第27話

 佐久間は、横山さんとともに吉田山を上っていた。「山」と付いているが、何百メートルも上るような大きな山ではなく、40メートルほど上ればすぐに山頂に着く、丘のような山である。木村美夏と話す場所はこの吉田山の山頂にある公園と決まったようだった。そこなら、平日の昼間ともなれば、犬の散歩をする人をみかけるくらいで、普段、人はほとんどいない。喫茶店のような場所よりも、こちらの方がじっくり話すことができそうだった。

 佐久間は、少し緊張していた。木村美夏とこのような形で対峙することになることに。彼女はいったい何を語るのだろうか。お願いだから、付き合っていることは言わないでほしかった。

 時刻は、もうそろそろ午後2時である。天気はどうも昨日から下り坂らしく、今は少し曇っている。天気予報によれば、雨が降る確率は相当低そうだったが、佐久間は、尋問中に雨が降り出さないか少し心配だった。

 山頂付近まで行くと、やはり人はいないようだった。上ってくる途中にも人は見かけなかったので、おそらく人はいないだろう。佐久間たちが公園に着くと、石垣に一人の女性がうつむいて座っていた。その人が木村美夏であることは明らかだった。佐久間たちが木村美夏の方へ近づいていくと、足音で気づいたのか顔を上げて立ち上がった。

「遅かったやん。それに、二人で来たん」

 佐久間は、二言目は、自分に向けられたものだと思った。

「そうだよ」

「ふ~ん、まぁええけど。話ってなに?」

 木村美夏は、そう言うと、さきほどまで自分が座っていた場所に腰を下ろした。佐久間たちは立ったままで、彼女を見下ろすかたちとなった。

 木村美夏の口ぶりは、明らかにぶっきらぼうで、苛立っていることが佐久間には分かった。隣を見ると、横山さんは、少し心配そうな顔で木村美夏を見ていた。

「美夏ちゃん、高山くんっていう人知ってるやろ。高山くん、今、すごく落ち込んでるんやけど、なんか知らん?」

「いや、知らんけど」

「ほんまなん? なんか高山くんに言うたんちゃうの?」

「なんも言ってへんて」

 木村美夏は、ちらちらと横山さんの顔をうかがうも、その視線は、横山さんや佐久間の方から視線をそらしつつ、地面に注がれていた。いつもの笑顔はなく、どんよりとした暗い表情で、石垣についた両手や方が少し震えているのが分かる。その様子を見て、佐久間は、ああ、彼女は何かを隠しているんだなと思った。佐久間がこれまで彼女のそのような姿を見たことはなかったけれど、いつもの直球の言葉とはやはり違うのだった。

「ほんまに……?」

 この横山さんの問いに木村美夏は答えなかった。佐久間は、隣の横山さんが、佐久間からも何か言ってほしいというような目で自分を見ていることに気づいた。しかし、どんなふうに問いかけたらよいのか、佐久間にも分からなかった。

「この前話した俺の友人の高山のことだけど、あいつ、前まで好きだったイラストのことで、今落ち込んでるっぽくて、何か知ってることがあれば教えてほしいんだけど……」

 しばらく沈黙が流れた。佐久間には、その沈黙が鉛のように重く、鈍く感じられた。隣の横山さんも、少しうつむいていて、どうしたらいいのか分からない様子だった。佐久間は、秋なのにずいぶんと下がってきている雲を見つめて、急にどしゃぶりの雨が降ってこないか、心配になった。佐久間は、沈黙に耐え切れず、何かを言いたくなったが、何を言えばいいのか分からなかった。そして、この沈黙を破ったのは、木村美夏だった。

「全部、佐久間くんのせいだよ」

 佐久間は、最初、ようやくその重い口が開かれて安心したが、自分のせいだと聞こえてきた瞬間、急に心臓が破裂しそうなくらい大きく膨らみ、そして鼓動が速くなった。木村美夏の口は、かなり厳重にふたが閉められていたが、そのふたは、佐久間にとって閉じられておくべきふただったのだと、佐久間は開かれてから分かった。

「佐久間くんが、うちのこと、全然みてくれないから! せっかく付き合うことができてうれしかったのに、付き合ってほしいって言ったら、うんって言ってくれたのに、その後もうちが佐久間くんに話しかけても上の空で話聞いてくれてるのかも分からんし。一緒に話してても自分の友達の話は楽しそうにしてるくせに」

 木村美夏がうつむきながら、大粒の涙を流しながら語り始めるのを、佐久間は、それでも落ち着こうとしながら聞いていた。しかし隣から想定していた声が、音は小さいものの、一つ一つの言葉がはっきりと聞こえてくる。

「美夏ちゃんと佐久間くんって付き合ってたんや……」

「そや。知らんかったん。それなのにラノベとか高山くんの話ばっかりやもん。なんでうちのこと見てくれんの? うちが好きで付き合ってくれたんやないの?」

 木村美夏は急に立ち上がると、佐久間の腕をつかんで揺すり、佐久間の胸に頭をあずけた。木村美夏は、もはやとめどなく涙を流していて、彼女の言葉の一つ一つが佐久間の心にまっすぐに突き刺さってくる。そして自分の行ってきた行為の一つ一つが思い出されて、自分の放ったその行為が、鋭利な刃物となってめぐりめぐって自分の背中を突き刺してくるようだった。隣で悲しそうな顔の横山さんがいた。佐久間は、答えに窮していた。何かを言おうとしても全てがのどでつまって、言い出すことはできない。

