/5 三番目


 その夜は一人だった。

 

 すでに習慣になりつつある公園での一人酒。悪い傾向であると自覚しながらも、彼女はそれをやめられなかった。

 溜まりに溜まった鬱憤をどうにか発散するために、彼女はこの方法に頼るしかなかった。

 まったく若い女が一人で危ない――などと注意する異性ひとはいない。それにこれまでだって浮浪者や変質者に絡まれたことはなかった。

 別にその手の手合いが現れたのなら正当防衛と称して、殴り飛ばしてやろうとさえ思っているのに。現実にはそんな変化すら訪れない。

 缶ビールをあおり、フラフラとした足取りで仄暗い公園を歩き回る。

 

 寒い?

 寒くない?

 寂しい?

 寂しくない?

 辛い?

 辛くない?

 

 なんども頭の中で繰り返される自問自答。

考えたくもないことが溢れてくる。

 ――震えているのは夜風のせい。アルコールのせいで血管が縮み上がっているからだ。

 そう思い込むために、彼女はいつもここを徘徊するのだ。

 何の記念だかさっぱりわからない石碑を彼女は霞んだ目で見つめた後、なんだか気に入らなくて唾を吐きかけた。

 そうして時間を浪費するうちに橋の上にいた。

 この公園には遊具がない。本当に老人が散歩に使うくらいしか使い道がない場所なのだが、なぜか妙に立派な溜め池があり、鯉なども泳いでいるほどだった。池には時代劇でみられるような木製の橋がかけられていて、彼女が立っているのはその上だ。

 ふと縁から外側をみれば黒く澄んだ水面が顔をのぞかせていた。

 泳いでしまおうかな、と思った。

 いつだったか。最後に泳いだのだって、それこそ数年前のことで、その時の自分はまだ学生で――


「っ……」


 そこで彼女は喉から漏れる嗚咽をこらえる。

 まただ。

 昔の事を思い出してしまった。こうなるともうダメだ。

 今の惨めさに堪えられなくなる。これまでの人生だって、今だってそう間違えていないはずなのに。

 今日の失態も自分に非があったとは思えない。悪いのは基本的に周りの連中で、その後のことだって自分の落ち度は精々口答えをする勇気がなかったことくらいだと自覚している。

 だから、泳ぎたいだなんて嘘だった。

 本音はこのまま池に飛び込んで死んでしまいたかった。

 

 寒くて、寂しくて、辛くて。

 惨めだった。


 言葉を吐き出すかわりに渦巻いた感情が爆発する。

 気付けば彼女は手に持った缶を投げ捨てて、手すりに足をかけていた。

 飛び込もうとした、正にその時だった。

 雲に隠されていた月が顔を出し――水面を明るく照らし、そして

 

 ――青く美しい光景まぼろしを見た。

 

 それは水面に浮かぶ蝶の群れだった。

 数十から数百という青い羽は月明かりをあびて、まるで宝石のように輝いていた。

 この世のモノとは思えない美しさに、彼女の内側にあった黒いモノが洗い流されていく。

 あまりに美しい光景を見た時、人は我を忘れ、自分が如何に矮小かを思い知るのだと――彼女は悟った。

 子どもみたいな純粋な気持ちで、その光を見つめる。

瞳からは自然と涙がこぼれていた。

 だからこそ、目を離せず。

 だからこそ、彼女はソレに気が付いた。

 たくさんの蝶。その下に埋もれている黒い塊。

 

 ……その隙間から見えるのはジャンパー?

 

「――え」

 

 呟いた瞬間。

 蝶が彼女に気が付いた。

 羽をふるわせ、一斉に飛び立つ蝶たち。

 舞い上がる青は晴れ渡る夜空にあって、あまりに美しい光だった。――けれど。

 彼女は悲鳴をあげ、一目散にその場から逃げ出した。

 震える身体を抱きしめて、死のうとしていたことを忘れるくらいに必死で。その狂った現実から逃げ出したのだ。

 蝶は死体に群がっていた。

 水面に浮かんだ溺死体。服の隙間や口や鼻や目や耳に、蝶はその身を潜らせていたのだ。

 まるで、その体液なかみを髄まで啜るように。

 

          ***

 

「ぎ、ぎぎ」

 歯を食いしばる。――堪えろ、あたし。

 堪え、

「ギャーーーー!!」

「きゃー」

 響き渡る、あたしたちの悲鳴。

 ごめん、無理でした。

 ――恐い。怖い。こわいっ!

