第20話
次の日、佐久間が大学へ講義を受けに行くと、法経第4教室では、横山さんがいつもの席に座っていて、やはり手を振ると挨拶をしてくれるのだった。
「おはよう。佐久間くん、めっちゃ焼けてるんやん! 休みにインドでも行ったん?」
「そうそう、悟りを開くためにちょっと修行してきた」
「えっ、ほんまに行ったん?」
「ちょっと砂漠にね」
「三蔵法師やな」
佐久間が横山さんの隣を通り抜けていつもの席に座ると、それを見計らったように例の美少女(名前を忘れた)が近づいてくるのだった。
「おはよう!」
「あ、こんにちは」
「ねぇ! あとで民法教えてくれへん? わたし、代理がよく分からへんくて……」
「うーん、まぁいいけど……。俺もあんまり分かんないよ」
「やった。分かる範囲でお願いします!」
彼女の声は、いちいち弾んでいた。
附属図書館1階の奥には、「ラーニングコモンズ」と呼ばれる、議論用のスペースが広がっていた。佐久間は、以前、図書館の中を窓からのぞいたとき、隣り合って座っていたカップルがちょうどキスする瞬間を見てしまったことがあり、そのときから、ここでカップルのいちゃつき行為が行われることを「ラーニングコモンズの悲劇」と呼んでいる。ここは勉強・議論する場であって、勉強にかこつけていちゃつくための場所ではないのだ。
ラーニングコモンズは、期末試験前ということで、16時ともなると、ほとんど学生で埋め尽くされていて、とりつく机もない。そんな中でも木村さんは、ずんずん中へ進んでいき、ちょうど空いた机を自分のかばんで占拠して、場所を確保したのだった。あまりのしたたかさに佐久間は、彼女の勇姿を目を見開いて見ていた。その間にも木村さんは、ホワイトボードを確保していた。
「ほら、はやく!」
佐久間がぼけっと突っ立っているのを見かねてか、木村さんは、さっそく椅子に腰かけて、佐久間を手招きしている。木村さんは、膝上のスカートを履いているのにその長い脚を組んでいて、すらっと伸びてみえる素足がエロい。佐久間は、邪念を振り払い、その机のもとへ行く。
「今日は、代理について、ね!」
その日、附属図書館が閉館するまで、佐久間は、木村さんと代理について熱い議論を交わした。
テスト前だというのに、佐久間はサウナに入っていた。いや、家の中が蒸し暑すぎてサウナ状態になっていた。ただでさえ蒸し暑さで勉強が進まないのに、勉強のために広げているノートは手の汗で湿ってどんどん書きづらくなっていき、それがさらに佐久間をイライラさせる。なら冷房をつけたらよいのではないかとも考えられるが、佐久間は断固として下宿の冷房をつけることに反対していた。つけたら負けなのだ。誰とたたかっているのか、それは自分とのたたかいだった。
自分とのたたかいにおけるルール上、図書館など他の施設の冷房は大丈夫なのだが、涼しく、むしろ寒いくらいの附属図書館は人でいっぱいで、佐久間がその日朝10時過ぎに着いたころには、もはや踏み込む隙も無かった。開館時間を確認したが、土日はやはり朝10時からである。汗をかいて大学まで自転車で来て、そのまま何もせずに汗をかいて下宿アパートまで戻った。見込みは甘く、この経験は少し苦かった。
夜になるとかなり暑さは和らいでくるが、それでも部屋の中は30度あたりをうろついている。自分とのたたかいにおけるルール上、夜寝る前に冷房をつけることは許されている。あまりの暑さに寝られず、一睡もできないときがあり、ルール改正があったのだ。
佐久間が風呂に入る前に、冷房をつけようとしたときだった。Iphoneがけたたましく鳴り始めた。鳴り響く時間が長いことで、電話がかかってきていると分かる。
慌ててiphoneを探して画面を見ると、そこには、高山の名前が表示されていた。
「もしもし、佐久間です」
「あ、もしもし。鴨川に集合。今からな」
佐久間は、返答することはできなかった。というのも、あまりの唐突さに、困惑していたし、そもそも高山は、自分の要件を言い終わるやいなや、通話を切っていた。すでに午後10時を回っていた。
