/13 Real

 

 ほどなく、あたしはその場所に辿りついた。

 波左間さんのアパートを抜けだして、ずっと走り続けて、息を切らしながらその場所にきた。

 

 桜の名所として知られる川沿いの小公園。

 遠瞳晴歌さんが亡くなった――その場所へ。

 

 辺りに人影はなく、だけど――街灯の明かりから逃れるように、駐車場の隅に一台の軽自動車が停まっていた。

 空はもう闇色に染まっている。この位置からだと、車内をうかがうことはできそうにない。

「……いた」

 それが波佐間さんの車だと判断したのは、ただの直観だ。

 駐車場に入り、まっすぐにその車に向かった。徐々に車内が見えてくる。

 手前側――助手席には誰も乗っていない。

 運転席には人影があった。――男性だ。

 背を丸めるようにした男性の影は見える。きっと彼が波佐間京一。奏多ちゃんをさらった犯人だ。

 それに気が付いた時、足はもう止まらなかった。

 あたしは車の横まで一気に駆けだした。その勢いのまま助手席の扉を思いっきり開けて――

「――っ」

 わずかにむせる。

 ドアを開けた瞬間に粘性をもった白い微粒子があふれてきた。

 肌をはい回るソレに不快感を覚えた時には、もう目の前の男性がゆっくりこちら側に倒れてきた。

 とすん、と音を立てて男性が助手席に体を投げた。眼鏡がずれ落ちてもまるで気にする様子もなかった。

「う……嘘っ」

 どう見てもマトモな状態じゃない。

 意識がなかった。

 

 ――もしかして――

 

 ある想像が頭をよぎった時、あたしは今の状況も忘れて波左間さんの肩をつかんだ。

「だ、大丈夫ですかっ!」

 ゆすった体はただグラグラと揺れるだけで――なんの反応を示さない。

「だ、だいじょ――っ」

 けれど、たしかにその人は生きていた。

 生きてはいた。

 開かれたふたつの瞳は虚空をみつめていた。

 まるで夢を見るようにダラしない笑顔を浮かべて、口から涎を垂れ流しながら ――その男性ひとは生きていた。

 そのあまりにも気味の悪さに――あたしは目を逸らそうとして……気付いてしまう。

 

 波左間さんの肩にはいつの間にか一羽の蝶がとまっていた。

 

 この世のモノとは思えない、どこか怪談めいた美しさの蝶が。

 ――キレイな青。

 たまらず飲み込んだ息とともに――あたしの中に何かがスルりと流れ込む。

 

 ――軽い眩暈と陶酔感。

 

 感覚がわずかに遊離する。

 意識があたしじゃない誰かの白昼夢に飲み込まれる。


 浮かんだのは、漠然としたイメージ。


 それは飛び方を忘れた蝶の夢。

 蝶の視点を追うようにして、あたしの意識も一瞬だけ飛行して――そして緩やかに墜落した。

 その墜落の間際に、誰かが観客あたしに語り掛ける。

 

『ごめんなさい』

 

 夢の中か。夢の外か。どちらともつかないその声に――あたしは刹那のユメから覚めた。


          ***

 

 不意に聞こえたかすかな声に振り返ると、彼女が佇んでいた。

 舞い散る桜に溶け込むような白くあわい影。風にくしけずられる細く長い漆黒の髪。

 直前までのいろいろな出来事を消し飛ばしてしまうくらいに、その姿は印象的だった。

 服装以外はいつもと変わらない――何も知らないけれど、よく見たことのある彼女の表情かおだった。


「暁月……さん?」

 

 声をかける。けれど、彼女からの返答はない。

 代わりに一歩、前に出る。


「そのナカミをハイジョします」

 

 そうして、呆けたままのあたしに何か言葉を告げた。

 たぶん、あたしを殺すつもりだという意味なんだろうけど、その時のあたしは驚くこともしなかった。

 不穏な響きを感じさせないほどに、彼女の声に意思のようなものが込められていなかったからかもしれない。

 それに――町に不釣り合いな彼女の儚さが、とてもキレイだなんて思ってしまったから。

 

「――ゆきます」

 

