/2 五番目

 大学を出た後、あたしはアルバイト先へと向かった。

 

 家庭教師のバイトは午後6時から7時半までの90分。

 あたしが勉強を教えている奏多かなたちゃんはなかなかに賢い子なので実はこの仕事はかなり楽な部類。

 宿題のテキストにはすらすらと赤マルが並んでいく。

 この日の課題は数学と理科。連立方程式が少し弱いくらいで、あとは本当によくできていた。

 あたしも数学は苦手だったなぁ、なんて考えながら作業していると机の向こう側からの視線に気付く。

 奏多ちゃんがあたしの方をちらちらと気にしていたのだ。

「えっと、何か質問?」

「いえ、その……あの」

 奏多ちゃんがこんな風に言いにくそうにしているのは珍しいことだった。

 前髪に隠れ気味の大きな瞳やどこかもの静かな佇まい。そんな控えめな見た目の印象とは裏腹に、わりとスッキリした性格をしているのがこの子の特徴だ。

 ――言い出しにくそうにしているのは、勉強についてのことじゃないんだとすぐにわかった。

「巡さんの大学、大変なことになってるって聞きました」

「あー……うん。けっこうね」

 言われて納得。

 たしかに、それは中学生が知っていてもおかしくない話だ。

 ここ一ヶ月で何人もの人が亡くなっている。それも全員うちの関係者。これは実際、大変なことだ。自殺の理由が大学側のパワハラみたいなワイドショー向きのものではないにも関わらず、連日そのことがニュースで取り沙汰されているほど。今やうちの大学は世間から悪い意味で有名になっていた。

 今朝また大きな事件があったばかり、それを気にしないでという方が無理な話だ。

「大学、大丈夫なんですか?」

「えっと。やっぱりバタバタしてるよ。けっこう抗議とか批判もきてるみたい」

 今日も報道関係者がつめかけていたし、こういう事件があった当日は施設を封鎖したり休講したりで少なからず騒がしくなる。

 けど、一番大きいのは気持ちの問題だ。

「亡くなった人たちのことはあたしもよく知らなかったんだけどさ。うん。なかなか普段通りにできないよ」

 面識はなかったし、特に接点がある人たちでもなかった。それでも胸にわだかまりは残るのだ。

 どうしようもないと言い切ってしまうには距離が近すぎる。ほとんどすぐ側で起きた出来事に無関心ではいられない。そんな思いも時間が解決してくれるのかもしれないけど、でも、それはまだ先の話だ。

 あたしはそういった気持ちを包み隠さず奏多ちゃんに話した。

 すると、彼女はより一層、心配そうな顔であたしの方を見る。

「こういう言い方は失礼かもしれませんけど……」

 その表情で、何を聞かれるか予想がついてしまった。

 奏多ちゃんは勇気をふりしぼるようにして、あたしの予想した通りの――ともすればたしかにヒドい質問を投げてくる。

「巡さんはそんな風になったりしまんよね?」

「……」

 そんな風っていうのはもしかしなくても、あたしが他の人たちと同じように死んでしまわないか、ってことだろう。

 奏多ちゃんの事情を知らなければ、あたしだって不快になることもあったかもしれない。心配するにしてもいきすぎだし、不謹慎な聞き方でもあった。

 だけど事情が事情だ。彼女がそんな不安を口にしてしまうのも、仕方ないことだとあたしは知っている。

 安心してもらえるように、努めて笑顔であたしは答える。

「うん。ぜんぜん大丈夫だよ。あたし、あんまり悩みとかないからさ。いなくなったりしないよ」

 ちなみに、これはまったくの本心。

 自分で言ってて情けない話だけど、それほど深い悩みはないし死んでしまうくらいに辛いことも今のところはない。だから大丈夫。

「良かった。それなら安心です」

 その言葉で奏多ちゃんはちょっと肩の力を抜いてくれた。そんな彼女を微笑ましく思いながら、あたしも採点作業に戻る。

手を動かしながら、頭の隅では別のことを考える。

 そう。奏多ちゃんには少し特別な事情があるのだ。

 

 奏多ちゃんのお姉さん――晴歌はるかさんはほんの数ヶ月前に亡くなっている。

 

 彼女の場合は自殺じゃなくて事故。

 それは2月の、まだ雪がぱらぱらとふり続けていた冬の終わり。

 その時、奏多ちゃんたちは市立の大きな病院から帰る途中だった。奏多ちゃんの足の定期検診だったそうだ。

奏多ちゃんは生まれつき片足が不自由で、その時は痛みもあって車椅子を晴歌さんに押してもらっていた。

 病院を抜けてすぐ、川沿いの広場へと降りていこうとした矢先、道路沿いの建設現場で事故が起こった。

 突然の強風と作業員の注意不足。多くの不幸が重なって、組み上げられるはずのいくつかの鉄骨が道路へと落ちたのだ。

 奏多ちゃんと晴歌さんの真上に。まっすぐに。

 奇跡的にその凶器が奏多ちゃんにぶつかることはなかった。けど、その代償に晴歌さんが下敷きになってしまった。

 