佐久間が鴨川デルタに到着すると、すでに高山がベンチに座っていた。佐久間が近づいていくと、高山も気づいたのか、佐久間の方を向いてペットボトルを放り投げる。佐久間は、急に目の前に飛んで現れたペットボトルに驚いて、慌ててキャッチする。
「なんなんこれ、いきなりどうしたん?」
「オレンジジュースですけど」
「え? ああ、それもだけど、何の用で呼び出したんですか」
「ああ、ふつうにラノベの話。例のやつね」
「それかぁ。なんかあった?」
そう言いながら、佐久間は高山の隣に腰をかけた。辺りには人影は少ないものの、ちらほらと三角州の先の方に人がいるのが分かる。ときおり吹く風が心地よい。夜の鴨川は、涼しくて静かだった。
「少々気になるところがいくつかあって。
まず、主人公が最初に警備組織に捕まったとき、捕まったのは建造物侵入みたいなことなんだろうけど、なんで釈放されたのか、よく分からないんだけど」
「それは……、たぶん故意がなかったんだろうな。神社みたいなところに落とされたってことになってるんだけど、ある程度一般人も入れるようになってるだろうし、しかも主人公に言葉が通じてないから主人公を外人かなんかだと思って、立入禁止だと分からないで入ってしまったと判断したんじゃないかな」
「それって日本の刑法の知識なん? この世界に当てはめていいん?」
「その辺は、別に問題ないと思ってる。そこまで日本と価値観がかけ離れた世界を想定しているわけじゃないしね。総論的な部分はある程度似てくると考えてる」
「なるほどね。そういう設定もあるのね。まぁ、日本の刑法も分からんが。しかし、神聖な土地に勝手に立ち入られたのに、ふつうおとがめなしとはいかんのではないの。国民感情的にも」
「国民たちは、そういう宗教的感覚は薄れているっていう設定だけどね。まぁ、そういう土地を聖地としている宗教団体もありそうだし、そういう信者からすれば、そうなんだろうけど。まぁでも、入った当時に故意があったことについて疑いがけっこう残ってるなら、勾留はしないし、できないのではないかなとも感じる。そういうときは、嫌疑不十分となって、そもそも国民感情云々の問題ではないと思うんだよね。知らんけど。」
「知らんのかい!」
「ただ、嫌疑がある場合で、国家が刑罰権を発動するときに、そういう宗教的な話を持ち出してもよいのかには問題はありそうだけどね。宗教分離していれば」
「で、この国は宗教分離している設定なの」
「それは、分からん」
「やっぱり適当かい」
佐久間は、苦笑いするしかなかった。宗教としてタイツとニーソの話を出し、国民の宗教感情は薄れているとしているものの、やはり歴史的経緯としては、おそらく当該宗教を基に国をまとめていた時代もあったろうと思う。しかし、宗教感情が薄れているかどうかと、国教とされているかどうかは、独立して考えるべきなのだろうか。現在のイスラム圏が参考になるかもしれなかったが、しかし、そこは重要な論点ではなかった。もっとほかに大切なことがある。
「でも、結局は、刑罰の量を決める上で国民感情が出てくることはほとんどないと思うから、やっぱりそんなに重要な問題ではないかな」
「そんなら、刑罰の量を決めるのに重要なことはなんなん?」
「それは、その人がどんな犯罪行為をしたか、だと思う。動機とか行為態様とか結果とか。この辺は、一般的な感覚とあまり変わらないような気がする。」
「ふうん。ちなみに、嫌疑不十分で釈放っていうと、結局逮捕ってなんなの? 犯人を捕まえてるんじゃないの?」
「逮捕は、短期の身体拘束のことを指してて、日本だとその後、勾留っていう長期の身体拘束があるんだよね。基本的には、警察が逮捕してから48時間以内に検察に送致して、検察は受け取ってから24時間以内、かつ、逮捕された時から数えて72時間以内に、勾留請求するか起訴するかをしないといけなくて、そうでないなら釈放しないといけない。
