漆黒の月夜のセレナーデ

 浜辺から小舟を漕いで行けるところに、廃城が建つ島があった。

 100年ほど前まで王族の静養地として使われていたそうだが、病弱な王女様がその城で亡くなったのち、その城に訪れた家来が数人相次いで死ぬという奇怪な出来事があってから、その城は呪われた城と呼ばれるようになった。今となっては近づく者すらいない。

 廃城は朽ちて危険なので、島ごと立ち入り禁止になっている。


 城にはかつてはとても美しい<グルスフトマ>の花が咲く庭園があり、廃墟となったあとは、そこが動物たちの楽園となっていた。


 僕が村の外れに移り住んでから、密かに何度か足を運んで庭園の整備をしてきた。


 花壇だった場所で、薬草や果物を育てて、必要な時に採りにいく。


 動物たちが過ごしやすいように水場も作ってやった。


「こんなにたくさんの花を見るのは初めて!」


 動物たちのために作った泉の中で尾びれを水面に打ち付けて、大はしゃぎをしながらカルミヌスは言った。


 赤やピンク、オレンジや紫。

 グルスフトマ以外にも多くの花の苗を持ち込んで、庭園に植えた。


「この庭園を見せたのは君が初めてなんだ」


「アジュアって秘密の場所をたくさん持ってるね。秘密主義って感じ」


「もうこれで全部教えてしまったから、カルミヌスのせいで秘密の場所は無くなっちゃったよ。新しい秘密を探さないと」


 冗談混じりに僕は言った。

 そして、彼女の小さな頭に指先で触れる。

 そのまま彼女の肩へ指を滑らせて体を撫でる。

 水の冷たい感触に混じって、彼女の体の温もりがじわじわと指先に伝わった。

 僕はこの彼女の肌ざわりと体温がとても好きだ。


 小さな鼓動。

 春風みたいに、冷たくて、優しくて、突然に体に吹きつける衝動。


「あのね、アジュア。私はアジュアにまだ話してない秘密があるの」


 カルミヌスは真剣な眼差しで僕のほうを見つめた。


「きっと、これを話したらアジュアは私のこと、嫌いになると思う。でも、言っておかなくちゃいけないって、昨日、夜の間ずっと歌いながら考えてたの」


「僕が君のこと嫌いになることなんて、たぶん一生ないよ」


 もう一度彼女の頭を撫でながら言った。


「私、本当はフィアンセがいたの。少し前まで」


 胸の奥で、がたんと何かが壊れる音が聞こえ、咄嗟に手を彼女から離した。


「王女様だし、婚約者がいるのは当然だよね」


 そう口では言えたが、その次の言葉は続かなかった。


 グルスフトマの鮮やかなピンク色と晴れ渡る空の青が、彼女の泳ぐ泉の水面のあちこちに映り込んで揺れていた。


「そのフィアンセが、行方不明になってるの。私、彼は人間に殺されたのだと思ってる」


「え……」


「素敵な人だったの。まだ直接会ったことはなかったけど。みんなに尊敬されてた。真っ黒な尾びれを持つ素敵な人だって、ばあやがよく話してくれたわ」


 あまりにも予想していなかった話に、僕は戸惑い、しんと静まり返った。


 その時だった。


 静寂の中に、人々の叫び声のようなものが混じっていることに気がついた。


 僕の小屋のあるほうだ。


「それで私は……」


 話を続けようとするカルミヌスを遮り

「待って、小屋で何かあったみたいだ」と言った。


 話の続きを聞きたくないという気持ちもあったのかもしれない。


「様子がおかしい。すぐに帰ろう」


 小舟を漕いで浜辺まで到着すると、小屋のほうから男たちの叫び声が、今度はハッキリと聞こえた。


 僕の名前を呼んでいる。


「おい!アジュア。どこへ行った!」


 大慌てで走って小屋まで向かった。


「どうしたんですか、そんなに大声で……」


 言った瞬間に、男たちの足元に置かれてある死体が目に入った。


 見覚えがある。痩せている背の高い男の人。

 昨日、僕を殴りつけた男。

 首に赤黒い縄痕のようなものがぐるりとついていて、その異様さとは裏腹に、とても穏やかな表情で眠るように目をつぶっている。


「隔離施設にいた患者が、全員殺されてた。施設の前にある大きな木に掛けられたロープに、こいつがぶら下がってるのを、俺が見つけて縄を外して連れてきた」


 小太りな男が興奮混じりに言った。


「もう死んでる」


「そんな……」


「隔離施設の遺体の数は多すぎて、すぐに墓地に埋められる量じゃない。村の男たちにも協力してもらいたいが、感染が拡大するとも限らない。俺たち3人とお前で、施設の裏に穴を掘って、そこで遺体を燃やすしかない」