 ――それは決して助からない重傷で。病院に運ばれてすぐに息を引き取ったという話だ。

 

 そんな悲劇があって間もないのだ。その傷は当然まだ残っている。身体の擦り傷なんかではなく、心を抉る痛みとして。

 それから奏多ちゃんは学校にだって足を運べていない。どうしても、この家から遠くにいけなくなってしまっていた。

 本当は家庭教師なんて呼んでる場合じゃないのかもしれないけど、それでも奏多ちゃん自身の願いで、あたしはこうした仕事をさせてもらっている。

 傍目から見て落ち着いている奏多ちゃんだけど、本当はまだ中学生。不安定なところがあるのは間違いない。

 だからやっぱり、あたしがフラフラしている場合じゃない。家庭教師のお姉さんとしてしっかりしないと……

 なんて考え込んでいるうちに、採点はとどこおりなく終わった。

 つづいて宿題の内容を復習しながら課題を進めていく。最後に次回までの宿題を渡して、本日のバイトは終わり。ときどき休憩を挟みながらでも時間はあっという間になくなってしまう。

 そうして午後7時半をまわった頃、あたしは奏多ちゃんの家で夕飯をいただくことになった。

 奏多ちゃんのお父さんは単身赴任、お母さんは仕事で出張中。そういう事情もあり食卓にはあたしと奏多ちゃんの二人だけだ。あたしもアパートに帰れば一人だし、せっかくなので厄介になることにしたのだ。

 メニューは無難にカレー。

 仕事で家を空けていることも多いお母さんに代わって姉妹二人で家事をやっていたこともあるという話で、なかなかに家庭的女の子力が高い味だった。

美味くやしい」

 食べ終えて思わず、本音がでちゃうくらいには。

「そんな、大したものじゃないですよ。つくりおきですし」

 小さな料理人は照れたように笑う。

 奏多ちゃんは謙遜しているけど、野菜を煮込んでルゥを入れただけじゃないことは明白。ちゃんとスパイスを使っているのがわかった。どう考えてもあたしなんかより料理が上手い。

年上の女性として、これはけっこうショックなことなのだ。

 あたくし、一人暮らし二年目。

 なんやかんやと日常いそがしさにかまけて、自炊をサボってきたので正直あまり凝ったものをつくれない。だけど、こんなにくやしいと見栄もはりたくなるというもの。

「今度あたしもなんかつくるよ。カップケーキとか、そういう簡単なのになると思うけど」

「それは楽しみです、すごく。約束ですよ」

「うん。ほどほどに期待してね。来週あたりにもってくるから」

 そんな約束をした後、後片付けを手伝った。キッチンはそんなに広くないので、奏多ちゃんが食器を洗って、あたしが拭いて片付けるという役割分担だ。

 こうして食事をお世話になるのは二度目なので、すんなりと片付けも済んでいく。あとはもう帰るだけかな、と最後の皿を食器棚に戻した時だった。

 

『――市での自殺は、これで5件目になります』

 

 リビングから無機質な声。点けっぱなしにしていたテレビから、悪夢のような現実が告げられる。和やかだった雰囲気は、その一報で全部ぬりかえられてしまった。

「……っ」

 気付けば、あたしはテレビを凝視していた。

「また、ですか。怖いですね。そんなことが――」

 表情を曇らせて、奏多ちゃんもキッチンからでてくる。彼女の言葉はこのニュースを見ている人たちのほとんどが思ったことに違いなかった。

 だってまだ、前の事件から一日も経ってない。

 

 今日の夕方、線路に飛び込んで跳ねられた男性が即死した。

 

 そんな情報が最寄り駅のホームの映像とともに流れてくる。あたしと奏多ちゃんはしばらく何も言わずにそのVTRを眺めていた。

 事故があったホームはカメラマンがいるホームから線路を挟んだ向こう側だった。まだ封鎖されて間もないのか、警察やその関係者がせわしなく動き回っている。血の痕までは見当たらないけど、ベンチの一つが何かで殴りつけたみたいにひしゃげているのがわかった。そして――

「え?」

 知らず声が漏れる。あたしは画面の隅に映りこんでいたモノに目を奪われて。

「どうかしましたか? まさかこの方、お知り合い……とか?」

「いや。その」

 奏多ちゃんの恐る恐るの問いかけに、あたしは返答に戸惑ってしまう。

 彼女が心配しているようなことではなかったけど、まったく外れているワケでもなかったから。

 亡くなった男性はあたしの知り合いじゃなかった。――でも、あたしが驚いていたのは、知り合い未満の、ある女性のせいだった。

 

 神妙な面持ちで現場の状況を説明するリポーターの女性。その後ろの、画面のはじっこ。奥のホームにつながる連絡通路の窓から、その場所を見下ろす冷たい瞳。

 

 ――暁月妙理。

 夕暮れに佇むその姿が、あたしの目に焼き付いていた。

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