君が誰かを愛した証

 かろうじてまだ足の感覚はあった。

 動くたびに全身のいたるところで痛みが走り、頭の中の芯が痺れるような感覚に陥った。


 足元から伝わる感覚が、砂を踏み締める感覚に変わる。

 ここに来るまでに、目に入った建物全てに火を放った。


 もしかしたら、その中には人がいたかもしれない。しかし、追手を阻むには、そうするしか選択肢がないように思えた。

 いや、もしかしたら選択肢はもっとあったかもしれない。しかし、そんなことを考えられるほど、僕の思考はもうすでにまともに機能はしていなかった。


 視界に何かが入り込む。

 虹色に輝く、群青色の鱗で覆われた怪物の手。

 驚いて手で払おうとすると、その怪物の手が僕の意志と連動して動いた。


 足元に目をやる。

 そこにも鱗まみれの怪物の足があった。

 それでようやく、自分が今どうなっているのか理解が出来た。


 あの地下牢で見たリュクシーの姿が思い出された。


 振り返ると、村のほうでは、自然の力に逆らって流れる滝のように、何筋も青い炎が空高く立ち上っているのが見えた。

 村人たちの叫び声が、まるで遠吠えのように聞こえていた。


「カルミヌス、僕は君との約束を守るよ。君を海に帰すんだ」


 目の前には、海が広がっていた。

 いや、広がっているはずだ。


「あなたはもう助からないわ。だから、あなたの体のどこかを私にちょうだい」


 耳元でカルミヌスの声が聞こえた。

 彼女の姿はどこにも見当たらない。


「ラングルスの使い手は人魚に体の一部を捧げれば死を免れることができる。でも、捧げたものは、もう二度と元には戻らないわ」


 意識が朦朧として、歩いているのか、寝転んでいるのかもよく分からない状態で、ただカルミヌスの声だけが、はっきりと耳から聞こえてくる。


「僕は君と一緒にいられるなら、何を失っても構わない」


 口が動いているのか、頭の中で唱えているだけなのか、よく分からなかったが、彼女の言葉だけははっきりと理解できた。


「あなたは、体の一部が備わってないことで、苦しみを抱えて生きてきた。あなたと過ごして気がついたの。人間にとって、他の人間があるべきものを持ち合わせていないということが、普通ではないということが、どんなに人を苦しめるのかということに」


 そうだ。

 僕の目がちゃんと二つあったら、僕の人生は間違いなくもう少しマシだった。


 気味悪がられることもなかった。

 いや、果たして本当にそうだったのだろうか。

 理由は目だったのか?もしかして、優れすぎていた耳のせいではないのか?

 意識が混濁して昔の出来事が次々と目の前に現れては消えた。

 足のたくさん生えた虫が浮かぶスープ。

 恐ろしいものを見る人の視線。

 深く青い深海色の瞳。


「ラングルスの使い手は、本来なら死なないわ。ラングルスは使えば使うほど人間を蝕んでいく。しかし、体の一部を人魚に捧げることで、ラングルスの使い手は死を免れることができるの。だけど、体の一部を人魚に捧げずに死を免れる方法を人間は知りたがった。この村を焼き尽くした青年は、その人体実験の実験体だったそうよ。話を読んだ時は、人間が何故そんなことに固執するのか理解が出来なかった。だけど、アジュア、あなたに出会ってよく分かった。人にとって、あるべきものが無くなるということが、普通ではなくなるということが、どんなに恐ろしいことなのかを知ったわ」