 超コワい! 蝶コワい!

「あー、うっさいうっさい! 口閉じろッ!」

 響き渡る語り部霧子の怒声。

 明らかに一番大きな声で、あたしたちを黙らせにかかってきた。こっちの顔も怖い。

「うぅ、ごめん。近所迷惑ですよね……」

 壁薄そうだし、さっきの声も隣にダダ漏れに違いない。申し訳ない気持ちもあって、あたしはちょっとだけ冷静さを取り戻してきた。

 ――先生との昼食から3日。

 木曜日の夜にあたしたちは霧子の部屋でプチ飲み会=怖い話大会を開いていたのだ。缶のお酒とツマミにお菓子を少々用意して。

 先方は在島霧子先生。

 めっちゃ怖かった。途中で蝶の群れがギチギチしてるのを想像しちゃってトリハダがたったほどだ。

 虫ダメ。蝶でもダメ。

「みょ、みょうにリアうだったね」

 舌が回らなくて変な発音になってしまった。霧子はそんなあたしに笑いながら暴露する。

実話リアルだから、これ」

「う、嘘ぉん」

 驚くあたしの横で、禀がまったく気にしてないというようにポテトチップスを齧る。

「わたし、それ知ってた」

「ちぇ――反応が薄いと思ったら、そういうことか」

 悔しそうに唸っているところ悪いけど、あたしはさっぱり事態が飲み込めない。

「これ、有名な話なの?」

「あれだよ。この前、池で大学生が衰弱死した事件あっただろ。その第一発見者がSNSでつぶやいてた話なんだわ、これ」

 だいぶ脚色デコレーションしたけどな、と霧子は補足を入れる。

 池で衰弱死――というと、例の自殺事件の3人目。3月の終わり頃の話だ。いや、でも、あたしはそんな話は聞いたことないし、ニュースにもなってなかったと思う。

「すぐに消されたから多くは出回ってないけど、調べればまとめてるサイトとかでてくるぞ」

「最近の事件の、怖いウワサの一つ」

「あぁ、そういう」

 禀の言葉で、ようやく話の意図が読めた。

 ここ最近の出来事はかなり常識から外れているので、色々なところでよくないウワサが立っているのだ。それは例えば、これらの事件は自殺じゃなくて悪霊の仕業だとか、亡くなった人たちはみんな危ないクスリの常習者だったとか。

 霧子の話もそのパターンの一つ、ってことなんだろう。

「なら、作り話かもしれない……よね?」

「そうとも言い切れないのがこの話のミソだな。2人目の――事務員の人が亡くなった時も部屋の近くに蝶がいた、とかいう話があったしな。探せば他にも青い蝶の目撃談があるかもしれないぜ?」