 息を呑む間もないほどの一瞬で、彼女はあたしのすぐそばまで来ていた。

 ――あたしの胸に添えられた彼女の右手てのひら

 鋭く、深く。心臓を打ち貫かれるような錯覚いたみ

 そこでようやく視線が重なった。

 少し見上げるようにして、彼女の吸い込まれそうな黒瞳ひとみが、あたしに向けられていた。

 

 これが、彼女が一条巡あたしを認識した初めての瞬間だった。

 

 誰よりも特別だった暁月妙理が――なぜかこの時、何ももっていないあたしを視ていた。

 無感動に殺してしまおうとしているはずの『あたし』を見つめていた。

 その揺らぎアンバランスが、強く印象に残っていて。

 そうして――胸を打たれたあたしは。

 

 あたしは……。


 

 ……。

 ………………?

 ……あれ?

 

 

……?」

 

 意外と大丈夫だった。

 胸をえぐられたような錯覚があったけど。

 本当に錯覚だった。


「……」


 そのままの姿勢で停止するあたしたち。

 見れば、なんだか彼女の手袋には五芒星が描かれていて、なんともオカルティックで魂とか抜き取る力が込められてそうな勢いだったけど意外となんともなかった。

「――」

 瞳の奥で暁月さんが困惑しているのが伝わってくる。無表情のままなのにすごい感情表現だ。

 ――なんだか二人して、すごく恥ずかしい感じの雰囲気になってしまった。

 いや、暁月さんが雰囲気バリバリの巫女服なんかで出てくるからあたしもてっきりトンデモ急展開になったとばっかり……

 

「……えっと。なんでいきなりこんなことを?」

 

 とりあえず聞いてみた。

 すると暁月さんはやっぱりあたしの質問には答えないで。かわりに一人でぶつぶつと呟く。 

 ……すでにいない、とか。

 ……推定不能です、とか。

「えっと」

 暁月さんはなんでも質問に答えてくれる人だとばかり思っていたけど、どうやら不測の事態ではそうもいかない様子。意外な一面だった。

 ――いや、あたしもね。混乱はしてますけどね。

 それはそれとして、さっきから――ずっと、この体勢のままなのはいかがなものかと。

「あの……いつまで触ってるの?」

 さすがにちょっと恥ずかしくなったので指摘。

 女の子だからってこんな堂々とやられると――あんまりよろしくない気もします。胸ですし。

「……失礼しました」

 暁月さんは素直に謝罪すると、右手を引っ込めて頭を下げた。

 巫女さんみたいなすごい恰好をした彼女が頭を下げる姿は――なんだかおかしな光景で。

 つい吹き出しそうになってしまった。

 

「――って違う。そんな場合じゃなくて!」

 

 そこで唐突に、あたしは状況を思い出した。

 今、奏多ちゃんは大変なことになってて――それに波左間さんも普通じゃない状態でっ!

 急ぎふり返って車内を見れば、波左間さんはさっきと同じ姿勢で倒れたままだった。

 今度は後部座席のドアを開けて、そっちの方も確認する。

 すると、あたしが目を通すよりも先に背後に立ったままの暁月さんが声をかけてきた。

「え」

 あたしが知りたかったことを、なぜか彼女が口にした。

 暁月さんの方を見る。

 そしてもう一つ。彼女はあたしが知りたいことを口にする。

「その男性は死亡してはいません。放置しても命に別状はありません」

「……なんで、そんなこと知ってるの?」

「――」

 暁月さんは答えない。

 あたしもどうすればいいのかわからなくて、とまってしまった。

 この不思議な転入生は――本当に何者なんだろうか。

 大学にいた時も、自殺現場に立っていた時も、椚木さんのアパートに向かっていった時も、そして今も。

 ずっと同じままなのに。何一つわからない。

暁月妙理あなたは――」

 

 ――何者なの……?

