第21話

 お盆まで食い込む期末試験期間が終了すると、古都大学では、9月末までの長い夏休みが訪れる。ある者はここぞとばかりに遊び、ある者はここぞとばかりに部活での練習をし、ある者はここぞとばかりに勉強をする。佐久間は、なんとかして夏休み中にすくなくともライトノベルを一度最後まで書ききる必要があると思っていた。


 お盆に実家へ帰省した後、昼過ぎに京都へ戻ってくると、京都駅を出たところで、あまりの蒸し暑さに京都に戻ってきたことをひしひしと実感させられる。その後、観光客の多さでもう一度同じことを実感させられる。

 京都市バスを使って下宿アパートまで戻ると、もわっとした熱気が押し寄せてきて、実家が恋しくなった。カバンを置いて荷物を下ろした後、iphoneを確認すると、木村美夏からメッセージが届いていた。


「今度こそ、ご飯をおごらせてください!」

 まだ、そんなことを言っているのか。佐久間は、若干呆れながらメッセージアプリを閉じる。お盆のどこかで行こうと試験前に誘われていたが、実家に帰るの一点張りで断っていたのだった。

 勉強を教えてもらったお礼ということだったけど、佐久間にとっては、特に教えているつもりはなかった。というより、ふつうに二人で問題を検討していた。むしろ教えてもらうことの方が多かった気がしていた。そんなことだから、おごってもらうには、気が引ける。そもそも女の子と二人でご飯を食べに行くということ自体、気が引ける。そのようなこと自体が、佐久間にとっては、期末試験以上の一大イベントであった。応じるには相当の覚悟がいる。できれば避けたかった。

 しかしながら、今後横山さんとの甘い青春を謳歌するには、必ずこのイベントを乗り切らねばならないだろう。むしろ、これ以上のイベントを乗り切らねばならない。どのみち通る道であるならば、今やるか後回しにするかの違いである。佐久間は、回答に悩んだ挙句、食堂でご飯を一緒に食べるくらいならいいかと思い始めた。

「そんなに言うんなら、おごってもらうかはともかく、一緒にご飯食べにいこう!」

 勇気を振り絞ってメッセージを送ると、すぐに既読状態になり、幸せそうな猫のスタンプが送信されてきた。

「やったー! じゃあ店とか考えておくね!」「そう言えば好きな食べ物ってなに?」

 佐久間は、大変なことになったと思った。



 夜も遅くなって、木村美夏のメッセージ爆撃が終了すると、今度は電話がかかってきた。佐久間は、なんとなく、雰囲気で誰から架かってきたのかを察する。忙しい日だ。

「もしもし、集合のお時間です」

 その電話は、そう一言要件を伝えると、佐久間が言葉を発する間もなく、通話を切った。


 佐久間が鴨川デルタへ行くと、すでに高山が紙パックのジュースを2本用意して待っていた。

「ほい」

 高山は、ペットボトルをいきなり投げて渡し、佐久間は、飛んできたものを何とか受け取る。

「紙パック?」

「そうだ、紙パックだ。そして紙パックのジュースといえばフルーツ・オレと相場が決まっている。」

「お子様か?」

「フルーツ・オレはなぁ、うまいんだよ!」

「そうですか」


 しばらく、二人は賀茂川を眺めながらフルーツ・オレを無言で飲んでいた。時刻は午後11時を過ぎており、向こう岸に見えるはずのパチンコ店もすでに営業を終了していて、辺りは静かで暗かった。


「ラノベの件だけど、けっこう話が進みましたね。中盤が終わるくらい? もうだいぶ元の世界へ戻る方法が分かってきてると思うんだけど……」

「いや、ここからもう一波乱ある予定。まぁ、主人公が言語を理解し始めるまでに時間が少しかかったし、そこからいろいろ調べて、みたいな感じで、ここまででだいたい6万字ちょっとくらい。割と順調ではある気がする」

「なるほどね。今回は、最初の方で誤解ネタを入れてたけど、あれって最後に伏線回収とかされる……、やっぱり聞くのやめとくわ。聞いたらつまらないし。最近は一読者として楽しんでしまっているからなぁ。

 そういえば、あれはクスッときた。主人公の芝池が、ナコちゃんに、その本に出てくる図を見せてほしいって言おうとして、ずっとパンツ見せてって言ってるやつ。パンツ連呼してたら大家さんにぶん殴られても文句は言えんわな」

