/10 「■■は■■ない」
警察署を出た時には、もう太陽はとっくの昔に沈みきっていた。
まるで現実感のない話だけど――あたしたちは事件の第一発見者になっていた。
大学を抜け出した後――矢島先生の車に乗せられて、あたしたちは椚木さんの家に向かった。けれど、あたしたちが辿りついた時、すべては終わっていた。
あたしと霧子と禀。そして、遅れて階段を駆け上がってくる矢島先生。ドアを開けて、廊下を抜けるとそこには寄り添うようにして眠る御手洗さんと椚木さんの姿があった。
――紅潮する頬。濡れ光る唇。
その姿が鮮明に脳裏に焼き付いている。
薄暗い部屋の中で、二人は死んでいた。
最初は眠っているようにしか見えなかった。だけど、声をかけても、ゆすって動かしても、彼女たちは目を覚まさなかった。
身体はまだ暖かくて、見た目は生きている時と何も変わらないはずなのに、ただ息をしていなかった。――そう理解した時からの記憶はあまりはっきりしていない。
気が付けば、あたしは警察署で事情聴取を受けていた。
あの場にいた全員の事情聴取が終わった後、あたしたち学生三人は矢島先生に送られて帰路についた。
霧子と禀をそれぞれ送り届けて、最後に車の中には矢島先生とあたしだけが残った。
「……今日明日はゆっくり休めや。講義なんざ休んでもええから」
あたしをアパート前でおろして、矢島先生は霧子たちにも話していたことをもう一度口にする。
「はい。すいません……」
それだけ返して、あたしも車から降りる。そうして、ほとんど意識も曖昧なまま自室へと戻った。
部屋に入り、そのままベッドに倒れこむ。
一刻も早く、意識を失ってしまいたかった。
「……」
だけど、求めている暗闇は訪れてくれる気配もない。
頭の中には処理しきれない――したくない現実が延々と渦を巻いているのだ。
御手洗さんと椚木さんが自殺した。
練炭自殺だった。
二人がどんなことを語り合って、どんな結論に至ったのか。どんな想いで抱き合って死んだのか。部外者であるあたしには何一つわからなかった。想像することもできなかった。
あたしは御手洗さんと最後にした会話も覚えている。椚木さんとも一緒に買い物にいったことがある。
ここ数週間、普通に日常に生きていたはずの彼女たち。そして眠るように死んでいった彼女たち。それが、どうしても連続しているように感じられなかった。
どうすれば良かったのか。まるでわからなかった。
完全な不意打ち。
結局、あたしは一連の自殺事件は自分たちとは深く関係がないと、心のどこかで思い込んでいたのだ。――そんな訳はないのに。もう何人も、あたしのすぐ近くで亡くなっているというのに。
――そういえば、警察官の人がヘンなことを言っていた。
あたしたちが椚木さんの部屋のドアを開けた時、部屋に鍵はかかっていなくて、すんなりと中に入れることができた。
その時は気にもならなかったけど、警察の人の話ではその時にはすでに鍵は壊されていたというのだ。廊下からリビングにつながるドアもガムテープによる目張りが剥がされた痕跡があったとか。
つまり誰かがあたしたちよりも早くあの部屋にはいっていた形跡があったという事だ。
――いったい誰が?
今日、椚木さんの部屋へ駆けつけたのはあたしたち三人が最初のはずだった。
二人の姿を見て、混乱したあたしたちが先生に部屋から追い出された後、警察が来るまで誰も部屋の中には入っていないはずだ。
寝返りをうって、天井を見上げる。
心当たりは一人だけ。
「暁月……妙理……」
警察の人と話していた時はいっぱいいっぱいで思い出せなかったけど、あの場所には暁月さんが先に来ていたのもしれない。
大学から椚木さんの家まで車で5分。普通に考えれば、あたしたちが彼女を追い越している可能性の方が高いはず。
だけど事実として、あたしたちがいる間に暁月さんがあの部屋に来ることはなかった。
――なんで?