 そう尋ねようとした時だった。

 

 ――トゥルルルー

 

 あたしのポケットの中でケータイが震えた。

 本当に狙いすましたかのようなタイミングで、着信があった。

「……」

 あたしはゆっくりとケータイを取り出して、ディスプレイに表示される文字を見た。

 そこには最近登録した名前が――骨董屋・葛ノ葉の文字があった。

「で、……でた方がいいの?」

 画面を見せながら暁月さんに聞くと、無言のままちょっとだけ眉を寄せた。

 どちらの意味かはわからなかった。

 

『あー。よかったよかった。つながった』

 

 仕方なく電話に出ると、やたらと調子のいい中年男性の声が響き渡る。

「え。……あっ」

 そこで、気付く。この男性の声には聞き覚えがあったのだ。

 今日の夕方――遠瞳家に来ていたあの胡散臭い男の人だ。

 ボサボサ頭にやたらと派手な赤いスーツ。

 しかも、よくよく思い出してみれば――それはこの前、電話で話した暁月さんのおじさん――穀雨玉兎くらさめぎょくとさんの声だった。

 その人が何故だか、あたしに電話をかけてきた。

 意味がわからない。思い返してみれば……なんでこの人が遠瞳家に来ていたのかも謎のままだ。

「あの。――これって。どういう?」

『どうもこうもね』

 受話器の奥で男性は忍び笑いをこらえている。何がピタリとハマったのかは知らないけど、やたらと愉快なことがあったらしい。

 こっちにはサッパリだ。

『――そうだね。では君の望みに応えてあげよう』

 そんなこちらの空気を察したのか。電話の向こう側から救いの――悪魔の手が差し伸べられる。

『ウチの式神に案内させるよ。そこですべてを話そう』

「……」

 ――式神。

 普段聞きなれないその単語を――今はなぜか自然に受け入れてしまう。それが暁月さんの事だっていうのは、なんとなくわかっていた。

 そして、もう一つ。

 この男性ひとの語り口から、わかることがあった。

『君はもう部外者じゃないんだから』

 ここ数ヶ月の奇妙な事件は普通あたしたちの側の出来事ではなかったのだと。


          ***

 

 ――すべてを話そう。

 

 その言葉に誘われて、あたしは骨董屋『葛ノ葉』の事務室へとやってきた。

 引越し用のダンボールが散逸する室内。あたしは来客用のソファに座り、店のオーナー――玉兎さんと向き合う。

「一条巡です。……あの。こんばんは」

「穀雨玉兎だ。今さら挨拶はいいでしょ」

暁月さんはあたしたちにお茶を出すなり、早々にどこかにいってしまった。なので今はこの奇妙で怪しい男と二人きり。

そしてなぜか玉兎さんのスーツは夕方着ていた赤色ではなく、黄色へと着替えられていた。

 湯呑みに一口つけてから、玉兎さんは話の口火を切った。

「あー。まずは何から聞きたい?」

 この人は全部知っている。

 あたしが経験した奇妙な出来事だけじゃなくて、きっと波左間さんのことも連続自殺のことも。裏も表も知り尽くしている。

 ――そんな予感があった。

 あたしにも話して欲しいこと、聞きたいことはたくさんある。

 けど、まず初めに確かめないといけないことが一つ。

「奏多ちゃんは本当に無事なんですか」

 これは道中で暁月さんにも聞いたことだった。

 命に別状はない――っていうことだったけど、具体的なことは答えてもらえなかった。

 だから、あたしは改めてそのことを訊ねた。

「それは安心していいよ。あの公園のすぐ近くに病院があったでしょ。そこまで逃げ延びたところを無事に保護されたという話だから」

「……よかった」

 ほっと胸を撫で下ろす。

 奏多ちゃんがどうなったのかずっと気になっていたけど――でも、そうか。なんとか自力で逃げ出すことができたってことなら、よかった。

 波左間さんのあの様子なら、逃げ出す隙もあったのかもしれない。

「……でも」

 そもそも波左間さんは……どうしてあんなことになってしまったんだろうか。あたしがあの人を見つけた時はもう普通じゃなかった。抜け殻みたいになってしまっていた。生きていたけど、それだけだった。

「安心していいよ。彼も無事だ」

 こっちの表情から考えを察したのか、玉兎さんは波左間さんの安否を語る。

「あの波左間という男も病院に運ばれるように手配した。無論、命に別状はないよ。妙理の見立てでは、急性の薬物中毒ということらしいけど。まぁ。なんとかなるでしょ」

「薬物……中毒?」

「麻薬をやってたんだよ。彼は」

 さもどうでもいいことのように、玉兎さんはとんでもないことを暴露した。

 波左間さんが麻薬を?