 これまでの僕だったら、確かにそうだったかもしれない。これ以上、何か体の一部を失うなんて、想像するだけで、恐ろしかったかもしれない。


「耳にするよ」


 僕は答えた。


「君の声は、いつも僕の頭の中にある。忘れようとしても、きっと忘れられない。そして君の声以外の音は、もうどんな音だったのか、忘れてしまっても構わないんだ」


「私のこと、嫌いにならないでね。アジュア」


「なるわけないよ。君が悪魔だとしても僕は君を嫌いになれない」


 どこからやってきたのか分からないカルミヌスの小さな手が、僕の耳に触れたと思った瞬間に、全身が青い炎に包まれた。


 そして一瞬で、世界から音が消えた。

 ゆっくりと目を閉じる。

 それと同時に、体から次々に矢が抜けていく衝撃が僕を襲った。

 体に刺さっていたものが全て抜けたような気がして、僕はまた目を開いた。


 音は何も聞こえない。

 視界も思考も、鮮明になっていく。

 先ほどまで全身にまとわりついていた痛みも消えている。

 目の前には、穏やかで美しいコバルトブルーの色をした海が、右のほうにだけ広がっている。

 左には真っ白に光る砂浜がある。


 浜辺に横たわっていることに気がついて、ゆっくりと立ち上がる。

 体のあちこちを確認すると、体からは鱗も傷も消えて、怪物の体ではなくいつもの僕の体に戻っていた。


 ふと顔を上げると、目の前には、何本もの矢を手にした裸の女性がいた。

 僕よりも少し背が低い、大人の女性だった。


「君は…」


 声を出してみたが、振動しか感じない。

 見覚えのある顔をしている。

 栗色の長いまつ毛。

 栗色の美しい曲線を描く長い髪。


 目の前に立っていた女が、僕に駆け寄ろうとした。しかし、その女の様子がおかしい。

 駆け寄ろうとしてすぐに、体がよろけて浜辺にしゃがみ込む。

 しゃがみ込んだ女には、右足の足首から先がなかった。まるで当然そんなところに足などついているはずがないというくらい綺麗な皮膚で、足の先端は覆われていた。

 その足を見つめる僕に、女は何か言った。


 何と言ったのかは、もちろん聞こえなかった。


 しかし、彼女の気持ちが僕には手に取るように分かった。


「不思議だな。耳は聞こえないのに、君が何と言ったのか分かるんだ」


 女は僕から顔を背けて俯いた。


「君は僕のことを醜いと思う?」


 しゃがみ込んだ女は、おそるおそる僕の顔を見上げて、また何かを口にした。


「奇遇だね。僕も君を醜いと思ったことは、一度もない。僕が君の足になるから、君は僕の耳になってくれる?」


 女はゆっくりと深く頷いた。


 なぜ彼女が人間になったのか、そして人間になった彼女になぜ足がないのか、僕にはよく分からなかった。


 彼女と僕が交わしたものは、お互いに代償を払う悪魔の契約だったのかもしれなかったが、ようやく僕は、持ち合わせていないことが、やれることが誰かよりも少ないということが、けして不幸なだけではないと気がついた。


 誰かと補い合うことができる。


 人間になったカルミヌスは、もう人魚の世界に戻ることはできない。

 村人たちを殺してしまった僕も、もうこの国にいることはできない。


「ちょうどよかった。僕は君と出会った時から、君以外のものは、もう何も要らないと思ってたんだ。人を愛することは、こんなにも恐ろしくて醜いことだったなんて、知らなかったよ。君を救うためなら人の命なんて何とも思わない。僕もそういう人間だ」


 僕は自嘲するように笑った。

 自分がこんなに身勝手で、自分のことしか考えていない人間だと思ったこともなかった。

 それどころか、自分だけはそうじゃないと信じて疑わなかった。


 彼女は、静かに首を横に振って、何かをつぶやいた。


 僕はしゃがみ込んでいる彼女のそばに腰を下ろして、彼女と両手を繋ぎ合わせ、おそらく反論を述べた彼女の唇へ、静かに口づけをした。


「海にはもう帰せない。約束を破った代償に何でもするよ」


 恐る恐る彼女の体を抱き寄せる。

 初めての愛する人の体の温もりだった。

 この人を、二度と手放さないように、きつくきつく何度も確かめるように抱き締めた。


「じゃあ、同じお墓に入りましょう」


 確かに耳は聞こえないはずだった。

 しかしはっきりと、彼女の声が頭の中で響いた。


「いつか、どちらかの命の灯火が消えてしまったら、太陽が一番高いところに昇るその前に、送り出しをするの。一人になってしまったほうは、その送り出したお墓に毎年花を飾って、自分の命の灯火が消えるまで、そのお墓を守って、そして最後はそのお墓に一緒に入る」