「それな。一応、図とパンツを表す言葉のそれぞれの発音が似てるっていう設定にしてる。それで、主人公がどっかで聞き間違えかなんかして覚えてしまった、という感じ」

「なるほどね。それにしても、主人公は、女性の脚、というかタイツとニーソばっかり凝視してるのな。挨拶もそこ見てしてるってなってたし。変態すぎるだろ」

「主人公くらい、それくらい変態だった方がいいんだよ」

「むしろ佐久間が変態なのでは?」

「と思うやん?」



「ところでさ、けっこう気になってたんだけど、このラノベで出てくる登場人物、カタなんとかっていう人が多くない? みんな親戚か?」

 高山は、かばんから、佐久間の書いたものをプリントアウトしたらしい文書を取り出してパラパラとめくりながら尋ねる。その高山の問いに、佐久間は待ってましたとばかりに答えた。

「それは、その人たちが『カタ』という町に住んでるからだよ。名前は、全部、『カタという町に住んでいる何とかさん」という意味で、そういう名前になってる』

「こういうのって『家族の名前・個人の名前』みたいな感じになるんじゃないの?」

「名前の表し方はそれがすべてというわけではないんじゃないかな。古代ローマとかは『何とかという町の何とかさんちの何とか』みたいな名前だったって聞いたことがある。結局はどこかのグループに属している誰かっていう名前の付け方をしてるんだと思う。今の日本だって、何とかっていう家族の何とかっていう名前の付け方をしてるでしょ?」

「そうだっけ? あんまり気にしたことなかったけど」

「たぶんそうだと思うよ。結婚するとき、名字が同じ人でも、例えば名字がどっちも『鈴木』だったとしても、どちらの『鈴木』にするのかを決めることになるわけだけど、それは、家の名前としてどちらを選ぶのかを決めてるってことなんだと思う」

「でもそういう考え方って、もうすでになくなったんじゃないの?」

「確かに『家』制度は、第二次世界大戦後に消滅したけどね。でも大戦前のときは『家』という団体を作ってた。つまり会社みたいな団体を考えてたんだけど、その団体が解体された。そして戦後に個人が出てくるようになったけど、結局はグループで考えるという点を捨てきれていなかったのかもね」

「ふーん。そういうのはよく分からんな。この世界の人はそれでいいんかね」

高山は、そういう問題にはかなり興味はなさそうな様子だった。少なくとも、佐久間にとってはそのように見えた。

「まぁ、特に不便さが生じていなければ、あまり問題にならないんじゃないかな。特に大きな移動がなければ名字に当たる部分が変わることはないわけだし。名字に当たる部分が住んでいる地域を指すということが分かっていたら、そもそも自分の住んでいる地域で、名字に当たる部分を強調する必要がないし、たぶん、主には名前の部分が使われているんだと思う」

「まぁ、この世界の言語が、日本語よりも音の範囲と組合せが広いとしたら、名前の付け方も、もう少し多様になって、被る可能性も低いのかも。脳の統語機能がどうとかの話を去年言語学の講義で聞いたような気がするけど、忘れたな。

こう言っちゃなんだけど、そもそも自分の名前なんて、自分で決めるものでもないからね。そういう価値観でこの世界を捉えていいのかは分からないけど、名前なんて結局個人が識別できればいいくらいの意味しかないのかもね。」

「なるほどね」

 佐久間は、高山のこのコメントが、なんだか専門的知識を持っているようでかっこよく見えた。それに、なんとか学という言葉が出てくるだけで、なんとなくその内容も科学的に正しいもののように思えてしまう。それだけでなく、高山の、自分の名前を自分で決めないというのも鋭い指摘だと思った。佐久間は、今まで自分の人生を自分の選択で通ってきたように思っていたが、そもそも自分の最初の場面すら自分で決めることができていないことに気づかされた。


 高山のプリントアウトした文書をよく見ると、ところどころ何かの書き込みがあるのが見えた。どうやら、高山は、けっこう読み込んでいるらしかった。

「キャラクターというか登場人物の話だけど、やっぱりこういう子たちっていうのは、障がい者みたいな感じなんかな。精神病とかでもいいけど」

「う~ん、まぁそういうことなんだろうけれど、個人的には、ルウマでの生活の中ではそういう面はあまり出さないようにしているつもり。例えば、彼女らは、施設の中での掃除とか炊事当番はきちんと守っているし、借りた本も丁寧に扱っている。つまり、彼女らはある面においては普通、というかほかの人と何ら変わらないけど、ある一面において、ほかの人たちと少し違っているという感じかな」

「発達障害とかそういうものでもないの?」

「個人的な意見だけど、障がいっていうのはどういう状態をいうんだろうって考えたとき、普通か、そうじゃないかっていう分け方をしているんじゃないかと思うんだよね。例えば、脚に障がいがあるかどうかっていのは、普通の人間なら二足歩行できるけど、彼はできていない。だから脚に障がいがあるんだ、というように考えているってこと。まぁ、その『普通の人間』っていうのがどういうものなのか俺にはよく分からないんだけどね」

 高山は、難しい顔をしていた。こういう分野は、どちらかというと、文学部の高山の方が得意なのかもしれないと、佐久間は思った。

「それは、おそらく時代によっても普通の人間観っていうのは変わるんでない?

