/5.5 奏多と晴歌

 

 いつからか、奏多は姉の夢を見るようになった。

 

 それは事故にあった次の日からだったか、その次の日からだったか。少なくとも姉の葬式があった夜にはもう見始めていたので、本当にすぐ後のことだった。

 奏多自身も覚えていないくらい自然に、姉との思い出を夢に見るようになったのだ。

 夢は日常のワンシーンであることがほとんどだった。奏多の日常にはいつも姉の姿があったので、思い出もまた日常の中に散りばめられていたのだ。


 ――この日の夢は去年の秋のある休日のこと。近くの公園に連れ出してもらった時のことだった。まだ奏多が中学に通えていた頃のことだ。


 奏多は中学校の写真部に所属していて、たまにそうして姉と一緒になんでもない外の風景を撮りにいっていた。

「ここで待ってるから」

 そう言って姉は池沿いのベンチに座った。

 その提案が姉なりの気遣いなのだと奏多にはわかっていた。ずっと側で心配されるのも困るだろう、と察してくれたのだ。

 生まれつき片足が不自由とはいえ、よほど調子が悪くなければ奏多も一人で歩くことはできる。多少は不格好になってしまうが、それでも何も知らない人なら気付かないほどの微妙な差なのだ。中学にだって今は一人で通っている。

 だから、これくらい狭い公園なら歩き回っても問題はなかった。

 奏多はカメラを手に、秋の写真を撮って回った。

 落ち葉の絨毯。花壇に咲いた秋桜コスモス。散歩中の夫婦に挨拶をして一枚撮らせてもらったりもした。

 別に何か目新しい風景があった訳でもない。けれど、それが何か取りこぼしたくない景色に見えて奏多は写真を撮り続けた。

 あまり外に出られないからこそ、こうして外に出た記録を少しでも多く残したかったのだ。

 そうしてしばらくして、奏多は姉が待っている場所に向かった。

「お姉ちゃん……?」

 しかし、遠目に見えた姉の様子は奏多が離れる前と少し違っていた。

 晴歌は空を見上げていた。ベンチから立ち上がり、池をまたぐ橋の真ん中ぐらいに立っていた。その縁に両の手を添えて、何もない虚空そらをずっと見つめていたのだ。

 心はここではない、どこか遠くへ。その姿がどこか幻想めいていて、まるで――空の彼方に落ちてしまいそうだと思った。

 不安にかられた奏多は姉の下へと駆け寄り、その腕にしがみついた。

「お姉ちゃんっ」

「……あ。奏多……どうしたの?」

 そこまでされてようやく気が付いたのか。晴歌の声は呑気なものだった。まるで自分が呆けていたことも気にしていない。

 そんないつも通りの姉に奏多は安堵した。

「そっちこそ。またぼぉっとしてたよ」

 つい駆け寄ってしまったが、奏多も姉のこういった奇妙な行動は始めてではなかった。

 こうなってしまったら瞳は何もうつさなくなり、音は何も聞こえてなくなる。誰かが身体を揺すったりして呼びかけるまで意識が戻ってこないことは知っていた。 夢遊病とか白昼夢とか、そういうものに近い感覚らしいのだが、実際どういうものなのかは晴歌自身もわかっていないという話だった。