「待ってください」


 矢継ぎ早に言われ、頭の中が整理できない。


「なんだ、お前のせいでこんなことになったのに、手伝えないとは言わせない」


 小太りの男が、凄むように言った。


「いえ、まずはこの人と、洗い場に運ばれてきてあるご遺体を埋めてから考えましょう。遺体を燃やすなら家族や教会にも確認しないと。ひとまず荷物を置いてくるので、ちょっと待っていてください」


 小屋に入り、カルミヌスを入れた鳥かごと、島で収穫してきた野菜や果物を入れた袋を作業机の上に置き、また外へ戻り、亡くなった男性と村人たちのいるところへ向かうと、腕をまくって男性の遺体を担ぎ上げた。


『しまった』と思うのと同時に、そこにいた男たちの口から次々に言葉が飛び出した。


「なんだその鱗は」


「おい、鱗って…もしかして」


「鱗ってまさか」


「待ってください。聞いてください。これは…」

 咄嗟に、言い訳をしようと男たちに近寄った。


「こっちに近づくな!お前、人魚を見つけて、触ったんじゃないのか」


 僕は、黙ったままその場に立ち尽くした。


「おい、見つけた人魚はどうした?ちゃんと掟どおり殺したんだろうな」


「はい、殺す時に手が触れてしまって」


 僕は慌てて嘘をついた。


 3人の村人たちは、互いに顔を合わせ、他の村人がどう思っているのか確認するような仕草を見せた。


「ひとまず、お前はここにいろ。司教様にこのことを伝えにいく。絶対にこの小屋から出るなよ」


 村人たちは遺体のことも忘れるほどに動転し慌てふためいている。


 遠くで陽が落ちていくのが見えた。もうすぐ陽が沈む。


 教会をめがけて走り去っていく男たちの背中を目で追いかける。


 焦りで目の前がぐらぐらと揺れている。


 ルバスタンを連れて来られたらおしまいだ。

 どうせ、僕はもう彼女との別れは覚悟していた。

 彼女を海に帰すなら今しかない。


 僕は慌てて小屋の中に戻った。


 薄暗い小屋の中でカルミヌスの声がする。


「どうしたの?ものすごい怒鳴り声のようだったけど…」


「焦っていて、間違って村人たちの前で腕まくりをして、鱗を見られてしまったんだ」


「え…」


 カルミヌスは驚きの声を上げて黙り込んだ。


 薄暗い部屋に蝋燭の火を灯す。


「カルミヌス、今日で君とはお別れだ。短い間だったけど、僕は君と過ごした日々をけして忘れないよ」


 鳥かごの中で、僕の作ったバスタブに手をかけてこちらを見上げている彼女が、たまらなく愛おしかった。


 柄にもなく、彼女と話している時は、よく冗談を言っていたことを、ふと思い出して笑みが溢れた。


 こんな時に、とても不思議だったけれど、何故か、いざ別れると思うと、彼女と過ごした他愛のない日常ばかりが思い出された。


「出して、ここから」


 彼女の言葉に頷いて、鳥かごの扉を開けてバスタブに手をそっと入れて彼女をすくい出した。


 つるんとした手触り。

 落とさないように、両手で包み込んで胸の前に引き寄せた。

 彼女が、尾びれを一度だけ弾いて、パシャンと僕の手を打ちつける。


「アジュア、もう一度、私たち会えるかな?」


 彼女がそう言った瞬間、暗がりに青い光が広がった。

 僕の腕のエメラルドグリーンの鱗が、鼓動するように瞬いている。


 ゆっくりと、ミニチュアのような彼女を、顔の前まで持ち上げて、視線を合わせた。


 その時、彼女が釣り上げられたばかりの魚のように、体を拗らせて飛び跳ねた。


 その次の瞬間、彼女の腕が僕の頬を掴んだ。


 落としてしまいそうになり、慌てて彼女の体を支えるように手を持ち上げる。


 いきなりの行動に驚きを隠せないまま、しばらく見つめあった。

 そして、彼女のまぶたが閉じるのが見え、僕もまぶたを閉じた。


 潮の香りがした。


 僕の唇に、小さな唇が重なる感触が伝わった。


 まぶたの向こう側に、青い光が瞬いていて、まるで深海の中にいるような気分だ。


 僕には体なんかなくて、彼女の魂と、僕の魂が深い海の底で、重なって浮遊しているような感覚になった。


 どのくらいそうしていただろう。