 例えば、今の時代には、自動車は人間の行動範囲を大幅に広げたし、文字を書くにも、鉛筆やボールペンだけではなくて、一太郎とかの文書作成ソフトを使うようになってきてる。つまり、人間が生きるという点で考えると、自動車は人間の歩く機能を拡張させていて脚のような存在になっているし、文書作成ソフトは人間の書く機能を補完していて、手の一部になっていると考えられるかもしれない。こういうのがあるのとないとで人間かどうかが決まるのかはさておいて、人間がどういうものか、どういう存在なのかを変えたような気はする。

 そういう、人間が生まれつき持っている器官を補完・拡張するようなものを、人間概念のうちに取り込むのだとすれば、脚に障がいを持つ人は、車いすを使用したり、器具を脚に取り付けることによって歩く機能を獲得すれば、それはそれで、障がいを有している状態ではないことになるんじゃないかな。多数の人ができていることを、何らかの形でできるようになっていれば、それはそれで『普通』といえるのかも。

 あるいは、『普通』の人に合わせて社会を作っているから、彼らが障がいを持っていることになっているのかもしれない。例えば、階段があるから脚の不自由な人が不自由な思いをしているのだとしたら、階段を上ることができることを前提に作っている社会自体が彼らを『普通』ではないことにしているのではないか、とも考えられる。社会の構造自体が、彼らを『普通』ではなくしているとも考えられる」

「まぁ、それはそうだとして、じゃあ発達障害みたいな人は、『普通』なのか、そうでないのかは、どうなの? 器具を使って乗り越えられそうな感じはしないけど」

「発達障害の場合についても、おそらく、多くの人が有している能力の一部が欠けているということだと思う。この場合は、人間が社会的な存在であることからして、人と関わる能力というのが、重要視されているんだと思うんだよね。

 今は、かなり多様さということも重視されているけど、それでもADHDとかが多様性としての個性の中に含まれていないのは、そういう『基本的なところ』ができてないじゃん、ということなのかも。ただ、そういう人の中にも優秀な人だっているけど、多数派から見れば、だから何? みたいな感じなのかなぁ」

 佐久間は、ただ、高山の考えを聞いているだけであった。それが実際そういうものなのか、計りかねた。自分が提起した問題だったが、結局自分の考えを持てていなかったのかもしれないと思った。

「まぁ、でも、そういう発達障害の人たちっていうのは、現代になって突然現れたんじゃなくて、昔からそういう人たちがいて、今になって焦点が当たり始めたということだと思うんだよね。しかも、研究してないから分からないけど、そういう人たちが不遇な扱いを受けていたかとも言い切れないと思う。今では能力が低いとされている人たちも、IQとかそういったもので測定できていないだけで、あるいは補完物がないために彼らの能力をうまく発揮できていないだけで、本当は、他の人々よりも優れているところがあるかもしれない。かつては、そういう部分に焦点が当たっていて、彼らが評価されていたかもしれないし、今後そういった能力が測定できるようになったり、補完するような物が完成したりすれば、一気に他の人々を追い抜いて能力を発揮していくのかもしれない。そういった状況になったら、彼らの評価はまた変わるだろうし、『障がい』という言葉も当てられなくなる可能性もあるよね」

 ここまで話して、高山は、自分が少し浮かれて話していたような気がして、気恥ずかしくなった。佐久間の方を見ると、彼はなにやら考え込んでいる様子で、高山の話を聞いていたのかどうか、分からなかった。でも、最後まで自分の考えを言わずにはいられなかった。

「だけれど、こういう障がいについて考えるとき、さっきも言ったけど、結局『普通』というものを想定せざるを得ない気がする。『普通』と相互に依存し合って存在しているような気がする。他方で、最近は『多様性』も流行っている。そして、『普通』と『多様性』は、相容れないものなんじゃないか、そういうものが、現在共存しているんじゃないかと思うんだ。人は、社会を構築して共生するために『普通』の状態を求め、個々の存在を尊重するために『多様性』を尊重している。どちらも必要なもので、どちらか一方だけをとるということをできない時代なんだと思う」

 高山は、今まで考えてきた自分の考えを全て話してしまうと、頭の中が整理されたようで、心地よかったが、一方で佐久間が寝ているんじゃないかと、また心配になった。

「なるほどね……」

 佐久間は、そう一言つぶやくと、頭の中で高山が今語っていたことを整理した。彼の考えを手放しで受け入れるわけにはいかないが、彼の考えをどこかに盛り込みたかった。

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