「……うぇー」

 人食い蝶なんているワケない。……とまでは言わないけど。

 ただでさえ怖い話なんだから不安になるような情報は付け足さないで欲しい。

 もし仮にそんなモノがいたとしたら、もうあたしたち人類には太刀打ちできるものじゃないし……

「巡お前、怖がりすぎ」

 霧子はそんなあたしを一頻り笑った後、ふっと笑顔を消した。

「ま。今年はたまたま蝶が多い年ってだけだろ。――ネタにしては不謹慎だけど、実際、虫って不気味だしな」

 だけどそんなものは偶然だと言い切って、霧子はこの話題を打ち切りにした。そうして、次の人にバトンタッチ。

「んじゃ、次は禀。お前だ」

「あいあいさー」

 元気よく、そしてやる気なく答える禀。指についたポテチの塩を布巾でふきとりながら、少しの間、考える。

「うーん。じゃあ、こっちも近いネタで」

「エ……」

 さすがにエゲツナイの2連続は心臓に悪い。――なんて考えているあたしを禀がまぁまぁとなだめすかす。

「安心したまえよー君。そういうのではない。むしろ現実路線の学校の怪談なのだ」

 現実路線の怪談……って。

 あたしと霧子は顔を見合わせる。当然、禀の言いたいことをあたしたちが理解できるワケがない。

「わたしたちの学科に生態模倣バイオミメティックスの研究室があるの。知っとるだろー?」

「えー、と。荻研ハギケンだよね。見学行ったから覚えてるよ。昆虫の翅の構造を調べて、すごい撥水性の素材をつくる、とかそういうことやってるんじゃなかったっけ、たしか」

 萩研――萩元研究室。そこでは生物の構造とか生態を真似た物を創って、工学に応用しようという研究が行われている。

 まだまだ自然界には人間が考えるモノよりもすごい機能をもった生物がたくさんいるので、そのカタチを利用させてもらおうっていう話である。

 萩研の名前が出たことで、あたしも禀が近いネタと言っていた理由を察することができた。

 その研究室には実験動物としていろんな種類の蝶が飼われているのだ。なので、室内はちょっとした蝶の見本市状態。

 つまり蝶つながりだ。

 ふむ、と一度うなずいてから禀は続ける。

「そこの学生が2月に亡くなったのは?」

「……知らない」

 知らなかったけど、あたしはその時、ある人を思い出していた。

 うちの大学の生徒で2月に亡くなった人は――少なくともあたしが知るなかでは一人しかいない。

 その想像は的中した。

「エン、ドウ……ハルカ? とかっていう変わった名前の人だよな。わりとウチらの世代にも人気あった」

「そうそう」

「……え」

 霧子たちにはバイト先の話はそんなにしていない。なので、あたしがその晴歌さんの妹に勉強を教えているなんて霧子たちは知る由もない。

 ……なんだか、その名前に不意をつかれたような心地だった。晴歌さんがどこの研究室にいたとか、あたしはまるで知らなかったから。

「どした? 巡っち」

「あ。えっーと。なんでもないよ。続けて続けて」

 そんなあたしの様子をまた怖がっているだけだと判断したようで、禀はさっさと進めはじめる。

「その女性ひとが亡くなってから一ヶ月くらいの間、研究室で何度か蝶の紛失事故が起きててな。でも、誰も飼育箱の管理はさぼってないし、鍵はきちんと管理されてるしー、泥棒が入った形跡もないしー」

「ハァ? それのどこが怪談なんだ?」

 と、霧子が眉を寄せる。そんなのは杜撰な管理の結果じゃないか、と言いたいような顔だった。

 そういった紛失事故が大問題に発展するのが大学というところでもある。例えば、研究中のネズミとかが逃げ出したりするとあまりの繁殖力のせいで生態系が壊れてしまう可能性だってあるのだ。

 たしかにこのままだと怪談というよりは不祥事のようにも聞き取れる。

 けど、禀の話はそれで終わりじゃなかった。

、これがー」

「ハァ?」

 霧子がさらに眉をひそめた。

 ――戻ってきた。何が? そんなものは決まっている。

「いなくなったはずの蝶が戻ってきた。そういう話?」

「そゆことー。飼ってた蝶が一羽ずついなくなる。だけど数日後に必ず戻ってくる。その程度なら研究にも支障がないし、研究室の人たちも頭をヒネっているばかり――はてさて、その真相はいかに」

 そこまで話して霧子も理解したようだった。

 たしかにこれなら怪談だ。

 研究室から抜け出して、けれど戻ってくる蝶々。

 誰かが手引きしているとしたら何のために?

 もしそうでないのなら何が起こっているの?