犯人を逮捕してるっていうか、犯罪をしたとの疑いをある人を身体拘束しておいて、その人が逃亡したり、証拠を隠滅したりできないようにすることが目的なんだよね。これは勾留も同じ。あ、取調べ目的でもないよ。罰を与えるものでもない。だから、逮捕された時点で、逮捕された人が犯人だと決まったわけではないし、確かにその人が行為をしていたとしても、犯罪の構成要件に該当する行為やその故意があったことを証拠上立証できない場合もあるとは思う」
「犯人だけど、証拠上犯罪を立証できない、なんてことはあるの?」
「それはあるんちゃう? 例えば、横領とかで権限がないのに他人のお金を自分のお金として預金口座に入れたときに、その日の入金の記録に横領の額と同じ金額が入金されてるのが分かるとしても、犯人自身が自分のお金を預金しただけの可能性は残ることない?」
「まぁ、それはそうか……」
「全部について直接証拠があれば話は別だけどね。まぁ、逮捕に関する世間の認識って刑事ものとか探偵もののドラマやアニメによる影響がすごく大きいって思うわ。あれって、『犯人』が『犯罪』をしたことが明らかになって終わるやん。でも実際には、それが明らかになるのは、建前上は、判決が確定したときだし、検察官もその人が犯人で犯罪行為をしたことの裏付けが十分じゃないから捜査をしてるんだと思う」
高山は、今の会話の内容をメモ帳にメモしているようだった。ところどころ覚えていないところを佐久間に尋ねてくる。佐久間は、高山を真面目なやつだと思った。そして、それくらい熱心に勉強するなら、法学部に入ればよかったのに、と思った。高山は、書き込み終わると、ミックスジュースを一口飲み、次の質問をした。
「それと、ルウマってなんなん? なんで主人公はここに連行されたん?」
「それは、人生をやり直すときのスタート地点を作ってくれる施設というか。
例えば犯罪をしてしまった人の後のことを考えると、就職してる人の方が、再犯率が低いらしいやんか。だから犯罪をして働いてた会社を解雇されてしまってたら、再就職できるように支援していった方がいいんだけど、住むところがそもそもないような人は、ルウマみたいな施設にいったん住まわせてもらって、そこを拠点に就活できるみたいな感じにしておいた方がいいってわけ」
「ほぉ。じゃあ、そうすると、なんで主人公は、そこにぶち込まれたん?」
「そりゃ、取調べのときに、住所は? って聞いても、どこで働いているの? とか聞いても、主人公が全く何も理解してない感じで、何も答えなかったからでしょ。まぁ、ルウマへの連絡を警備組織がやるのか、みたいなことは問題になるのかもしれんけど。その辺は考えてない。おそらく、まず施設の方に連絡が行くのかもだけど、そんな感じでやるときは、本人の同意がいるだろうし。そうでなければ法律を根拠に行うことになりそうだけど、その制度を考えるのは、なかなか難しいんちゃう?」
「なるほど、細かいところまでは考えてない感じなのね。でも、その辺の細かい設定もできるだけ考えておいた方がいいかもしれないのでは」
「それはそうだけど、それは、たぶん、まず行政法を研究せなあかんくなるからな。このラノベを書き終われなくなると思う」
「なるほど。それは困りましたな」
高山は、手を口に当てて、少し考えるようなしぐさをした。というより、さきほどから、佐久間の話を聞きながら何かを考えているようだった。佐久間からすると、高山が、細かい設定まで考えてほしいように思っているようだった。
「けっこう細かいところまで詰めた方がいいんかな」
「まぁ無理にやって進まなくなるよりは、細かいところを捨ててもいいんだけどね。細かい設定とかあった方が、背景とか書きやすいかなと思って。設定を象徴するようなものとか描きこめるかもしれないしね」
「ああ、なるほど。なら、できるだけ細かく設定を考えるようにするわ」
そう言ったものの、佐久間は、物語を完成させるので精いっぱいだろうなと感じていた。
