第26話

 昨夜、高山からのメールを最後まで読んでしまったために、寝るのが遅くなってしまった。そのせいか、朝9時半に起きたが、睡眠時間は長くない。それでも2限の講義に遅れるわけにはいかぬ。佐久間は、朝9時までに朝ごはんを食べようというCMを見ながら朝ごはんを食べていた。

 昨夜の高山からのメールには、驚いてしまった。高山の気持ちに寄り添うというよりもむしろ、である。いったいこれはどこからどうなっているのか。何がどうなっているのか。とりあえず木村美夏が深く関与していそうだったが、そもそも木村美夏が関与しているということが意外だった。しかし、高山の話をもとに思い出してみると、確かに、以前彼女にラノベ制作のことを話したら、キモとか言ってたような気がするし、なんかイヤな顔をしていたような気もする。あのときは、何も考えていなかったけれど、そのあたりと何か関係があるのだろうか。いや、あるとしか思えなかった。

 それに、この内容を横山さんに伝えた方がいいものかどうかも迷った。昨日、横山さんに高山からメールが来たことを伝えたら、またどんな感じか教えてね!と返って来たけれど、高山のメールの文面からは、誰にも口外してほしくない感じが伝わってくるし、センシティブな内容も入っている、気がする。しかし、ともかく今日も2限に行くべきであった。そこで横山さんとも会うことになるだろう。もしかしたら木村美夏とも。


 後期が始まって最初の2週間が過ぎると、大学の講義を受けに来る学生も減る、と聞いていたが、実際にはそこまで減らなかった。混んでいる講義は、かなり混んでいる。立ち見がなくなって、講義の教室に用意されている椅子に出席者全員が座っても少し余る程度にまで減っただけだった。

 佐久間の受けている講義でも、隣の椅子にカバンを載せている学生がちらほら見える。佐久間は、いつもよりも後ろの方に座り、教室全体を見渡していると、「おはよー」と後ろから声を掛けられた。その声の主は木村美夏で、ちゃっかり佐久間の隣に座っている。彼女は、ふわと大きなあくびを一つして、かばんからレジュメとノートを取り出した。彼女が高山の深い絶望に関わっていると思うと、隣あって座るのには緊張感がある。全く気の合わない攻撃的な人が隣にいて、本来なら間にあるはずの壁がそのときだけ曖昧になったようだった。しかし、彼女が木村美夏であることには変わりないと、佐久間は気合を入れなおした。

「おはよう。めっちゃ眠そうだけど、夜更かしでもしたの?」

「ううん。ふつうに眠いだけ」

「いつも何時くらいに寝てるん?」

「いつも11時くらいで、昨日もそれくらいに寝たかな」

 腕を組み、右手の人差し指をあごに当てて空中を見つめながら考えている。その様子にはいつもと違うところはなくて、以前彼女のやつれた顔を見たときがむしろ自分の記憶違いではないかと思われるほどだった。あのときは目が死んだ魚のようであったけれど、今は太陽のようにまぶしい。彼女にしっぽが生えていたらきっとぶんぶんと振っているのだろう。佐久間は、このきらきらした笑顔は、演技でもなんでもない、彼女の素の姿なのだと感じた。

「佐久間くんは、何時に寝てるん?」

「いつもは1時とか2時とかだけど」

「おっそ。そんなんで授業眠くならへんの?」

「いや、だからいつも講義で寝ているわけで」

 木村美夏は、こける振りをしながらふふっと笑うと、「もう、ほんまにあかんで」と佐久間の肩をたたいた。


 講義終了後、佐久間は、木村美夏と食堂で昼食をとった後、サークルの部室に寄るため、彼女と別れた。部室に行く途中、生協に寄ると、見覚えのある、そして見間違うことのない後ろ姿を、佐久間は捉えた。「あ、タイツ履いてる」そう佐久間が思ったとき、何かの視線を感じたのか横山さんが振り返る。そして佐久間の存在に気づくと、その場で足を止めた。佐久間は、こういうときばかりは、視るという行為が、波のような力学的な力を生じさせているのではないかと疑わざるを得ない。

 佐久間が手を振って駆け足で近づいていくと、横山さんの目線も佐久間に沿って動いていくのが分かった。

「あのさ、高山くんのことなんやけど……」

 横山さんは少し遠慮がちにしているが、昨日のメールについて、聞きたいという気持ちは明らかに見て取れた。

「ああ、ちょっとそれについて話してみたいこともあるし、ここでは話しにくいから、喫茶店にでも行って話すのでもいい?」

 佐久間は、横山さんがうなずくのを見て、その前に、とりあえず、2人で生協へ入っていった。


 吉田キャンパスの本部構内を北門から出て、西へ少し歩いたところに喫茶店があった。佐久間は横山さんとともに、その喫茶店に入った。いつも自転車でこの喫茶店の前を駆け抜けるが、入ったことは一度もなかったので、少し緊張していた。奥のテーブルに、横山さんと向かい合って腰掛けると、横山さんと見つめ合う形で座ることになることに気づいたが、それは座ってから気づいたのだった。佐久間は、椅子に腰かけ、顔を上げたときに横山さんと目が合うと、慌てて目線を左へそらした。二人はブレンドコーヒーを注文すると、さっそく問題に切り込んだ。

