愛する人への贈り物
「あなた」
視界に入るメガネのレンズがチカチカと赤く瞬いていることに気がついた。
私は、古くなってボロボロになり、掠れた文字の並ぶその手紙から目を離し、顔を上げた。
「あなた、どうしたの?何度も呼んでいるのに」
ちょうど淹れたての紅茶を運びながらダイニングテーブルに向かってくる妻と、目が合った。
耳が聞こえない私は、さまざまな情報をこのメガネから得て、またさまざまな情報をこのメガネを使って発する。
目が合った人の話している言葉は、文字となってレンズへ映し出され、レンズに映った私の手の動きに合わせ、メガネに埋め込まれたスピーカーから音声が発せられる。
このメガネの原案を考えたのは、私が科学省に入省した頃なのだが、ようやく数年前に私の考えていたものに近いものが開発され、販売されはじめた。
今では多くの耳の聞こえない人たちに愛用されている。
「いや、古い手紙を見つけてね」
「へえ、確かにずいぶん古そうな紙だこと。誰からもらった手紙なの?」
「ああ、昔に死んだ父からもらった手紙だよ」
「あら、そんな大切なものがあるなんて、私、初めて聞いたわ」
そう言うと、彼女は紅茶をテーブルの上に並べて椅子に腰掛けた。
手紙に手を伸ばし読もうとする素振りを見せたので、私はその手紙を折りたたみ、「大したことが書いてあるわけじゃないよ。ただ、懐かしくてね」と言いながら封筒の中へ便箋をしまった。
視線の先には、瓦礫の山が並び、子供が泣きながら死んだ母親をゆすっている姿があった。
ダイニングテーブルの前の壁に取り付けてあるレズロに映し出された映像だ。
私の視線を追いかけて、右隣に座っていた妻の視線も移動した。
「やあね、戦争って。せっかく旧3大帝国軍縮会議で、グラン・マダルシカの廃棄が決議されたって言うのに。世界にはまだ戦争を続けている国があるだなんて」
すっかり髪が銀髪になった妻の眉間に折り重なるようにシワが寄せられた。
「そうだね」
かつて、今から50年ほど前、この町は<ウルグ村>と呼ばれるのどかな田舎村だった。そんな、のどかな田舎村が、今では旧3大帝国の主要都市の一部となった。
そのきっかけとなったのは、今は<人魚病>と呼ばれている感染症だ。初めて人魚病が確認された当時の致死率は、40%をも超えるとの記録が残っており、「人魚の呪い」として人々に恐れられ、国中を震え上がらせた。
ウルグ村は、人魚病の初期の流行地だった。ウルグ村では、突如として疫病が蔓延し、村人たちのほとんどが亡くなるという歴史的な事件があった。
生き残った村人たちは疫病を恐れて、村に火をつけて回ったと言われ、この町に当時のことを知る人も、また当時の村の面影さえも、少しも残ってはいない。
その疫病の余波は、周辺の村にも及び、現在の都市一帯で多くの死者が出た。
同時に他国でも人魚病により多くの都市が壊滅的な経済ダメージを受け、もともと国境で小競り合いを繰り返していた国同士による大きな衝突が世界規模にまで膨れ上がった。それは、疫病で疲弊した経済を回復するため、世界中を巻き込んだ領土獲得戦争へと発展した。
泥沼化した世界戦争を終結させたのは、伝説の兵器、グラン・マダルシカだった。
わずかに残っていた伝承を参考に作られた飛行型の爆撃兵器が、停戦に頑なに賛同しなかったログドワズールという帝国の軍事都市を消滅させたことで、停戦に賛同していなかった国々も、協定書に署名をすることとなった。
長らく続いた戦争と疫病により、荒れ果てていたこの一帯も、戦後に都市開発が進んだことで、国の主要都市となった。しかし、首都から遠いこともあり、穏やかな港町であることに変わりはない。
私は、政治家を引退した11年前に、この町へ妻と一緒に越してきた。
妻は、かつて私がここで生を受け、ここで育ったことを知らない。
それを知る人間は、この世の中でただ一人しかいない。いや、いなかった。
今は亡き、<黒髪の軍神>と呼ばれた軍事長官だ。