 あの異常な雰囲気は薬のせいだった?

 ……でも、そんなにすんなり納得できるワケがない。

 あたしは麻薬なんてものが身近にあるなんて考えたこともなかったのだ。

 その戸惑いを楽しむように玉兎さんは続きを口にする。

「そうだね。まずは波左間京一の事から話そうか。……君はどこまで知っているのかな、彼を」 

「どこまでって言わても……あたしがやっていた奏多ちゃんの家庭教師のアルバイトの先任で――後は」

 後は、あの部屋のことしか知らない。波左間さんは生前の晴歌さんに恋をしていて。

 

 ――

 

 その言葉を信じて、ずっと蝶を集め続けた。

 そして、おかしくなってしまった彼は視えないはずの晴歌さんのたましいいを奏多ちゃんの中にいると思い込んだ。

「まだ信じられないですけど……そういうことだったんだと思っています」

「まぁ、おおむね君の予想は当たっているよ」

 あたしの話を聞き終えて、玉兎さんは口元を軽く歪ませた。

「波左間京一は薬物中毒だった。――大学構内で流通している脱法系のハーブを購入していた疑いが高い。そして、それは彼だけの娯楽ではなかったんだ」

 彼はテーブルに投げていた資料をつまみ上げて、あたしに見せる。

「え?」

 その資料には意外な人の名前が書いてあった。

 ――遠瞳晴歌の交友関係。

 その欄には連続自殺の被害者と――それから、波左間さんの名前。

 これは予想だけどね、と前おきを入れて玉兎さんは続ける。

「彼の秘密の遊びを見とがめたのが、同じ研究室に所属する遠瞳晴歌だったんじゃないかな」

「ちょ、ちょっと……!」

 混乱するあたしの様子を眺めながらも、玉兎さんの暴露は止まらない。――いいから聞きなよ、とその瞳があたしを押しとどめた。

「彼女はそのハーブの魅力に憑かれてしまった。相性がいいクスリだったんだろう。それは精神的な問題だけでなく遺伝的な問題もあるんだろうけれど――とにかく、ミイラ取りがミイラになってしまったというワケさ。波左間京一が遠瞳晴歌に偏執していた理由は実のところそれなんだ」

「晴歌さんが同じ麻薬を使っていたから……?」

 そんな理由で、あそこまでおかしくなってしまった?

「そんな理由さ。それだけで彼は彼女にとっての特別になれたんだ。誰にでも平等なはずの彼女の特別な人に」

 麻薬を分け与えることで得られた共犯関係。

 二人の秘密。煙る部屋の密会。

 ――でも、なぜだろう。

 晴歌さんが波左間さんを大切トクベツにしていたようにはどうしても思えなかった。

 晴歌さんがそうであったとしても、本当に麻薬で壊れてしまっていたなら、みんなから好かれる人にはなれなかったはずだ。

 それはあたしの願望でもあったけど、そう思ったのだ。

「――さて、そのクスリだけど。もしかして、君はそれを遠瞳家で見たことがあるんじゃないかな?」

「……っ」

 玉兎さんがいっているモノがなんなのか。

 あたしは直感的に悟った。

 漢方薬――と奏多ちゃんが言っていた、あの小瓶の中の白い粉末。

 詩梳さんもしきりにその小瓶を気にしていた。

「お察しの通りだよ。遠瞳奏多もまたそのクスリを定期的に服用していたんだ。姉の遺品から探りあてでもしたんだろう。奏多はそれを麻薬と知らず吸い続けていた」

「そんなっ」

 ――お姉ちゃんが使ってたものなんですけど、飲むと気持ちが落ち着いて、グッスリ眠れるんですよ。

 奏多ちゃんのその時の笑顔を思い出して、胸が苦しくなかった。――そんなモノを知らずに使い続けていたなんて。絶対によくない。

 身体も心も、いつのまにか磨り減ってしまってもおかしくない。

 でも、それは晴歌さんとの大切な繋がりの一つで――だから、大事にしないなんてことは無理だった。

 そんなの……どうしようもない。

「そんなことがあったなんて」

 あたしは奏多ちゃんが麻薬を使っていたなんて気がつかなかった。あれだけの間ずっと側にいたのに。

「気がつかなくても無理はないさ。遠瞳詩梳ははおやですら気が付かなかったんだ。――少量であれば意識が軽く遊離トランス気味になるぐらいだよ。詳しい者でなければそれが麻薬によるものだとは気がつかないだろう。傍から見れば惚けているのと大差ないさ」

