入っている鳥かごにそれを掛けた。


 まさにベールを掛け終わった瞬間、3人のうちの一人が僕に気がついて、声を上げた。


「おい、どこほっつき歩いてるんだよ。こんな時に。死人洗いの分際で」


 その太った髭面の男は、苛立ちで顔を歪めた。


「いい身分だな。流行り病も関係ないんだろ。こんな山奥に住んでいるから」


 隣にいた痩せた背の高い男が、虚な眼差しでこちらを睨んでいた。


「すみません、すぐに開けます」


 男たちの発する異様な雰囲気に、僕は足早に小屋へと向かい、入り口の鍵を急いで開け、村人たちを作業部屋へと通した。

 今、村人たちと揉めるのは得策ではない。

 まさかとは思うが、鳥かごの中を見せろとか、何が入っているんだとか難癖をつけられると困る。


 村人たちは遺体を運んで来たようではなく、何も持ってはいなかった。


「今日は、どうしたんですか」


 鳥かごを机の上に置きながら用件を尋ねた。

 椅子を差し出そうにも人数分もないので、僕も机の前で立ったまま話し始めた。

 とにかくこの男たちの発する雰囲気からして、普通の用件ではないことは、間違いがない。


「司教様から聞いたぞ。司教様が授かった大事な神のお告げを、お前が無視したから、今、この村には災いが降りかかっているそうじゃないか」


 最も入り口の近くに立つ、背の高いがっちりとした体格の男が、睨みを効かせながら低い声で言った。今にも殴りかからんとするような目つきだ。


「お告げ……ですか?」


 何のことかさっぱり分からず、僕はただ困惑した顔でおどおどと聞き返した。


「そうだ、お告げだ。とぼけるな。ちょうど二週間ほど前、初めてこの村で例の悪い風邪の死者が出た夜に、司教様の夢に神が現れ、お告げがあった」


『悪い風邪にかかった人間すべてを今すぐ私のもとへ届けなさい。さもなくば、この村は歴史に名を刻まれるほどの厄災に見舞われる』


 もちろん、僕はそんなもの初めて聞く話だった。

 これは一体どういうことなのか、まるで状況がつかめないまま、村人たちの話を聞き続けた。


「神のお告げとは言え、人の命を奪う行為は教義にも法律にも違反する。そこで、司教様はお前にその役目を任せることにした。裁きを受けるのは、司教様だけというお覚悟で貴様に頭を垂れて頼んだそうじゃないか。なのに、お前はそれを断った。自身に処罰が下るのが怖いと、そう偉そうに述べて」


 事実としては間違ってはいない。

 しかし、処罰をルバスタンが一人で受けるはずなどけしてないことを僕は知っている。

 処罰を一人で引き受けることになるのは、この僕だ。彼は聖人ではない。

 僕は神からも法律からも罰せられる。


「事実としてはそうですが、無実の人の命を奪うことは許されない、僕はそう司教様に申し上げたのです。けして保身のためではありません」


 一番僕の近くに立つ痩せた背の高い男が、足元にあったスツールを蹴り飛ばした。


「いい加減にしろ。村の有事なんだぞ。司教様は悩みに悩まれて貴様のような身よりもない卑しい身分の人間に英雄となる機会を与えてくださった。偉そうな口を聞くんじゃねえ」


 その剣幕に、背の低い小太りな男が制するように右手をその男の前に出した。


「いいか、こっちには証拠があるんだ。司教様が書いた証明書がある」


 男がポケットから取り出した文書にはこう書いてあった。


『流行り病にかかっている村人に毒を飲ませるようにアジュアに指示をしたのは、この私ルバスタンである。よって処分は私一人が受けるものとする』


 ルバスタンの署名も入っている。


「裁判長にも確認を取ってきた。国の法律上、命令のもとに行われた殺人は、それを命令した指示者とその命を受けた受託者の身分に大きな差があり、それを証明する文書がある場合、命令を受けた人間は情状酌量となり、処罰はされないと。司教様もお前にそのことは話したそうじゃないか」


「いや、待ってください。そんな文書、僕は今日初めて見ました。本当です。そんな話、僕は知らない。それに例えそうだとしても、僕が断ることに変わりはありません。落ち着いて考えてください。病気になったら殺されるなんて、普通じゃありません。ルバスタン様の発想のほうがどうかしている、そう思いませんか」


