第3話

 佐久間は、ライトノベルを書きませんかというファブリースからのメッセージを読んだ次の日の朝、2限の講義を受けるべく古都大学へ向かった。佐久間の家は、北白川の疎水沿いにあり、疎水沿いには桜がたくさん植わっている。4月初めごろにはピンクのじゅうたんが疎水に敷かれたものだが、すでにそのじゅうたんもいつしか消えてしまっていた。

 御影通りの信号を突破し、T字路にある西へ急な伸びる下り坂を自転車で駆け抜けて今出川通りに出る。今出川通りに出るまでの急な坂の先には、90度の直角コーナー(彼は、ここを「デグナー」と呼んでいる。)があるが、その先では夕方ごろや休日には、ときどき小さな子供たちが遊んでいることもあり、そこにカーブミラーもないので、肉食動物が近くにいないかどうか感覚を研ぎ澄ませている草食動物並みに、子供たちの遊んでいる声に耳を澄ませてデグナーに突入せねばならない。その恐怖心たるや、鈴鹿サーキット並みである。

 古都大学は、今出川通りを南に渡ったところにあった。今出川通りの横断は、大魔王TIKOKUとの戦いにおいて、数々の勇者を葬ってきた恐ろしい場所であるが、彼は、何時何分何秒に家を出発し、どれくらいの速さで自転車をこいでいけば今出川通り横断をすんなり攻略できるかを、1回生の間に徹底的に調査したので、通算では結局勝ち越している。今年度も、まだ始まったばかりであるが、15戦13勝であり、一時のフェラーリ並みの強さを誇っていた。

 その日は、家を出発した時間からして、百万遍の交差点を利用すべき場合であった。佐久間は、今出川通りを西へ下っていき、百万遍まできて、すんなりと青信号で交差点を通過すると、自転車での入り口に行く途中で、歩行者のみ通行することのできる通路を、横山さんが歩いているのを発見した。

 佐久間は、横山さんとは、1回生のころの語学の講義が同じであり、その小柄でショートカットの似合う小さな丸顔に心底惚れてしまい、それ以来、横山さんの背中をずっと追いかけている。その横山さんは、4月の終わりだというのにまだ少し肌寒い今日のために、タイツをはいていた。佐久間は、今日はなんてすばらしい日なのだろうと思った。横山さんも同じ法学部で同じ刑法の講義を受けるはずなので、今日は、もしかしたら横山さんと話すことができるかもしれない、そんな淡い期待を抱いたが、ふと横山さんの隣に男がいたことに気づいた。

 慌てて横山さんらから目を離し、前方を向いて自転車を走らせる。しかし、まだあの2人のことが頭の片隅に残っている。

 その男は、佐久間にとって見知らぬ者であった。背は、横山さんとの比較からして、佐久間と同じくらいであり、ぱっとしない顔立ちである。髪もぼさぼさで寝癖がひどい。上のTシャツは、おそらく春と秋に一軍の先発ローテーション入りを果たしたであろう、そして夏でも袖をまくって着ることで登板する機会があったであろうよれよれのもので、佐久間は、外見に関してはその男に勝ったと思った。しかし、横山さんは、その男としゃべって笑っており、いかにも親しげである。佐久間は、その男がもしや横山さんの彼氏ではないかというとんでもない学説まで考えていたが、頭を振ってそんな邪念を振り払う。そもそも、あんなやつに取られたということなど、とうてい受け入れられない。しかし、仮にそうだとしたら、心は無念の思いで破裂し、生きていく気力を失ってしまうだろう。

 佐久間は、法経本館北側付近にある駐輪場に自転車を止め、大教室に入ると、ちょうど教授が壇上に着いて講義に向けて荷物を整理しているところだった。佐久間は、いつもどおり、真ん中あたりの列の中央あたりの席に座る。講義が始まると、横山さんが少し遅れて入ってきて入口付近の席に座った。

 そのとき、佐久間は、さきほどの男がいないことを確認した。この講義は、同じ学年で同じ学部の人はほぼ全員が受講しているので、あの男は、別の学部かもしれない。しかし、先輩という可能性もある。その他の可能性もある。いずれにせよ、サークルなどの、佐久間の知らないところでの交友関係だと分かり、彼女について知らないところを知ってしまって、自分が彼女と遠く離れた位置にいると感じた。浮かれていた気持ちは、憂鬱な気持ちに一瞬で取って代わられてしまった。もちろん、その日の講義の内容は、頭に入ってこなかった。


 午後の専門科目の講義と唯一の必修科目である英語の講義を終えると、もう午後6時を回っており、春も終わりに近づいているとはいえ、あたりはすでに暗くなり始めている。少し肌寒さを感じながら、佐久間は、その日、すぐに下宿へ帰宅した。いつもならサークルの部室を訪れ、漫画を読んだりテレビゲームをしたりと、サークルの同期や先輩後輩たちとダラダラ過ごすのだが、その日は、前日のあのメッセージの返信が来てないか気になっていたのだった。ちなみに、横山さんについては、あの講義の後、いつも仲良さそうにしている友人たちと昼ごはんを食べようとしているところを見かけた、というより、それを横目に、佐久間は大教室を出て行ったのだった。あの不審な男は見かけなかった。昼ごはんを一緒に食べるわけではないのかと思った。


 家に着くと、佐久間はすぐにパソコンを立ち上げた。「小説GO」のウェブサイトを開くと、「メッセージ」のところに「1」が赤い字で示されており、誰かからメッセージが1通届いていることが分かる。そこをクリックしてみると、そのメッセージの送り主は、もちろん例のファブリースなる人であった。


「こんにちは、電子レンジさん。早速のご返事、ありがとうございます。協力してくださるということで、とてもうれしいですし、これからが楽しみです! よろしくお願いします。

 ところで、私の描いている女の子がなぜみんなニーソックスを履いているのかということについてですが、おそらくあなたのイメージ通りだと思います。あなたなら分かってくれると思いますが……。

 とにかく、近いうちにメインキャラクターになる女の子を描いて送りますね!」


 ファブリースの返答を読んで、佐久間は、やっぱりそうだったか、と思った。ファブリース氏の言いたいことはよく分かるが、これでは共同で制作している途中で全面戦争が勃発しかねない。ライトノベルを2人で作ろうという計画は、途中で頓挫してしまうかもしれない。ファブリース氏はそのことに気づいていないのだろうか。

 佐久間は、顔の見えない相手とやりとりをしていることもあって、頭の中が不安でいっぱいになってきた。最初は勢いで、一緒に作りたい! と言ってしまったけれど、よくよく考えてみれば、全く素性の知らない相手とそのまま一緒に何かを作っていくのはアホであるということは火を見るより明らかだった。

 しかし、と佐久間は思う。いつも一人でパソコンに向かって文字を打っているだけだった佐久間は、一人で物語を創り出すことの限界を感じていた。物語を書いているときはいつも何か欠けている気がするのだ。なぜこの人物はこのような行動をするのか、こういう展開に持っていくには、誰のどんな行動が足りないのか。自分の中では十分ストーリー全体がつながっていると思えても、実際にはつながっていないような気もする。

 そうであるなら、いっそこの機会に誰かとタッグを組んでみるのもアリだ。乗りかかった舟である。幸福は大胆に味方する、虎穴に入らずんば虎子を得ず。相手の素性が分からないという不安要素には目をつぶってやってみた方がいいかもしれない。

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