/8 青い蝶

 大学を出て数分。

 誰よりも早くその場所に辿りついたのは暁月妙理だった。

 階段を跳躍し、アパート2階の通路へ出る。同時に、正面の部屋番号が先ほど女学生に教えられていたものと一致することを目視した。

ドアは当然、施錠されていると予測される。故にこの場合、暁月妙理が取るべき選択は一つだった。

「――っ」

 駆け出した勢いのままにドアを蹴り飛ばす。

 イビツな金属の悲鳴をあげて留め金が弾けた。内側に倒れ込むドアと共に妙理は無人の廊下へ。

キッチン、バスルームに人の気配はない。二人がいるとすれば、リビングか。

 薄暗い廊下の先。木製のドアを妙理は躊躇なく押し開いた。

 執拗なまでにガムテープが貼られていたが、そんなものは抵抗にすらならず――開かれたドアの向こう側から淀みきった空気が溢れ出す。

 香気と炭煤すすが混じりあった刺激臭。室内に蔓延する灰色の気体はすでに致死レベルに汚染されている。

 その源泉は部屋の中央に置かれた七輪だった。それを前にして二人の女性が抱き合っている。

 

 ――どちらも死んでいた。

 

 練炭自殺だった。

 カーテンをすべて締め切った薄暗い室内、ほのかなしゅよそおわれた死体にはもがき苦しんだ様子はない。

 順当に、酸素の欠乏により死亡したのだろう。

 妙理はそれら死体を見下ろし、一瞬の内に分析を終える。

 推定、死後数分。

 ならばと――見上げた先、標的テキは暗闇の中を泳いでいた。

 ひらひらと舞う羽。

 死へと誘う青緑と黒アサギマダラ

 ――妙理が蝶を捕捉した瞬間、蝶もまた妙理を認識した。

 即座に踏み出そうとする妙理。それを嘲笑うかのように蝶は一際大きく羽ばたいた。

 そうして一切の抵抗なく、溶け込むように――蝶は壁の内側へと消えていく。

「――」

 明らかな異常。物理に不在する超常。

 そんなものを見せられても、妙理は眉一つ動かさない。それが逃走を選ぶのなら、この式神は追うだけのこと。

 妙理は踵を返し部屋を飛び出す。

 視覚も聴覚も必要いら(いら)ない。式神の六感は、今や完全に蝶の位置を把握していた。

 二階通路を出て、手すりを足場にして跳躍する。

 着地した先は隣家の屋根――妙理の身体は少なくない衝撃に襲われるが、その瞬間にも黒瞳ひとみ敵影かげを見据えていた。

 茜色の空に不釣り合いな青さを見せる、常識から乖離した蝶の幻影ヴィジョン

 先の移動法からわかる通り、この蝶は生身をもたない。生の法則しがらみに縛られない。

 この現実に投影された姿はいわば、切り取られた情報ユメの一端。物理法則を無視して、蝶はあらゆる障害げんじつを透過する。

 中空を翔け、縦横無尽に市街を飛び回る蝶。それに対して、妙理は屋根だけでなく塀や電線を足場にして追いすがる。

 相手は透過する幻影。本来なら肉ある者に追いつけるモノではない――だが、それでも式神は適応する。

 妙理はどのような足場や体勢であろうと速度を殺さない。まるで一定の結果を出す機械と同じく、地平を全力で走る速度そのままに、跳躍し続けていた。

「……」

 徐々に。

 徐々に、その距離は詰まっていく。


 ――追いつくのは時間の問題。


 そう妙理が結論した時、追走劇は唐突に終わりを迎えた。

 最後に着地したのは瓦屋根の一軒家。妙理が降りた数メートル先で、蝶は逃げることをやめて漂っていた。

 無音。羽音さえださない静止した姿で、妙理を待っている。

 

 ――わらっているのか。

 

 不気味な青い燐光を放ちながら、蝶は式神の出方を待つ。

 それに対する妙理のこたえは、

 

「――ゆきます」

 

 呟き、踏みだすと同時に蝶もまた飛来する。

 さながら魔弾。音速をもって青い光が妙理の眼前に迫る。

 