「高山からのメールの件だけど」

「うん、なんて書いてあったん?」

「まぁ、けっこう長いメールだったから、細かいところは省いていくけど、結論を言うと、イラストを描くことが嫌になって、実家に帰ってるっぽいんだよね」

「ええ! 何があったん。いつもあんなに楽しそうにしてたのに……」

 横山さんは目を見開いていて、腕をテーブルの上に乗せ、その身体は乗り出し気味だった。その食いつき様は、まるで腹ペコの男子高校生が晩ご飯に手をつけるようである。まぁまぁ、と言いながら佐久間は、横山さんを落ち着かせようとするが、その気持ちは分からなくもなかった。むしろ、佐久間も自分の心臓の鼓動が速くなっていることに気づいていた。

「高山のメールによると、であって、俺がそう思ってるっていうことではないからね。一応言っておくけど」

 佐久間は、一息ついて心を落ち着かせる。これは、確定された事実ではないのだ。

「高山のメールによると、どうやら木村美夏が高山に絵が下手だの言ったらしい。そういうことが何回かあって、イラストを描くことに対する自信が根こそぎ取られてしまって、ほかの人と会うことも嫌になって実家に帰ったっていうことだった。それで、今後どうするかなんだけど……」

 佐久間が事情を説明するとき、動揺するあまり横山さんの顔を見ることができなかったが、今後の方針を話そうとしたところで、横山さんが頭にはてなマークをたくさん飛ばしている様子をしていることに気づいた。佐久間は、まずいなと思った。説明する直前に気づいたことだが、この一連の流れを説明するには、どうしても佐久間と木村美夏の関係に触れなければならない。佐久間自身もよく分からないところはあったが、少なくとも、佐久間と木村美夏の関係がないと、木村美夏と高山がつながらないのだ。しかし、佐久間は、自分と木村美夏の関係を話すことはためらわれた。木村美夏から強く押されて付き合うことになったとはいえ、いまだに本命であった横山さんに、悪いことに横山さんの友人である木村美夏と付き合っていることが知られたら、今後どうやって接していけばよいのか分からなかった。しかしながら、どんなに自然に話を流そうとしたところで、もはや爆弾の導火線には点火されたも同然だった。

「あれ、美夏ちゃんって、高山くんと知り合いやっけ?」

 横山さんのこの言葉に、佐久間は心臓が貫かれたような気持ちになった。「知り合いだったっぽいよ」ととぼけることもできるが、後にこのウソがばれたときの横山さんの衝撃と自分に対する信頼の喪失は計り知れない。かといって、ここで木村美夏との関係を横山さんに語るだけの勇気もなかった。それに、付き合っているという言葉を口にすると、本当に木村美夏と付き合っていることになってしまうような気がした。

「俺が木村美夏に少し話したんだよね。高山とラノベ作ってること。うっかり口を滑らせてしまったというか」

 佐久間は、今自分の顔がひきつってないか、赤くなってないか、手が震えていないか、声が震えていないか、いろいろな部位の自分の行動を抑えられているか心配になった。

「そうだったんや。そういえば佐久間くん、たまに美夏ちゃんと仲良さそうにしゃべってたもんな」

「え! あ、うん」

 佐久間は、胸をなでおろしたが、よくよく考えたら、木村美夏の方が横山さんに付き合っているということを自慢げに話しているような気もした。しかし、横山さんの様子を見る限り、そうではないようだった。

「そうそう、それで、俺が木村美夏と話してるときに高山が来て、あいつが高山、みたいに教えたんだよね。だから、少しは面識があったかも。でも、なんで高山に手を出したのかは、全く分からないんだよね……」

「そうなんや……」

 このとき、注文していたブレンドコーヒーが運ばれてきた。二人は店員にありがとうございますと頭を下げた。横山さんが砂糖とフレッシュを順にコーヒーの中に入れていくのを見ながら、佐久間はブラックのままコーヒーを飲んだ。横山さんのコーヒーには黒の中に白がすっと混ざって、コーヒーをかき混ぜるまでもなく、調和していた。佐久間は、自分がフレッシュを入れても、ああはならないだろうなと思った。そして、自分の、コーヒーの動かない水面を少し見つめていた。

 横山さんは、コーヒーを一口飲むと、こう言った。

「やっぱり、美夏ちゃんがなんでこんなことしたのかも分からへんし、そもそも本当にそんなことをしたのかも分からへんし、一回美夏ちゃんに話を聞いた方がええと思う」

「うん」

「ほんとのことやったら、やっぱりアカンことやと思うし、うちらがどこまで関与していいことなんか分からんけど、高山くんにももう一度イラストを描くようになってほしいし」

「うん」

 横山さんは、佐久間に話しているというよりもむしろ、自分に言い聞かせているようだった。佐久間は、そんな横山さんを見て、仲裁者のようだと思った。彼女が対立当事者間の間に入って、意見を調整してくれるように思えて、頼もしかった。

「うちが美夏ちゃんと連絡とってみようと思ってるんやけど、佐久間くんも来る?」

「もちろん、行きます」

「なら、うちが日程決めておくから、佐久間くんの都合のつきそうな日おしえてくれへん?」

 佐久間は、実際にはいつでも空いているにもかかわらず、自分の都合がつきそうな日を探すふりをしながら、どうにか3人が会える日がちょうどないことを願っていた。他方で、横山さんと木村美夏が2人だけで会うとなると、彼女らがどのような話をすることになるのか予測不可能であって、どんな話が出てもいいように監督しておきたい気持ちもあった。つまり、佐久間は、もはやどうしようもなかった。

 佐久間は、横山さんと日程を決めてしまうと、コーヒーを一気に飲み干し、店を出たところで、横山さんと別れた。そしてそのまま、佐久間は鴨川へと向かった。鴨川の水面は、止まっているかのように穏やかだった。

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