「君が死んだら、僕はその場で死んだって構わないよ」


「いいえ。人生を最後まで楽しんで、再会した時に教えて欲しい。教えて欲しいの。どんなに素晴らしい人生を送ったかって。この砂浜でアジュアが海のことを教えてくれたみたいに。私も、そうするから」


「分かった。約束だ」


 何も身に纏っていないカルミヌスに自分が着ていた服を脱いで着せ、そしてしゃがみ込んだ彼女を背中におぶった。


「君は僕にとって完璧な人だ。この世界は、こんなにも完璧で、美しい。君に出会うまで知らなかった。不完全であるということが、こんなにも完璧で美しいということを」


 補い合えるという美しさを、僕は知らなかった。僕は自分が持っていないものしか見えずに、不完全で不自由だと嘆いてばかりいて、人が持っていないものは取るに足らないことだと気にも留めなかった。


 僕が世界の一部なら、最初から不完全なはずがなかった。どこかに、僕に足りないものを補ってくれる、そういう人がいるのだ。

 誰にでも、そういう人がいる。

 こんな僕にだっていたのだから。


 海岸沿いの浜辺を彼女の重みを感じながら歩き出した。


 頭の中には、キラキラと光るガラスの足の設計図がもうすでにあった。


 見上げると、ガンギルの刻が迫っていた。


 もうすぐ、太陽が一番高いところに昇る。


 その時、背中に乗せていたカルミヌスの手がだらりと垂れ、滑り落ち、そのまま彼女の体がまるで人形のように浜辺に転がった。


 すぐに駆け寄り抱きかかえた時に、異変に気がついた。何かがおかしい。

 白く細い首に手をやった。

 冷たい。鼓動を感じられない。


『人魚の伝説を知ってるか? 俺のおじいちゃんさ、別の村の出身なんだけど、その村にはこんな伝説があるんだよ。人魚に出会った人は幸せになるっていう話さ。ウルグ村とは真逆なんだ。人魚に体のどこかを捧げたら、その人の不幸の1つだけ身代わりになってくれるんだって。どっちが本当なんだろうね』


 その時、すっかり忘れていたレックが話していた言葉を、ふいに思い出した。


 全身の傷が消えた理由をようやく理解した。

 彼女は僕が受けるはずの不幸の身代わりになることを、選んだ。

 僕に相談することもなく。


 身勝手で卑怯だと思った。

 しかし僕に彼女と同じ能力があったら、きっと同じことをしていただろう。


 この不完全な世界は、完璧で美しい。

 命は生まれて、そして消えていく。

 夏の夕立のように。

 雨上がりの虹のように。


 突然に訪れて、完璧な世界は崩れ去る。


 誰かが命を落とした。そんな話はありふれている。しかし、そのたった一つの命が、誰かにとっては、何かに代えることは決してできない命だったりする。


 ありふれている死なんて、この世には存在しない。


 僕は音がなくなった世界で、喉が張り裂けるほどに泣いた。


 この日見た海の美しさを、青く光り輝くこの海の香りを、君に伝えるために、全身を震わせて泣いた。

 もう君に届く声は何一つなかった。


 これが生きるということだ。

 君が教えてくれなければ知らなかった。

 生きるということは、生き残るということじゃない。


 生きるということは、誰かに生きることを望まれたということだ。


 誰かに、一度は、愛されたということ。


 君に、全身全霊で愛されたということだ。

 僕が生きている、それは、君が誰かを全身全霊で愛した、その証だ。


 僕の瞳に映る君が愛した何もかもが不完全なこの世界は、今もなお美しく、残酷なほどに完璧で、まるで一枚の絵画のようだった。


 遠くには、白く輝く、ロウソクのように見える灯台が見えた。

 あの日と、何も変わらなかった。

 ただここに、君の命だけが足りなかった。


 僕は、君がここにいなくなってしまったことが、心の底から寂しいだけの普通のどこにでもいる人間だった。


 聖人でもなかったし、悪人でもなかった。

 出来損ないでもなかったし、優れてもいなかった。

 どこにでもいる、ただの普通の人間だった。


 小さな人魚と青い幸福の香りだけが、この世界から泡のように消えた。

 まるでそれが、どこにでもあるありふれたことのように。

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