 思わず僕は声を張り上げて男たちに食ってかかっていた。


 僕が言い終わると、男たちはしんと静まり返り、怖いほどの静寂が訪れた。


「信者でもないくせに」


 背の高い痩せ細った男がぽつりと呟いた。


「みんな知っているぞ。お前が昔、人を殺した罪人だってことくらい。では聞くが、お前は神を信じているのか?」


 虚ろな瞳で僕の顔をじっと見つめた。


「それは……」


 僕は答えることができなかった。

 本当に神を信じているのか、もう僕にもよく分からない。


 小太りな男が、横に広げていた腕を下ろした。


「あの子は、まだ6歳になったばかりだったんだぞ」


 痩せて背の高い男がぽつりと呟いた。


 その言葉で、運ばれてきた小さな少女の亡骸の映像が呼び起こされた。


 父親だ。この人はきっとあの子の父親なのだ。


 そう思った瞬間に、顔に火花を浴びせられたような衝撃が走った。


 痛みとともに世界が反転する。

 気づくと僕は床に倒れ込んでいた。


「お前が、司教様の言うとおりにしていたらあの子は死ななかった!その前の晩に、イナギの野郎の店にお使いに行っただけなんだ。具合が悪いのに店も休まず、あいつがこんなやばい病気を村に広めたようなもんだ。殺されて当然だった野郎なんだよ!」


 男は倒れ込んだ僕にまたがり、喚き散らかしながら殴り続けた。

 顔や体、全身に次々と激烈な痛みが走る。


 しかし、痛みとは別のものが、殴られるごとに、その男の拳から僕の体へとなだれ込んでくるのが分かった。

 悲しみだ。体を引き裂いてしまいそうなほどの、激烈な、悲しみ。


 怒りで真っ赤になりぐちゃぐちゃに歪んだ男の顔から、次々と涙が僕の顔にこぼれ落ちた。


 怒りをぶつける場所がない、その悲しみ。

 僕はこの感情を知っている。

 親友の命を奪われたあの日、巻き込んでしまったのはたぶん自分、それをどうしても認めたくなくて、自分にできることは何もなかったと言い聞かせて過ごす日々。


 僕は目をつぶった。もう抵抗する気はなかった。


 周りにいた男たちも止めに入りはしなかった。

 おそらく、この人たちも、流行り病で亡くなった人たちの遺族なのだろう。


「お前のせいで、村人何人が隔離されてるのか知ってるのか!お前みたいな卑しい前科もんが、聖人君子づらして俺たちに説教するんじゃねえ」


「そうですね。そのとおりです」


 僕は小さくつぶやいた。この後すぐに気を失ったようで、目が覚めるともう作業部屋に男たちの姿は見当たらなかった。


 鉄のような味が口いっぱいに広がっていた。視界も何かに覆われているようではっきりとしない。

 かろうじて、体は何とか動かせるがあちこちが痛い。


 抵抗をしなかったのが幸いしてか、人魚の鱗は見られなかったようだ。


「アジュア、アジュア」


 意識がしっかりとしてきて、ようやくカルミヌスに呼ばれていることに気がついた。


「ごめんね、暗かったでしょ」


 僕はベールを外して、蝋燭に火を灯した。


 時刻は分からなかったがもうたぶん、随分と夜は更けているようで、部屋の中は真っ暗だった。


 灯りをともしてはじめて、自分の視界が真っ赤に染まっていることに気がついた。


「アジュア、大丈夫?」


 カルミヌスの心配そうな声が聞こえ、僕は少しだけ微笑んだ。


 しかし、それ以上、何か言葉を発する気にはなれず、よろよろと倒れそうになりながら、洗い場の扉を開いて、そこへ倒れ込んだ。


 彼女に大丈夫だと虚勢を張れる自信はなかった。


 洗い場には、悪い風邪で亡くなった人たちの遺体が並んでいた。

 生き物の腐りゆく臭いが、悲鳴のように部屋に広がる。


 熱い涙が、次々と溢れてくる。


 悔しいのか、悲しいのか、痛いのか、何も分からない。


 正しいことは何で、間違っているのは誰で、苦しんでいるのは誰なのか、さっぱり分からない。


 神は、いるのか、いないのか、それすらも分からない。


 もし流行り病にかかって寝込んでいたのが、あの少女だったなら、毒殺されていたのは、あの少女なんだぞ、あの父親だってそれくらい分かるはずだ。


 そう、思ってみても、人の心はそんなに簡単ではない。もしも、なんて存在しない。

 大切な人を奪われた、その事実につながる行為をした人間がただただ許せない。殺してやりたい。お前の過失で死んだんだ、そう言って誰かを憎んで、そいつが処罰されるまで、呪いは解けない。


