/Prologue ( From you )


 ――ひさびさに見た夜空そら

 わたしの視界はたくさんの星で埋め尽くされていた。

 

 随分と遠くの町に来た。

 遠くの町の病院で、わたしは治療を受けていた。

 

 精神と――それから薬物中毒の。

 

 それがどういうことを意味するのか、どれだけ許さないことなのかを、わたしは全部、聞かされていた。

 ――夜風が肌を撫ぜる。

 今のわたしはその冷たさも感じない。

「……」

 何週間もお世話になった狭い病室を抜け出して、わたしは屋上に出てきた。

 昔から言うことを聞かないこの左足はあいかわらずの役立ずだった。それを引きずって、ここまで登ってきた。

 息切れはない。疲れもない。

 ただ自分というモノが磨り減っていて、薄くなっている実感だけが存在している。

 ゆっくりと広い屋上を進んでいく。

 一歩。

 何も感じないはずなのに、痛かった。

 忸々じくじくと、痛かった。

 その痛みが――知らないはずの人たちの記憶をわたしの中に呼び覚ました。

 

 ――手首を切る痛みで、孤独を紛らわす女性がいた。

 

 ――死んだ恋人をおいかけて、線路に飛び込んだ男性がいた。

 

 一歩。踏み出そうとして、躓いた。

 

 ――部屋に灯油を撒いて、自分ごと燃やした教員がいた。

 

 ――寄り添ったまま死んでいった、二人の女子大生がいた。

  

 一歩。踏み出して、みんな死んだ。

 

 這うようにして、わたしは立ち上がる。

 裂けた左足の傷から血液あかいろが流れていた。

「……」

 何も寄りかかるものがない屋上の真ん中で――痛みに堪えることなく、痛みに包まれたまま、わたしは立ち上がる。

 だってそれは、いつものことだ。

 奏多はいつも痛かった。

 いつも痛くて――惨めで、だから自由な身体をもつあの人たちがうらやましかった。

 そんな風に外の世界を――お姉ちゃんがいた場所を――わたしも歩いてみたかった。

 けれど、あの人たちは自由な身体よりも自由なまぼろしに憧れていた。

 みんな死んでしまいたかったのだ。

 わたしが欲しかったものを、捨ててしまいたかったのだ。

 蝶になったわたしは思う。

 

 ――死にたければ、死ねばいい。

 

 死んでいく人たちのナカミを視て、わたしの本質たましいはそう告げた。

 燃える人も、溺れる人も、みんなみんな見下ろして――ただ、死んでいく姿を眺めていた。

 徐々に――終わりが近づいていた。

 倒れてしまう前に、フェンスまでたどり着くことができた。

 鈍くなった身体を預けるようにして、眼下に広がる景色を見下ろした。

知らない町の知らない景色。

 生まれ育ったあの町よりは少し都会で、この病院よりも大きなビルがいくつも塔のように並んでいる。

 深夜0時。

 それでもまだ、町は眠りにつくことを知らない。

 けれど。

 

 ――死にたいのなら、死ねばよかったんだ。

 

 わたしには――何よりも自分わたし必要いらなかったんだから。

 狂い舞っていた夢幻の蝶。

 身を引き裂いて、ひとつに定まることがない。不安定な影。――何も背負わない代わりに何も得られない。

 それがわたしの真実ほんとうだった。

 

 異常の血。犯した罪。

 ――そして、どうしようもない奏多わたし


 こんなモノは、生きていていいはずがなかった。

 おかしいのはわたしなんだから。

 微睡みのうちに人を殺してしまえるようなわたしが、この世界に生きていていいはずがないんだから。

 だから、ごめんなさい。

 

「お母さん。それから巡さん――ごめんなさい」

 

 こんなわたしで――ごめんなさい。

 これが大切なモノから目を背ける行為で、赦されないことだっていうのは、わかってる。

 けど、この身体にできることは……それしかもう残ってないから。

 フェンスを越える。

 風を感じる。

 目の前ははもうソラだった。

 

 ――流れ出る赤。

 とおくなっていく奏多わたし

 

「さようなら。お姉ちゃん」


 そうお別れを告げた空を、小さな青が横切った。

 どこかから、彷徨い出た――青い蝶が。


 蝶はフェンスに止まった。

 その小さな瞳で、わたしを見ていた。

 

「お姉ちゃん……?」

 

 今はもう思い出せないほど朧げな記憶。

 どこにも行かない。たとえ遠くに行ったとしても、いつも側にいる。そういって微笑んでくれたのは、いつだったのか。

 たぐり寄せてかき集めても薄れてしまう思い出の中に――ハルカがいた。

 ずっと、そぼにいてくれた。

「……お姉ちゃん、なの?」

 知らず、呟く。

 ――ほんとうはわかっていた。

 これがただの蝶で、目の前にとまったのだって単なる偶然だと言うことは、わかっていた。

「お姉ちゃん……なの?」

 問いかけるコトバが止まらない。

 わたしには何も残っていないはずなのに――心の深いところからねつが溢れて、とまらない。

 

 触れようと手を伸ばす。

 

 指先が小さく羽根に触れた。

「――あ」

 その瞬間に蝶は身体を震わせて、また夜空へと帰っていく。

 遠く、わたしの手の届かないどこかまで。

 最初からどこにもいなかったみたいに、消えてしまった。

 

 そうして独り残されて、わたしは気付いた。

 お姉ちゃんがよく言っていた――遠瞳家の祖母の、そのまた祖母の――ずっとずっと祖先から伝えられていた一つのコトバ

 その意味に気が付いた。

 

 ――人は死ねば蝶になる。

 

 それはきっと、その人の死を悼むから。

 大切な人だったから。

 特別な人だったから。

 死んでしまったことが、あまりにも悲しすぎるから。

 だから、蝶の美しさにそのすがたを重ねるのだ。

 そしてヒカリに手を伸ばして――けれど絶対に届かない。

 蝶は人の魂の象徴だ。

 辛くても、苦しくても――優しくあろうと足掻いたあの人ハルカだったから誰かの蝶になったのだ。

 わたしは多くの死に同調して――それがどれだけむずかしいことかをようやく知った。

 わたしの瞳にうつるお姉ちゃんは最後までキレイで、素敵なヒトだった。

 けれど、そこにあった痛みと苦しみを――わたしは何もわかってあげられなかった。

 ずっと目の間にいたのに、守りたかった大切なひとを、わたしはずっと見失っていたのだ。

 

 ――だから。

 そんな遠瞳奏多は蝶にはなれない。

 誰の心にも残らないと、わかってしまった。

 

「――嫌」

 

 一歩。踏み出せばそこは闇。

 けれど、これ以上はもう踏み出すことなんてできなかった。戻ることだって、できはしなかった。

 

「痛いのに。嫌、なのに……わたしは――」

 

 こんなわたしは生きていてはいけないのに。

 ――たとえ死んだとしても、誰かの蝶にはなれないのに。

 

 瞳に映るものは、昏闇くらやみだけ。


 とおく。とおく。世界の果てで、

 誰にも届かない嗚咽を漏らす。

 

「――生きて、いたいのに……」


 空が色を変えていく中。

 いつまでも、わたしはわたしの為に祈り続けた。


          ***


 そうして奏多ここに残されたのは、どうしようもなく不安定な――何者でもないわたしだった。

 

  

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暁月ノ宙 超獣大陸 @sugoi-dekai-ikimono

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