「あと、このルウマに、もとからなのかは知らんけど、住んでる女の子たちっていうのは一体何者なの?」
「基本的には、訳あって犯罪をしてしまったみたいな女の子たちを想定してるけど、未成年の犯罪で家に帰れない子とかも想定して作った気がする。未成年の定義は考えてない。基本的には、みんないい人っていう方向で考えてる」
「なるほどね。その辺も考えておいてもらえると助かる。
物語としては、ここまで、貴船神社から異世界に来て、なぜか警備組織に捕まり、なんやかんやで釈放されて、なんやかんやでルウマに来たって感じか。だいたい導入部分ができたって感じかね。挿絵描いてほしいとことかあるの?」
「う~ん。挿絵なら、異世界に着いたところと、警備組織に取調べを受けているところと、ルウマで挨拶しているところかな。あとはどこでも」
「その取調べの警備員って男なん? 女なん?」
「それはどっちでもいいよ。タイツかニーソかっていうのも、どっちでもいい」
「りょうかい。っと、おや?」
メモ帳に描きこんでいる途中で、高山が何かに気づいたのか、糺の森の方を見ていた。佐久間も同様にそちらを見ると、なにやら女性の話し声がしたが、よく見えなかった。しかし、段々シルエットと声が近づいてきていることから、どうやら女性たちも鴨川デルタの方へ歩いているようであった。
「誰かいた?」
佐久間は、高山がそちらの方を見てばかりなので、思わず声をかけた。が、高山が少し驚いた様子で佐久間を見て、歯切れの悪い返事をしている。そのときだった。
「あれ、たくくん。どうしたの、こんなところで」
「え、あ、いや、例のやつで……ね」
ね、と言いながら高山は佐久間にアイコンタクトを図ってきたが、そもそも例のやつが一体何なのか、佐久間にはさっぱり分からず、お、おうといったあいまいな返事しかできない。電灯の位置が遠く、また相手が電灯に対して横を向いているのであまりよく見えないが、高山の話している相手は、なんとなく美少女として浮かび上がって見えた。
「ああ、例のやつね! じゃあ、こっちの方は、例の方?」
「そうそう、その例の人、佐久間っていうんだけど」
佐久間は、急に見知らぬ美少女に紹介されて、慌てふためいた。何度も言葉を詰まらせながらようやく自分の名前を述べることができた。
「えっと、こちらの方は……」
自己紹介をした後も、佐久間の気まずい心地はさらに一層大きくなり、相手に問いかけているのか、高山に問いかけているのか分からないように、高山と美少女に交互に視線を向けて、微妙な言い方で尋ねていった。
「こちらは、斉藤さん、サークルの同期で学部が同じ」
高山が答えていたが、斉藤さんなる美少女はさらに、で? と追撃をかける。
「それはええやん!」
高山がにやにやしながら美少女につっこみ、美少女は、え~と言いながらもにやにやして高山の腕を軽くたたいている。その二人のやりとりは、あまりにも初々しかった。そして、佐久間が二人の関係を察するには十分だった。佐久間は、今すぐ帰りたかった。
仮にも佐久間がひっそりとよれT男と呼んでいたあの人物が、まさかこんな美少女と付き合っているとは思えず、衝撃で、驚き、言葉にならなかった。こんなことってあるんだと、佐久間にも思えた。思わず口に出そうになった。佐久間は、高山からもらったオレンジジュースを一口飲んだ。すっきりとした甘さが身体の中に入ってきた。しかし人工甘味料はいつまでも身体の中に残っているわけではなかった。
その後、斉藤さんなる高山の彼女は、学部の同期と遊んでいるとかでデルタの先の方へ駆けていった。そのとき、佐久間はふと気づいた。
「あれ、今って文学部もテスト間近だよね?」
「まぁ、そうだけど、余裕なんちゃう?」
そう聞いた佐久間は、人種の違い、あるいは学部の違いに、絶句した。
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