 人々がやりたがらない仕事だけれど、だからこそ僕は生涯この仕事を続けられるし、この仕事はどんなに村の経済が苦しくなろうが、消えてなくなりはしない。

 教会から定期的にきちんとお金も貰えて、それは、僕一人が生活していくには十分な金額だ。


 職業としては羨ましくないだろうが、作物の不作で家族を飢え死にさせることもない。農家では、不作の年には子供たちを街へ売りに行くのも珍しくはない。

 殺人の疑いがかけられた孤児としては、相当、恵まれていると言えるだろう。


 僕はこの世界で一体何をしたかったのだろう。


 科学や医学について死ぬほど勉強して知識をつけたが、それを使う機会も場所もどこにもない。


 卑しい身分の人間にそんな高尚なものを扱える機会を与えてもらえることなどない。


 苦しい。僕は何者でもなくて、誰も救えない。

 惨めで無力で無様な存在だ。


 その時だった。


 暗闇に青い光が瞬いていた。

 まるで夜に光る夏の虫のように、寄せては返す波のように、光が広がったり小さくなったりしている。


 それは、僕の体から放たれた光だった。

 両腕の鱗がまるで鼓動のように、光を放ち瞬いている。


 そうだ、僕にはまだ救える命がある。

 そう言われているような気がした。

 カルミヌスーー。


 そう思った次の瞬間、突然に蜘蛛の巣のように頭の中に張り巡らされていた黒い霧が、晴れた。


 何かがおかしい。

 よく考えろ。この違和感の源を。


 ルバスタンともあろう人間が、僕が村人の毒殺を受け入れるという低い確率に賭けて行動をするだろうか。


 最初からこうなることを見込んでの行動だったんじゃないのか。


 この病気の感染の広がりを止める術はない。

 村人は皆、この異様な厄災を呪いや天罰と結びつけるだろう。つまり、この厄災が止められぬのは、この村の教会が神の逆鱗に触れたからだという結論に至ることは容易に想像できる。


 医学館か。医学館の存在が、この厄災の諸悪の根源だと村人たちは語り出す。


 どこにもぶつけられない悲しみや怒りの向かう先は教会と医学館。つまり、その象徴であるルバスタン、現司教に集中する。


 それが分かっていたルバスタンは、怒りの向かう先を用意しておいた。


 村の外れに住む殺人の疑いをかけられた一つ目の死人洗い。聖人君子の皮を被った卑怯な偽教徒。


 司教様が授かった神からの啓示を、僕が無視をしたから、この厄災はさらに猛威をふるうことになったと人々は考えだす。


 もしも万が一、僕が毒殺に加担すれば、それはそれでルバスタンは自分の手を染めずに感染源を処理できる。


 ルバスタンは、教会を守るために僕を生贄として村人たちに差し出すことにしたんだ。


 そう考えるとすべて辻褄が合う。


 しかし、ただ僕を悪魔に仕立て上げたところで、この厄災を止める術がないのは、同じ。


 ルバスタンの恐ろしさ、それは、決して保身のために彼自身を守っているというわけではないところだ。

 彼はいつも守りの人ではなかった。


 恐らくこれは、攻めの戦略。

 そう、彼が司祭になったあの時と同じように。


 何故、こんな大事なことに気がつかなかったんだ。


 彼の計画はいつも短期的ではない。彼の計画は、時間や政治の大きな流れ、人が見ているよりもずっと先まで見通して、それから逆算して組み上げられている。


 僕に怒りが向くことで、何かを得ようとしている。


 一体、何を?