 実生活に支障がないので本人は気にかけてもいなかったが――長く側にいた奏多は姉がどんな時にそうなってしまうのか、薄々勘付いていた。

 それは多分、我を忘れてしまうくらいに何かを考え込んでいる時。

 だからきっと姉には何か悩みができたんじゃないか、と思った。

「大学で何かあったの? 悩み事?」

「また貴女はそんなことを聞いて――」

 その問いかけに晴歌は困り顔のまま笑った。その表情でますます奏多は確信した。

 いつも笑顔を絶やさない姉でも、やはり悩みはあるのだと。

 奏多がしつこく追求するとついには晴歌も折れた。縁に背を預けて、苦笑したまま語り始める。

 奏多もその隣に並んだ。

「悩みっていうわけじゃないの。ただ最近ね、相談を受けることが多くて。それで考え事も多くなってね」

「相談って、どんな?」

「大学の友達とか、研究室の同期の人とかから――まぁ、色々とね」

 その相談事の色々を姉は言葉選びながら口にした。

 ――当時の奏多はその告白にそれなりに衝撃を受けたことを覚えている。

 それは実際、相談されても部外者には答えようがない類の悩みで、姉にできるのは話を聞いてあげることだけだったという。

「私なんかを頼ってくれたんだから、なんとか励ましてあげたいのだけど。……でも、やっぱり少し疲れちゃう時はあるのよね」

 そして、今はその姉が妹に胸のうちを吐露していた。

「こんなこと言われても貴女も困るでしょう? ごめんね奏多」

 少し楽になったと口にしながら、姉の表情は晴れなかった。

 抱えるのが精一杯な重荷。その秘密を妹とはいえ他の人に漏らしてしまったことを申し訳なく思っているようだった。

「お姉ちゃん――」

 奏多は姉を元気づけてあげたかった。そのための言葉を探した。

 だって姉は何も悪くないのだ。言ってしまえば悩みを押し付けられただけ。その一部をつい誰かに話してしまったからといって負い目を感じるのはおかしいと思った。

 言葉を探している間に、いつのまにか奏多の目の前に両手を広げた姉がいて――ガバッと抱きついてきた。

「ぎゅぅ」

「ちょ、ちょっと! お姉ちゃんっ」

 奏多は慌てて引き剥がそうとしたが、姉はなかなか離れてくれない。甘えん坊の子どもみたいに力強くしがみついていた。

「んー。あと5分だけ」

「長いよっ」

 幸いなことに周りに人いなかったが、誰かに見られたら恥ずかしいのでやめて欲しかった。

 姉の身体は動き回っていた奏多よりも少しだけ冷たかったが、身体の深いところから体温ねつが伝わってきた。

 そうして結局、奏多は姉に抱きしめられてしまう。これでは、励ましているのがどちらなのかわからない。

 ――このあたたかさに、いつも奏多は勝てなかった。

 抵抗を諦めた奏多は、ぼつり、と漏らす。

「何かないかな。わたしにできること」

 すぐ近く。心臓の音が聞こえるくらいの場所にいて、けれど表情も見せないままに姉は微笑んだ。

「たくさんあるよ。今だって奏多に甘えられるから、お姉ちゃんはやっていけてるんだから」

 その言葉にどんな思いが込められていたのか、奏多には今もわからない。けれど、姉がそんな姿よわさを見せるのは自分だけだと知っていたから、奏多にはその言葉がたまらなく嬉しかった。

 ゆっくりと体温が離れる。その時の姉はいつもの優しくて頼りがいのある姉に戻っていた。

「そろそろ帰ろっか?」

「うん」

 公園の出口に向かいながら奏多は思う。

 空を見上げていた姉の心は、そのまま奏多の知らない世界に向いていた。奏多の知らない誰かのことで、奏多のわからない何かのことで。思い悩んでいるのは、奏多が触れることのできない外の世界の出来事なのだ。

 ――たぶん、嫉妬していたのだ。

 姉が自分以外のことで深く悩んで、気持ちを割いているのが嫌だっただけなのだ。

 そうして、それがワガママだとわかっていながら、それでも奏多は隣を歩く姉に訊ねずにはいられなかった。

 ――だって、奏多は誰よりも晴歌に側にいて欲しかったから。

 父も母も大好きだけど、一番好きなのは晴歌お姉ちゃんだったから。

「お姉ちゃんは急にいなくなったりしないよね?」

 それはきっと姉も同じだと純粋な子どものように信じていたから。

 見上げた横顔。奏多にそっくりの、けれど、奏多にはない大人びた雰囲気のある姉の顔。

 秋風に揺れる長くつややかな黒髪を抑えながら、晴歌は優しく微笑んだ。

「どこにも行かないよ。たとえ遠くに行ったとしても、いつも側にいる――姉妹だもの」

 今も覚えている。

 その時の微笑みを奏多は寝ている時も起きている時も、決して忘れたことはなかった。

 

          ***

 

 ――夢は唐突に終わりを迎える。

 天井を見上げたまま、奏多は目を覚ました。

 電気は点けていない。部屋が中途半端に明るいのは、障子から入ってくる星明かりによるものだった。

「……まだ暗いのに」

 奏多は顔だけ動かして、机の上の時計を見た。

 時刻は夜の10時。眠りについてから一時間くらいしか経っていない。

 夢を見るのは眠りが浅い時だと何かのテレビ番組で聞いたことがあったので、こうして目を覚ましてしまったのも仕方がないのかもしれないと思った。なにせ外はこの騒がしさだ。

「火事かな。……こんな時間に」

 今、外から聞こえるのはけたたましいサイレンの音。消防車が走っているようなのだ。

 その音はそう遠くない場所から鳴り響いていて、徐々に近づいているのがわかった。もしかしたら、わりと現場は近いのかもしれない。

 ――だとしたら大変だ。

 ぼやけていた思考がだんだんとはっきりとしてくる。

「大変……お母さんに声かけないと」

 母はこの時間ならまだリビングにいるだろうか。明日も忙しいから早く寝るつもりだと言っていたけれど、これだけの騒音なら奏多と同じように目を覚ましているかもしれない。

 まず外に出て、どこで火事が起きているのかを確認するのが先決だとわかってい たが、奏多の足ではそれをするのも一苦労だ。

 だから、きちんとそれができる母に頼るのが第一だと考えた。

 不格好な急ぎ足で、部屋の入口まで向かい、ドアノブに手をかける。

 その時、うなじの辺りに何かを感じた。

 張り付くようでいて、湿っていて、撫で回すような。

 この感覚は知っている。


 ――視線だ。


 見られている。じっと。

 錯覚とも思えないほど、湿り気をおびた視線が奏多にそそがれていた。奏多は反射的に振り返った。部屋の中に異変を探した。けれど何も見つからない。

 障子はしっかりと締められているし、星の光に透けた向こう側には何者の影もない。いつもの自分の部屋そのものだった。

「――っ」

 半歩もない空間を後ずさる。現実には何もないとわかったのに奏多の表情は晴れない。だって、まだ感じていたから。

 障子に空いた視えない分子ほどの穴から誰かが覗き込んでいるような――そんな

妄想が消えてくれない。見られている気持ち悪さが、どうしても拭えなかった。

 たまらず、奏多は障子の向こう側に問いかけた。

「……だれなの、貴方」

 応えはない。

 何もないのだから、それは当然のことだった。

 けれど、その静寂に奏多はたえられなかった。

 自分の身体を爪が喰いこむほど強く抱きしめる。

 ――独りきりのその体温は春先とは思えないほどにひどく冷え切っていた。

 視線はいつのまにか消えている。それでも奏多は動けなかった。


 結局、母が様子を見に来てくれるまで、奏多はドアの前に座り込んで、ただふるえることしかできなかった。

 

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