 時間の感覚すら、なかった。


 彼女の唇が僕の唇から離れて、ゆっくりと深海の底から引き上げられるような気持ちで、まぶたを開いた。


 目の前にいた小さな彼女の美しさに目を奪われて、心臓が壊れそうなほどに脈を打った。

 体が、全身が熱い。


「きっと、また会おう。約束だよ」


「うん」


 カルミヌスは、小さく頷いた。


 離れたくなどなかったけれど、僕は急いで彼女を鳥かごに戻し、小屋の外を見回して人が来ていないことを確認してから、黒いローブをかぶって外に出た。


 辺りはすっかり暗く、夜になっていた。


 僕は右手に火が灯ったランプを持ち、左手にはカルミヌスの入っている鳥かごを提げて外に出た。


 海岸を通り、彼女を見つけた岩場まで、足早に向かう。


 岩場に鳥かごとランプを置いて、鳥かごの中からカルミヌスを取り出した。


「元気でね」


 僕はそうひと言だけ言うと、彼女の返事も待たずに、岩と岩の隙間に出来た水溜りに彼女を放った。


「アジュア!」


 海面から顔を出したカルミヌスが叫んだ。


 その時、馬の駆ける音が聞こえてきた。


 ものすごい勢いで海岸までその音が近づいてくる。


「早く!早く行って!あの馬の音はルバスタンだ!」


 何か彼女が叫んでいたが、僕は気にも留めずに、その岩場から離れ、小屋を目指して、元来たほうへ踵を返し、浜辺を走り出した。


 しかし、浜辺の中央付近で、シルバーの馬にまたがり礼服に身を包んだルバスタンと鉢合わせになった。


「ここで、何をしているのだ」


 ルバスタンは、僕を見下ろしながら言った。


「何もしていません」


「嘘なら、もっとましな嘘をつけ」


 僕はルバスタンを無視するように、小屋に向かって歩き始めた。


「人魚はどこだ」


 ルバスタンが馬から降りる音が背後から聞こえる。


「よく聞け、小さな怪物よ!貴様が逃げれば、この男は死刑となり、村人たちの前で縄で吊られて処刑されるぞ。助けたければ戻ってくるんだ」


 大声で何度もそう叫びながら岩場のほうへ向かっていく。


 カルミヌスはそんなにバカじゃない。ルバスタンの口車に乗ったりしない。


 僕は、一瞬止まった足を再び前に進めた。


 数歩ほど歩いたところで、澄み渡る歌声が聞こえだした。その声が海岸を埋め尽くし、隅々にまで広がった。


“見たこともない景色

 知らない食べ物

 ずっと憧れていた地上


 とても素敵だった

 思っていたよりも

 人間は美しくて

 人間は醜かった


 この失望をあなたは

 いつから抱きはじめたのだろう

 この喪失をあなたは

 抱きながら死んでしまうのか”


 歌声を遮り、耳を突き刺すような悲鳴が、辺り一面の空気を揺らした。


 振り向いた。

 遠くにルバスタンの姿が月明かりに照らされて浮かび上がって見える。

 背が高いルバスタンが余計に大きく見え、まるでそれはブロンドの毛を生やした怪物のようだ。


 夜空に突き上げたルバスタンの右手には黒いグローブがはめられていた。

 そのグローブの隙間から、虹色に輝く長い尾びれが垂れ下がっているのが見える。


 見間違うはずはない。


 とうとうこの時がやってきてしまった。


「やめてくれ。頼む、彼女だけは」


 砂に足を取られて転がりながら、駆け出した。


 やめてくれ。

 奪ってしまわないで。


 失っていいものは、もっとたくさんあるじゃないか。

 この腕や、この足や、この体や、この想いさえも。失ってしまって構わない。


 ただ彼女の笑顔だけは、奪ってしまわないで。


 身体中から声を絞りだして喚き散らした。

 その瞬間、海岸の奥の木が次々と燃え上がった。


「アジュア、その力を私に使ってしまえば、この人魚もろとも燃えるぞ。さあ、どうする?」


 漆黒の月夜に悪魔のような微笑みを讃えた男の顔が浮かんでいた。

 その顔は、この世のものとは思えないほどに美しく、10年前、彼に初めて会った日と何も変わらない引力を持っていた。

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