 詳しい者でなければ気がつかない。

 ――だけど、気が付いた人もいた。

 あたしにもそれがようやくわかった。それがわかって、余計に辛かった。

「気が付いていたんですね。波左間さんは」

「正しく、ね」

 波左間さんだけは奏多ちゃんの異変に気付いていた。

 それはどの瞬間で、どの時期かはわからないけど、一度その姿を見かけて、そしてずっと見ていたに違いない。

 奏多ちゃんが怖がっていた視線の正体は多分、波左間さんだったんだ。

「だからこそ波左間京一は酩酊した奏多の姿に晴歌の存在たましいを重ねた。――なにせ、あのクスリは彼と彼女の繋がりの象徴だったんだから」

 そう結んで、玉兎さんはあたしの方を流し見た。

「さて、これが波左間京一の物語だ。満足してくれたかな?」

「……満足って、そんな」

 ――ひどいことを平然と口にする人だった。

 そんな言い方はない、と思う。

 知りたかった話ではあったけど――そして、思っていたより深刻で、どうしようもない話だったけど――そんな言い方はない。

 晴歌さんの事も、奏多ちゃんの事も、波左間さんの事も、今のあたしには到底受けとめることができない話だった。

 でも、筋は通っているようにも思う。

 納得――はまだむずかしいけど、波左間さんたちの間にそれに近い暗闇があったことは嫌というほど実感していた。

 ――だけど、手放しで玉兎さんの話を信用するワケにもいかない。

玉兎さんがまだ大事なことを話していないこともわかっていたから。

「まだです」

 あたしは半笑いの玉兎さんを睨み返すように告げた。

「あなたが奏多ちゃんの家に来た理由がまだですよ」

「――ほう」

 玉兎は感心したような声をあげた。

 眼鏡の位置を軽く直し、改めて、あたしの方を眺めてくる。――値踏みをするような視線だった。

 あたしがその視線に堪えかねて言葉を返そうとした時、あの時も言ったよ、と玉兎さんは小さく返した。

「蝶を探していたんだ。世にも珍しい、青い蝶をね」

 妙に芝居がかった口調と仕草。

 それは今日、玉兎さんが詩梳さんに言っていた言葉と同じだった。

「青い蝶って」

 また『蝶』だ。

 その言葉にあの時も、妙なひっかかりを覚えたのだ。

「それは波左間さんの妄想じゃ――」

「いいや、違う。彼だけじゅないんだ。蝶はこの町にはびこった幻想だよ」

「この町に……?」

「聞いたことぐらいあるでしょ、青い蝶のウワサ」

 ――聞いたことはある。

 それは、あたしが霧子から聞いた池に浮かぶ死体から飛び立つ蝶の怪談。ここ数ヶ月で何かと聞くことの多かった青い蝶という単語(ワード)。

 それとたしか……そう。

 そこであたしは不意に思い出した。

 あの部屋にあった日記には――死体に群がる蝶の幻を、波左間さんも見ていたのだ。

 そしてキミをみつけた、と言っていた。

「あのウワサも、何か関係があるんですか?」

「そうだよ。その蝶は悪霊の一種なんだ」

「――は?」

 悪霊って。まさか。

 玉兎さんはあっけんからんとトンデモないことを言い出した。

「ここ最近の連続自殺があったでしょ。被害者たちはみな、この悪霊に憑かれていたんだ。自殺するように誘導されてたんだよ」

 その上に蝶の悪霊が人にとり憑いて、人を殺してしまうだなんて――なんていうか、いきなり過ぎる話だった。

「えっと、……それって……」

 なんでそんなことが――と問いかけようとしたあたしに、玉兎さんは軽い口調で正体を明かす。

「オジサンはね。陰陽師をやってるんだ。妙理あの娘はオジサンの式神でね」

「陰陽師……って。あの陰陽師……ですか。結界とか式神の?」

 ――あたしもほんの少し調べたことがあるけど、陰陽師って平安時代の悪霊退治ゴーストバスターみたいな人たちで――とにかく日本の魔法使いみたいなもので……

 ――暁月さんの白服ならともかく、このスーツ姿で陰陽師?