「それは……」

「佐久間くんが大好きだったのに、全然振り向いてくれないから、うち、佐久間くんが夢中になってるものから離れてくれればうちのこと、振り向いてもらえるんじゃないかと思って、それでラノベを諦めるように言って、高山くんにもラノベを諦めてもらおうと思っていろいろひどいこと言っちゃって……」

 このときだった。木村美夏が急にえづきだすと、急いで口を押えたあと、一気に嘔吐した。その吐しゃ物は佐久間の身体に降りかかり、全身で受け止める形となった。その吐しゃ物は白く、黒いものが一つも含まれていなかった。

 木村美夏は、へたへたとその場に座り込んだ。横山さんがそばに来て彼女の背中をさすった。佐久間も少しぼうっと木村美夏がうずくまっている姿を見ていたが、慌ててしゃがんで彼女の様子を確かめた。木村美夏は、何度もごめんと言いながら泣いていた。


 木村美夏を近くのベンチに座らせると、彼女は少し落ち着いたようだった。佐久間は、木村美夏の吐しゃ物がついた服が気になったが、着替えはなく、このままそれを着ているしかなかった。雨が降っていたら、それで少しは落ちたかもしれないけれど、結局雨は降らなかった。

 木村美夏が、落ち着いてきたところで、横山さんは、佐久間の表情を見て何かを察したのか、用事があるとのことで帰っていった。その場には、佐久間と木村美夏だけが取り残された。空は依然として曇っていたが、さきほどよりかは、周囲が明るくなってきていた。佐久間は、木村美夏の方へ近づくと、彼女の隣にそっと腰を下ろした。

 結局、今回の高山の騒動は、佐久間自身の行動が引き起こしたのだと、佐久間は思った。木村美夏の気持ちをしっかりと受け止めずに、自分がこういう性格だから、とかそういう言い訳ばかりを考えていた。それに、もっと言えば、木村美夏に会いに行くことになったときも、木村美夏の話を聞く直前も、これは話してほしくないなぁなどと呑気に自分のことばかりしか考えていなかったのだ。木村美夏に問われたときも、言葉が詰まったけれど、あれも、結局は、他人への体裁を考えてのことだった。他者と真剣に向き合うことをしてこなかった。そういうことを、佐久間は今、ようやく理解して、自分の行為を恥じた。そして、その恥にもう一度向き合う必要があった。

「あのさ、さっきの話だけど、美夏がどれだけ俺のことを思ってくれていたか、今ようやく分かったよ。今まで本当に自分のことしか考えてなくて……。美夏と付き合えてすごく浮かれてて……。美夏はいつも楽しそうに笑ってて、そういうところがすごくいいなって思ってたけど、でもやっぱり、それだけじゃダメだから。もっとほかに求めるべきものがあると思うから。美夏とは、もう別れたい」

 佐久間の隣で話を聞いていた木村美夏は、目を見開いて佐久間を見た。佐久間の真剣な目を見ると、もう佐久間との関係が続くことはないのだと思った。佐久間の腕に手を伸ばそうとするが、彼に手は届かなかった。彼がすでに違うところにいるような気がして、どうしようもなかった。

「そんなん、嫌や……。さっきの吐いたのがアカンのなら謝るから!」

「ごめん、だけどそうじゃないから……。俺が求めていたのは、美夏みたいなキラキラした人ではなくて、意見をぶつけて、受け入れて、そういうことを繰り返していくことができる人だったから。」

「そんなん、言ってくれたら、うち、そうするし……。そういう不満があるなら言うてくれればよかったのに……」

「本当に……?」

 佐久間は、真剣なまなざしで、木村美夏の目をじっと見ていた。目が赤くはれて、それでもまだ涙があふれてくるのを、目に力を入れてこらえているようだった。何かを訴えかけようとしているが、全てを口でせき止めているようだった。涙のダムは、もう一度決壊しそうだった。佐久間は、木村美夏からは、もう次の言葉が出てこないだろうと思った。先ほどの佐久間の質問に対する彼女の答えは、きっと「うちのことを信じてよ」だろう。しかし、ここで言うべきなのは、信じてほしいと相手にボールをそのまま投げ返すことではないのだ。自分の中で検討して、その結果を返すべきなのだ。それがどんな答えでも、それ自身が対話の一歩になる。

 もしかしたら、彼女は、「信じて」との返事が、佐久間が望む回答ではないと気づいていたのかもしれなかった。その上で彼がどんな答えを欲しているのか分からなかったのかもしれなかった。しかし、彼女が考えるべきところは、そこではないのだ。

 木村美夏は、佐久間から目をそらしてうつむいた。佐久間は、その様子を見て、ベンチから立ち上がった。

「申し訳ないけど、俺は、もう、行くから……」

 佐久間は、木村美夏の方を向くことなくそう言って歩き始めた。木村美夏は、はっと顔を上げたが、佐久間が彼女の方を振り返ることはなかった。木村美夏は、立ち上がることすらできず、手で顔を覆って、大声を上げて泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る