 誰にも何の実害もないところが、むしろモヤモヤとしていて気味が悪い。気持ちが悪い話だった。

 禀の話は直接的じゃないけど、十分に心臓によくない。

「まるで蝶が、でしょ?」

 二ヒヒ、と禀は怪しく笑った。

 霧子はわけわからんな、と納得としていない様子。

 あたしは――あたしはどんな風に考えればいいかわからなくて、つい黙り込んでしまっていた。

 

 その後、最後のシメはあたしだった。

 2人の話にかなり萎縮してしまったあたしはなんとか反撃がしたくて、仕入れた中でも渾身の怖い話を披露したんだけど……

 聴き終えた2人に『ふつー』とハモられてしまったのが、たまらなく悔しかった。

 まぁ、それで雰囲気も和んだからイーブンだけど。

 

          ***

 

 6人目。焼身自殺。

 

 暁月妙理は燃え続けるアパートを無感動な瞳で観察していた。

 3階にある一室からは黒い煙が吹き出し、その合間に見える赤色はすでに室内を燃やし尽くして隣室にまで伝播している。

 現場にはすでに人だかりができており、刻一刻と数を増していた。ちょっとした見世物のていを成し始めているようだ。

 ついに現れた6人目。

 それが事故や事件ではなく、故意の発火であることはすでに抜け出してきた住人同士の会話から判明している。

 自殺したのは大学教員の男性。

 今朝、灯油入りのポリタンクを室内に運び込んでいる様子が目撃されており、さらに火事が起きる直前には部屋の周囲に異臭が漂っていたということもわかっている。

 燃えるアパートの中、さすがにその男性教員は死亡しているのだろうが、それはまだ死体になってから間もないはず。

 妙理はまるでカメラの焦点ピントを合わせるように、火元である一室に感覚を集中させる。

 黒煙に隠れた先を見据え、わずかの一音も逃さない。

 燃え落ちる天井。倒壊する家具。焼けていく人体。

 

 そして――ふるえるような、蝶のはばたき。

 

「捕捉しました」

 

 その凶兆きざしを妙理の意識が捉える。

 同時に妙理は人垣に入りこむ。

 視点の位置は変えず、けれど誰に触れることなく、アパートへと近づいていった。

 一拍の間をおいて、ソレは姿を現す。

 小さな青い蝶が窓の隙間からユラリと這い出てきた。

 他の観客たちは燃え盛るアカだけに注目して、そのわずかなアオに気付かない。ようやく近づいてきた消防車のサイレンの音に安堵して、その異常に意識を向ける余裕がないのだ。

 両羽に浮かぶ文様は青緑アサギと黒のマダラ。

白昼ならばよく見かけることができる春の蝶は、しかし、明らかに常識から外れていた。

 幽かに燐光を纏い、蝶は炎――あるいは、そこで朽ちた焼死体から逃れるように滑空する。

 住宅街へと向かっているようにも見えた。

 妙理は現場を迂回するように、蝶の影を追う。

 そして、再び人の波を抜け、妙理が距離を詰めるべく加速と跳躍を試みようとした刹那に、

 

「これで5人目か」

 

 喧騒に紛れて、男の声が鼓膜に届いた。

 まるで独りごちるような――深い感慨を込めた声。


「彼女はいつまで続けるつもりなのかな」

 

 嬉しさを堪えられないというような、恍惚とした響きだった。

 線の細い、若い男性の声。

 その意識は明らかに焼死した者には向けられてはない。


 優先度を更新する。


 ――声に反応して妙理は足を止めた。

 振り返った先では、多くの人々が炎上する建物を見上げ、口々にさまざまな言葉を垂れ流している。場は騒然としていて、その混沌は増していくばかりだった。

 妙理は再び聴覚を用いて男の声を判別しようと試みたが、それは一瞬だけ遅かった。タイミングが悪かったのだ。

 ようやく到着した消防隊から勧告がなされ、野次馬たちはもっと離れるようにと指示される。放水による鎮火が進んでいく中においても妙理は意識を研ぎ澄ませるが、最早、先ほどの声を拾い上げることはできなかった。

 手がかりである蝶もすでにどこへと知れず消えていた。

「……」

 ――あの声の主はカノジョを知っている。

 主が口にした通り、事態が進展していることだけは間違いなかった。

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