長官は、昨年、多くの国民に惜しまれながら見送られ、今は首都郊外にある墓地で眠っている。彼は、私の秘密を知る唯一の人であり、私もまた、民衆がけして信じられるはずもない彼の秘密を知る唯一の人間だ。
そして今は、その秘密は永遠に彼の遺体と共に国土に埋められた。
「ちょっと今日は出かけてくるよ。帰りは遅くなるから、友人と食事でもしてきたらどうだい?」
「そうね。春も、もうそろそろ終わるし、お友達と花でも見てこようかしら」
「ああ、そうだね」
私は例年、この時期になると必ずこの町の外れにある浜辺にやってきて、海に花を投げ入れる。
この時期に開花を迎えるグルスフトマの花だ。
激動の時代を共に過ごしてきた妻との間には、3人の子供に恵まれた。
その子供たちにもまた、子供が生まれ、私はおじいさんになった。
「今年は、長男の息子が高等学院に入学したよ。寮住まいになるらしくてね、奥さんが寂しがっていた」
私は海に向かって、一年のうちに起こった出来事を少しずつ、時間をかけて語る。
「長女の娘の友達に、義足の子がいると話したことがあるの覚えているかい?あの子がね、中等学院生向けの世界陸上選手権に出場することになったそうだよ。義足が発達しすぎて、大会のルール規定がとても厳しいらしくてね、私の知り合いの腕利きの職人を紹介することになったんだ」
とりとめもなく、思い出すがままに話を続けるうちに、だんだんと日が落ちて、空の色にピンク色が混じり始めた。
「今年も人魚は、姿を現さなかった。君の種族は、どこへ行ってしまったのかな。人魚が実在するだなんて、もはや誰も信じてはいないよ」
戦争と急速に発展した産業により、海は深刻な海洋汚染問題を抱えている。
人魚は、もはや本当に絶滅してしまったのかもしれない。
何かを失うと、何かを得る。
これは、この海に眠る人から教わったことだ。
私たちは、人魚のいない世界で、何を得たのだろうか。
激動の時代を生きてきた。
軍人として、科学者として、多くの人の命を奪った。
しかし、私は罰せられるどころか、戦争のない平和な国へ導いた政治家の一人として、歴史に名を刻もうとしている。
そこには語り尽くせないほどの対立や葛藤が、もちろんあった。
非情な暴力は、凄まじい恐怖を生み、それに対する怒りは、世界を大きく変えた。
今でも、正しい行いだったのかは分からない。しかし世界は、父の目指した夢物語のような世界へと近づきつつある。
その激動の歴史の渦の中、私は愛する人と出会った。
彼女は宝石のように美しい子供たちを産み、私に幸福な人生を与えてくれた。
そんな彼女に話していない秘密が、二つだけあった。
一つは私の出世と生い立ちにまつわること。もう一つは、春が終わるこの時期に、毎年、私が訪れる場所と、その理由だ。
今日は、その秘密のうちの一つを終わらせるために、この浜辺にやってきた。
50年経ってもなお、目の前に広がる景色にほとんど変わりはなかった。
埠頭には、昔と変わらないロウソクのような形をした白い灯台がある。
しかしあの日の痛みは、思い出そうとしても、もう思い出すことはできない。
おぼろげに思い出せるのは、金属の皿から身を乗り出して歓声を上げる小さな人魚の横顔。
「君がくれた命を、人生を、私は謳歌しながら、生きてきた。そうやって生きてきて、気がついた」
君が望んだことは、君との約束を、私が守り続けることではなかったのかもしれないということに。
彼女が私に与えたもの、それは、縛られる約束でも、後ろめたい秘密でもない。
夕日に赤く染まる砂浜を歩きながら、私は来週に迫った妻の誕生日に、彼女に何を贈るかについて考えていた。
かつて私に『希望』という贈り物をしてくれた小さな人魚がいた。
私は愛する妻に、何を贈ろうか。
小さな人魚と青い幸福の香り 林桐ルナ @luna_rin
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