 あの決別があってから、ルバスタンは僕への関心を一切持とうとしなかった。


 悪い風邪の流行は村に降りかかった偶然の厄災だ。

 しかし、それによってこれまで水面下で進めていた彼にとって重要な計画の最後のピースがはまった。


 あの時と同じだ。レックと僕を利用して今の地位と名誉を手に入れた、あの時と。


 しかし、ルバスタンの計画を予想するピースが、僕にはまだ足りなすぎる。


 ルバスタンが利用するのはいつも人の美しい心だ。美しく透き通った心は真っ直ぐで、正義に満ち溢れていて、支配しやすい。脆くて弱い。

 必要なことは『これが正義だ』とそっと背中を押してあげることだけ。


 僕は僕のことがずっと嫌いだった。

 この見た目も、見た目にそぐわない優秀さや潔癖さも、何もかも嫌いだった。


 もし一つだけ願いが聞き入れてもらえるのなら、この見た目にぴったりの、狡猾で醜く、ただずる賢く、人を傷つけることや人の道に反する行為に何も感じない真っ黒な石のように硬くて強い心を手に入れたかった。


 誰か、大切な人を守り抜くために、それ以外の正義など捨ててしまえる、そういう漆黒に染まった強い心だ。


 このままでは、僕がカルミヌスをルバスタンの計画に巻き込んでしまう。


 確信があった。

 僕はもうすでにルバスタンの恐ろしい計画の一部に、巻き込まれている。

 彼女を巻き込むわけにはいかない。


 次の日、目が覚めてすぐに、洗い場で身体中についた血を洗い流して着替えを済ますと、作業部屋の扉を開いた。


 カルミヌスは、僕を心配してか、夜の間ずっと囁くように歌を歌い続けていた。


 疲れ切って、浴槽の淵に腕をかけたまま、彼女は眠りについたようだった。


 透き通る肌、長いまつ毛。

 触れたら美しい音が奏でられそうな細くて長い髪。

 真っ赤なドレスを着せたら、本の中で見たことのあるお姫様と、きっと見分けもつかない。


「カルミヌス、僕は君のことが好きだ。生まれて初めて、恋をした」


 眠っている彼女の頬に指先を近づけた。


 その時、彼女の長いまつ毛が揺れて、ゆっくりとまぶたが開き、琥珀色の瞳が現れた。


 驚いて一瞬手を止めたが、彼女が何も言わずに僕の顔を見つめていたので、そのまま言葉を続けることにした。


「でも、僕たちは恋をするべきじゃない。だって、もともと別の世界で生きているはずの種族なんだ。カルミヌス、さよならをしよう。一生分の思い出を作ってから」


 カルミヌスは顔を歪めて心配そうな表情で僕の顔を見ていた。


「ごめんね。私、アジュアを助けてあげることができなくて」


「いや、君はもう僕を救ってくれたんだ」


 つい昨日のことだ。

 僕は、君の心が手に入れられないのならば、その命を奪ってしまいたいと思っていた。

 しかし、そんなことをふと思ってみても、行動に移すだけの勇気もなければ、人の道理を外れて悪人になっても構わないというほどの信念もない。

 僕は矛盾だらけで、とても弱い。


 ルバスタンの計画に、君を巻き込むわけにはいかない。

 僕は大切な人の命を、今度こそ守り抜くと決めた。


「アジュアとの思い出は、もう一生分あるけどね」


 カルミヌスは心配そうな表情のまま、彼女には珍しく不器用な笑みを作った。


「とびきり素敵な一日にしよう。命が燃え尽きるその瞬間に、こんな一日があったなと、思い出せるような素敵な一日に」


 行く場所は決めていた。

 いつか、僕に少しだけ勇気が芽生えたら、最期に見る景色にしようと思っていた場所だ。


 僕に似つかわしくない、この世で一番美しい場所で、僕は僕の命を終わらせてみたかった。

 ロマンティストだと笑われても構わない。

 僕がどう生きてきたか、本当の僕の人生を知る人はどこにもいない。


 望まれずに生まれ、愛されずに育ち、愛が何かも分からないまま、言葉の暴力に晒され続け、世界の一番下で、ただまっすぐにつまずき続けながら生きてきた誇り高い僕の人生を、知る人はこの世界のどこにもいない。


 心を焼き尽くすような、この恋を知る人も、どこにもいなくて構わない。


 さようなら、僕の初めての恋。

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