この瞬間まで意識していなかった疑問が不意に湧き上がる。
暁月さんはなんであの時、あんなに急いでいたのか。
御手洗さんと椚木さんを助けにいってくれたのなら、なんであたしたちが行った時にはいなかったのか。
暗い渦のようなものだけがあたしの心を埋め尽くす中、どうしてか、ある想像だけはしっくりきてしまう。
――二人の死体を見下ろす暁月さんの姿。
自分が混乱しているのはわかっているけど――どうしても、そんな想像が消えてくれない。
「……電話してみようかな」
何があったのか、聞いておいた方がいいのかもしれない。
彼女も事件に関わっているかもしれないなら、警察の人とちゃんと話さないとダメなはずだ――そう自分に言い訳して、身体を起こす。
そして財布の中から一枚の名刺を取り出した。それは一週間ほど前に矢島先生からもらったものだ。
書かれた名前は――穀雨玉兎。
矢島先生の話ではこの男性(ひと)は暁月さんの親戚のおじさんで、今は一緒に住んでいるという話だった。
この電話番号に連絡すれば暁月さんにも連絡をとることができるはず。
番号を入力して、相手が出るのを待つ。
「――」
……でない。
「……」
何回かのコール。
やっぱり、やめようかと思った時、狙いすましたかのように繋がった。
『はい。骨董屋・葛ノ葉です』
電話口に現れたのは男性だった。その大人びた声から、例のおじさんだと察する。年齢は……30代くらいだろうか。
「あの、あたしは一条巡と言います。暁月さんと同じ大学で勉強してる学生です。――暁月……いえ、妙理さんいらっしゃいますか」
『それは丁寧にどうも。穀雨玉兎です』
あたしの名乗りに対して、向こう側からわずかに漏れる吐息。微笑んだような気配だった。
『けれど申し訳ないね。ウチのはまだ帰ってきていないんだ。もしかしたら、今夜は戻らないかもしれない。……何かあったのかな?』
「その。実は……」
そこであたしは止まってしまった。
今更だけど、今日の出来事を本当にこの人に話してしまっていいものなのか判断がつかなかったからだ。
あの時の光景を――あの二人の姿を話したら、あたしはきっと色々なものが抑えられなくなってしまう。
直接関係のない暁月さんの親戚に迷惑をかけるのはよくないことに違いなかった。それが判断できるくらいの理性は、かろうじて残っていた。
「いないのなら……その。妙理さんにあたしから連絡があったとお伝えください」
結局、あたしは親戚の玉兎さんに連絡先を教えるだけして、電話を切った。
「ほんと、何してんだろ。あたし」
呟いて――もう一度、ベッドに倒れこんだ。
結局、眠れたのは空が明るくなり始めた頃だった。
***
奏多ちゃんが家からいなくなったという連絡が届いたのは、翌日の午後の事だった。
***
その夜――どこかの誰かが7番目と8番目の自殺者となった夜――遠瞳奏多はひどい倦怠感と共に目を覚ました。
全身から嫌な汗が流れ、まるで風邪でもひいた時のような寒気と熱気が同居した感覚に支配されていた。
それほど熱があるわけではない。身体はいつかと同じようにひどく冷え切っていて、その代わり心臓だけがやたらと早鐘を打っていた。
――何か悪い夢を見ていたような気がする。
奏多はその辺りを思い返そうとしたが、夢は夢。どうしたって、雲のように掴みどころがない。
身体を起こして、時刻を確認する。
夜の9時。
午後のちょっとした休憩のつもりが随分と寝過ごしてしまったようだ。
普段の奏多ならこんな失態はおかしたりはしない。最近、色々なことがあって疲れがたまっているのかもしれなかった。
本当なら今日は夕方から家庭教師の日だった。
けれど、中止にしたいというメールがあって、それもなくなった。電話もできないほど忙しいらしく。――その緊張が伝わるほどに文面には余裕がなかった。
先生に会えないのは残念だったけど、我が儘を言っていいはずもない。母親にしても今日は出張があるので朝から隣の県に出かけている。今日戻れるかはわからないと言っていた。
だから今夜は独りきり。
奏多は部屋の明かりも点けず、ベッドに腰をかける。
――少し夜風にあたってみようと思った。
窓を開けて風を感じる。
花壇のラベンダーが小さく揺れていた。鮮やかな紫色はこの薄明かりの中でもキレイに映えた
季節は春。近くの公園にでも行けば、そろそろ桜の花だって見られるかもしれない。
そう思うと奏多の顔には自然と微笑みが浮かぶ。
その微笑みに応えるように――また視線を感じた。
張り付くようでいて、湿っていて、撫で回すような視線。
見られている。
じっと。
奏多は恐怖のままに、その視線の主を探した。
そうして、誰もいるはずもない庭に人影が立っていることに気がついた。
「こんばんは」
男性にしては少し線の細い、高めの声。
眼鏡をかけて、優しげな表情を浮かべる小柄な男性。
「あの……どうして?」
そう声をかけたのは、その男性が恐しかったからではなく――知っている男性(ひと)だったから。
どうしてこんな時間に急に表れたのか、という単純な疑問だった。
奏多の問いに柔和な笑みで応える。奏多もよく知っている、優しく諭すような表情で。
「君が帰ってくるのを待っていたんだよ」
その言葉は状況に不釣り合いなほど自然で。その時になってようやく奏多は正常な恐怖を抱いて、身をすくませた。
間違いない。
男が見ているのは奏多ではない。
その視線は、遠瞳奏多に向けられたものではなく――
「今更、奏多ちゃんに遠慮しなくてもいいだろう?」
言葉を返す暇もなかった――伸ばされた男の手が奏多の身体を強引に抱き寄せる。まるで恋人にするように情熱的に。
「思い出すんだ。僕たちのことを」
口元を押さえ込まれると共にが奏多の鼻腔がくすぐられる。
男が着る衣服の全体から、煙った匂いが流れでていた。
甘く、焦げるような草の匂い。
これもまた、よく知っている匂い。
なんといっても、いつも使っている――
――お姉ちゃんの?
そう気付いた時にはもう、足元から感覚が消えていた。記憶は断絶して、感覚は遊離する。
男性が何か甘い言葉を囁いたのだが、聞き取れない。音や光よりも、より強い匂いの情報だけがやたら脳に刺激を送る。
意識はゆらゆらと浮遊して。
それでも最後に、意識が途切れる刹那に――奏多は自分を抱き抱えるその男性に疑問を投げかけた。
「どう……して?……セン、セイ……」
奏多を抱き抱えていた男性の足が止まる。
「■■は■■ない」
表情を曇らせ、男性は何か言葉を返したのだが――奏多がその言葉を正確に捉えることはできなかった。
この時にはもう、奏多の意識と呼べるものは欠片ほどしか残っていなかったから。
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