「それだよ。九字を切り、祝詞を唱え、式神を飛ばす――時には鬼や悪霊を調伏する。そういう仕事さ」

「――」

 玉兎さんの口ぶりはあまりにも堂々としていた。

 それこそ冗談なのか、ホントなのか、わからなかった。

 そういうのがあってもおかしくないと常日頃から思っていたけど、――この未知との遭遇は唐突すぎた。

 困惑して何も言えなくなったあたしに玉兎さんはようやく最初の質問の答えを口にした。

「奏多ちゃんにもね。悪霊が憑いている可能性があった。だから遠瞳家に確かめにいったんだ」

「え……」

 それは、つまり……奏多ちゃんも殺されそうだったってことなんだろうか。

 その悪霊は人を自殺させる、らしい。

 どんな怨みで、どんな目的で自殺させるのかはわからないけど、とにかく人を殺してしまう。

 生きている者には対処することのできない、向こう側からの誘惑。

 ――死へと誘う青い蝶。

 波左間さんのせいで、あたしは一瞬だけ晴歌さんのことを頭によぎらせた。――けど。


「まぁ、その予想は外れてしまったワケだけどね」

 

 玉兎さんはその予想を否定してくれた。

 どこか皮肉めいた笑みで。

「憑かれたのはむしろ波左間京一の方でね。彼が遠瞳奏多と心中しようとしたのは蝶にとりつかれたことが大きいだろう――死にたくなったから道連れを必要としたのさ」

 さて、玉兎さんはそこで話を一区切りする。

 彼らの物語はもう十分だろう――しかし、まだ本題が残っている。そう言わんばかりの笑み。

 玉兎さんはあたしに指をつけつけた。

「そして――その現場に君がいた」

 それが一番の偶然で。それが一番おかしくてたまらない。

 玉兎さんはそんな風に笑っている。

 こんなあたしが巻き込まれてしまったのが、おもしろくて仕方ないというように。

「そして妙理は何を勘違いしたのか君に手を出してしまった。蝶はその隙にどこへなりとも逃げてしまったよ。残念なことにね」

 欠片も悔しくなさそうな顔で玉兎はそう言った。

 もう終わってしまった出来事を語るような――そんな他人事めいたニュアンスだった。

「事のあらましは以上だよ。何か質問はあるかな」

「……」

 質問と言われても、困る。

 玉兎さんが語った話はあまりにもあたしと住んでいた世界とかけ離れていて……

 麻薬……悪霊……青い蝶……陰陽師。

 それから――暁月妙理。

 普通だったら絶対信じないような話が、今日だけでたくさんあった。これまでの人生で経験した不思議な出来事よりも多いかもしれない。

 そんなとんでもない話に戸惑いつつも、なぜか腑に落ちる部分もあった。

 

 ――一つだけ。

 実感してしまったことがあったから。

 