 ……それを一閃。

 妙理の振り払った右手が引き裂いた。


 散りゆく蝶。

 無形の魂は光となって消えていく。

 そうして、街に死を振りまいた蝶は――その一部は露と消えた。

「けれど――未だ残っている」

 蝶を引き裂き、足を止めた妙理。

 その視線の先には、今、蝶は二羽存在していた。


 蝶はまだ終わっていない。

 悪夢ユメはまだ終わっていなかった。


 先の魔弾は総量の極一部にすぎない。そして今もまだ、自らをひきちぎるように蝶は数を増していた。

 二つであったものが四つへ。四つが九つ。九つが三十――刹那の内にその総数は五十を越える。

 渦を巻くアオは、すでに蝶の異常発生で片付けられる数ではない。茜色の空の一端が、歪んだ青に霞んでいた。

「――」

 その一塊が指向性をもって妙理へと迫る。

 一羽。二羽。三、四、十。刀印を刻むように妙理はそれらを苦もなく迎撃していく。だが、その数があまりにも多い。

 弾丸は尽きることを知らない。そして、その一羽一羽ひとつひとつが必殺であった。

 アレは他者の体内うちがわに潜り込むモノ。その情報たましいによって他者を侵食する憑依の魔弾ソウルハッカー

 故に、ひとつでも凌ぎ切れなければ終わってしまう。

 放たれる弾丸の連射数が妙理の処理能力を越えた時、拮抗は崩れ、暁月妙理は意識の座から墜落することになる。

 それは両者の了解であり、だからこそ、この一瞬に弾雨が止んだ。

 

 ゆっくりと――青き視線の全てが妙理を捉える。

 

 その意図は単純。

 待機した百近い蝶の群青ぐんぜい。その一斉掃射による蹂躙。――単純なまでの数の暴力。

 迫る弾幕を前にして、妙理は瞼を閉じた。

 すべてを捌くことはできない。それほどの身体運用をこの式神は行使できない。躱すほどの猶予もなかった。

 だが、抗する手段しきはすでに用意されていた。その右手には五芒星を刺繍した手甲がある。

 これらが物理から乖離した概念ならば、式神こちらもまた、それを異能カミ。飛翔する魔弾は即ち、剥き出しの心臓にも等しい。

 妙理は一切の感情も込めないまま、あらかじめ定められていた祝詞コードを再生する。


木火土金水キヒズカミ神霊かむみたまイヅの御霊をさきわたまえ】


 瞑目したまま、右手が宙に光の文様を描く。

 それ即ち、晴明桔梗印セーマン。陰陽道における万物構成の原理――五行を象った五芒星。これは同時に間隙入り込む余地がないという概念を帯びた呪でもある。

 故にこそ、魔性の類はその桔梗印しるしを通過できない。

 

【――万象なんじ、相克にならうべし】


 開眼と共に中央に一点を差す。ここに儀式は完遂される。

 簡易対霊結界。

 その意味を幻影である蝶は理解しえず、幾重もの魔弾は流星となって式神へと殺到した。

 一羽。二羽。三、四、十。――五十。百。

 それらすべてが不可視の壁に衝突したかのように首をひしゃげさせ、鱗粉と羽を撒き散らせて破裂していく。

 悲鳴はない。慟哭もない。訳もわからず朽ちていくのがその残骸の命運さだめであった。

 わずかのうちに、群青は虚無と消える。

「残り一羽」

 無傷でたたずむ妙理の眼前、そこには最初の蝶だけが残っていた。

 まだ身体を分けようと身をよじっているが――遅い。

 逃れる猶予など与えはしない――刈り取るのなら今。

 妙理は跳躍し、右手を伸ばす。捕獲のためではなく、その魂を握り潰すために。

 そして掌が蝶の羽を捉えんとした刹那に――

「……っ」

 払った手は空を切る。

 跳躍の勢いのまま、妙理は宙に舞った。

 蝶は触れられる直前に屋根を透過し、妙理の手を逃れていた。これまでの動きとは違う――まったく予備動作のない自然さで。

 逃走を許したのか。

「……いや――違う」

 二階の屋根から落下しながらも、式神の知覚はたしかに蝶の存在を捉えている。

 赤い夕日に彩られた無人の道路に妙理は降り立った。

 そこはありふれた市街の真ん中で、何も特別な空気のある場所ではなかった。

 そして、そんな街並に溶け込んだ一軒屋。それなりに古く、けれど時代を思わせるほどではない日本家屋。

 蝶は今、その内側で動きを止め、その気配を急速に薄れさせていた。

 どこかの肉体からだにもぐり込んだのだ。


「ここが貴女カノジョトマリギですか」

 

 妙理が見つめる先、その家の表札には『遠瞳エンドウ』の二文字があった。

 

 

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