 そのことを伝えるために、あたしは片手をあげた。

「あたしを襲ったの、暁月さんの勘違いじゃないと思います」

 あたしがそちらの世界に踏み込んでしまった瞬間があったとすれば、たぶん、あの時だ。

 あの青い蝶を見つけた瞬間だ。

「あたし、その蝶の夢を見ました」

 波左間さんの肩に止まっていて、そしてあたしの中にユルリと入り込んできた青い蝶。

 あの体験だけはこの世界の出来事だとはどうしても思えなかった。足下から世界が覆された――そんな感覚があった。

「悪霊は波左間さんからあたしに乗り移ろうとしたんだと思います。ほんの少しの間ですけど、そんな感覚があって」

「ふむ……それは詳しく聞かせてもらいたいな」

 ――詳しくと言われても、そんなに長い話じゃない。

 それにあの時は意識も曖昧で――だけどたしかに白昼夢のような蝶の夢を見たのだ。

「池の上を飛ぶ蝶を、すこし後ろの方から見ているような感じでした」

 その蝶は飛ぶのが苦手だった。 

 羽ばたくのが遅くて、いつも落ちてしまいそうだった。

 だから水面からのびる草に乗って休憩をとるのだ。

 でも、そうするとなぜかその水草はすぐに腐ってしまう。そうして蝶はしかたなく、また飛び上がる。

「それでまた別な所にとまって――そんなことをずっと繰り返す夢だったんです」

 短い夢の内容はそれでほとんどすべてだった。

「飛んでいるだけなんです。蝶はずっとずっとどこに行けばいいのかわからないみたいで」

 ――きっとどこにも行けないで飛びづけていた。

 だから終わりがなかった。

 池の向こう側も視えないまま、蝶はつたない羽ばたきのまま飛んでいた。

 ずっと。ずっと。

「それがとても哀しい、と。あたしがそう思った時に目を覚ましましたんです」

 玉兎さんはあたしの話を黙って聞いていた。

 この陰陽師を名乗るこの人が何を知って、何を考えているのかは知らないけど――あたしにはわからない何かをこの夢から導きだしているのかもしれなかった。

「その……とにかく。目を覚ましたら蝶もいなくなっていて――それで」

 それで。

 長いようで短い白昼夢の終わりに、暁月妙理カノジョが後ろに立っていた。

 

 ――その瞬間に聞こえた『ごめんなさい』という言葉。

 

 その時に耳に届いたコトバが――どんな音声こえだったのかもわからないのに、やけに脳裏に焼き付いている。

 あたしの話を聞いて、玉兎さんは得心いったというように頷いた。

「……それで蝶は君から離れたワケか。なるほど納得だ。君が見た夢は、まぁ要するに悪霊の未練を覗き見た――程度に思っていればいい」

 玉兎さんはそれだけ言って、少し俯き、独りでに何かを思案し始める。

「――死に羨望を抱かない視点を得て、自己を省みてしまった。それ故に罪の重さに気が付いたということか。それはまたあの子にとってちょうどいい劇薬だろうが」

 あたしにはその言葉の意味もわからなかった。

 意味がわからず、けれど、それを語る玉兎さんに何か薄ら寒いものを感じていた。

 その視線に気付いてか。

 玉兎さんは表情を緩ませる。――どこか憂いをおびた笑みだった。

 

「――青い蝶はね。最初はだったんだ」

 

 それはもしかしたらあたしが見た蝶の夢の――もっと前の物語。

 蝶がなんで人をとり憑いてしまうようになってしまったのか。その原因なのかもしれなかった。

「しかし、先を飛んでいた半身かたわれは亡くなってしまった。だから残された蝶は何者も目指せなくなった。本当に成りたかったモノを見失ってしまったから。永遠に空を彷徨い続けるしかなかったんだ」

 その言葉にどんな意味があるのかを、玉兎さんはそれ以上は語らなかった。

 なぜか、あたしもそれ以上を聞く気持ちにはなれなかった。

 ――いつのまにか、何が悔しいのか自分でもわからないまま手を強く握り締めていた。

 その時のあたしは、悔しい、と感じていたのだ。

「――」

 そうして手元に目をやった時、気付く。

 暁月さんが出してくれたお茶の事を忘れていた。

 すっかり冷め切ったお茶で、喉を潤す。――少しだけ落ち着いた。

「その蝶が逃げたってことは……事件はまだ続くんですか」

 あたしの問いかけに玉兎さんは手をヒラヒラと振った。

「いいや、それはないね。君のおかげで予測が確信に変わった」

 そう返した時に、玉兎さんはもうこの話題から興味を失っているようだった。

 玉兎さんは手元にあった資料を――晴歌さんについて書かれた紙を――一枚だけちぎって折り始める。

 できたのは簡素で不出来な、紙ヒコーキだった。

 

「蝶はいずれ自らの罪過おもみに堪えかねて堕ちる。それでこの事件は一件落着だよ」

 

 玉兎さんがそれを投げる。

 紙ヒコーキはデスク横のゴミ箱を目指して、ゆっくりと飛行して。


 ――結局、目指した場所に届かず墜落した。

 

 

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