【 第三章 ③ 】
周囲にどよめきが走った。主役であるロジィとまったく〈同じ顔〉の姫君が、突如として乱入したからだ。
真珠やダイヤモンドなどの宝石がふんだんに縫いとめられた、目にも鮮やかな深紅のローブ。
深く開いたデコルテは大ぶりの雫型ダイヤモンドを中心とした幅広のネックレスで飾られ、耳にはネックレスと同じ意匠のイヤリングが揺れる。
たっぷり重ねられたジュップはごく淡い桃色で、金糸で細かな格子模様の縫い取りがされていた。糸が交差する部分には極小のダイヤモンドが縫い付けてあるので、よく光る。
肘までの手袋は上質の白絹だ。手袋の上から着けているブレスレットは、小さなルビーがアクセントになっている三連の真珠。
栗色の髪はすっきりと結い上げてある。耳の後ろの毛を左右一房ずつ、巻き毛を作って首筋に垂らすのが彼女のお気に入りだ。
髪型の仕上げは小さめのティアラ。ルビーとダイヤモンド、無数の真珠で飾り立てられた豪華なものだが、王弟妃としての正式な宝冠とは異なっている。私的な場面で着用するティアラなのだろう。
「これはこれは。ベリエ公妃。姉姫の婚約を祝しに、わざわざご出席なさるとは、麗しいまでもの姉妹愛でいらっしゃる」
フィリップは簡単な所作でレティにお辞儀をした。王弟の妃に国王が過度な敬意を払う必要はないわけで、素っ気なくも見える態度は国王の威厳を知らしめるのに適している。
だが、その他大勢の貴婦人と同等に扱われたことを、レティは不服に感じたようだった。
つんと顎をそびやかし、自分から右手をフィリップへ突き出した。挨拶せよ、という無言の要求だ。
固唾を呑んで成り行きを見守っていた貴族たちが、驚愕の呻き声を漏らす。
ルガール王后が不在の今、王弟妃が宮廷第一の貴婦人なのは事実。しかし、たとえ王妃であっても、国王に挨拶を求めることは非礼とされるのに。
「わたしはルガールの王弟妃ですよ。そのわたしに、姉の縁談がまったく報告されなかったのはどうしてなんです」
フィリップはレティの不敬を咎めることなく、寛容な態度で彼女の手を取った。
挨拶を終えると、フィリップは視線を転じて宮廷楽団に合図を送る。円舞曲が優雅な旋律を奏で、音色に誘われるように、貴族たちはおのおので踊り始めた。
口さがない宮廷雀たちの視線を自分たちから切り離してから、フィリップはレティの質問に答えるべく、にこやかに口を開く。
「第一に、アルティノワ公の婚姻をベリエ公に報告する義務はありません」
貴族の結婚は国王の管理下に置かれるべきだが、ベリエ公は王弟の身分に過ぎない。話が素通りするのは道理だ。
「したがって、配偶者であられるベリエ公妃にも、お伝えする必要性は生じません」
「……ッ」
面と向かって部外者だと宣言され、レティの頬が紅く染まった。屈辱か、怒りか。若葉色の瞳にも燃えるような輝きが宿り、さながら狩人と相対する狼のようだ。
「第二に、ラルデニア伯家に使者を送り、筆頭女子相続人ローゼリア・ブランシュ姫をアルティノワ公の妃に迎え入れる旨の申し入れは完了しています」
「…………」
「そして、ベリエ公妃は白薔薇姫の妹君です。妹姫への縁談を姉姫に申し入れる例はありますが、その逆はありません」
レティがルガールで第一の貴婦人であっても、生家におけるロジィとの関係性は、ただの姉妹。姉を妹より重く扱うのは「年長者を敬え」とするリジオン教の教義にも適っている。
「以上の理由から、ベリエ公妃にラルデニア伯女の婚約をご報告する義務はないと判断しましたが、いかがですか」
「陛下から報告がないのは、まあ、当然でしょう。それなりの理由もあるようですし。……でも!」
そこで言葉を句切ると、レティはくるりと身体の向きを変えて、ロジィの正面に立った。
いつもはロジィより色味が薄いと評される若葉色の瞳が、滴るような濃い緑に変わっている。レティの瞳が色を増すのは、彼女の感情が波立っている証。
「お姉さまから、私的に、わたしへ報告があってもよかったんじゃないかしら」
挑むように睨みつけられて、ロジィはおろおろと視線を彷徨わせる。
不本意ながらベリエ公の寝室へ赴いた一件以来、ロジィはレティと没交渉だった。メルヴェイユ宮殿で滞在することが決まってからも、会いに行くことはなかった。
怖かったのだ。
ベリエ公の口から、レティの本心を聞かされて。けれど、それを確かめる勇気がロジィになかった。
ベリエ公の虚言だったなら、まだいい。――――真実だったら?
最愛の妹から憎まれている。
その事実を、どうやって昇華すればいいのか分からない。受け入れることができない。
自分がいるだけで
「わたしは、お姉さまのことを大切に思っているけど、お姉さまはそうでもないのかしら」
「――……」
違う。
今でも大切な妹だと思っている。愛している。
……そう、答えたいのに。あの日。ナイフを手にミミを脅しつけていたレティの姿が脳裏に蘇って、声が出せない。――――レティは、本当は。
ミミではなく、わたしに、あのナイフを向けたかったのではないかと思ってしまうから。
「何を仰るかと思えば」
ロジィの視界が淡緑色に染まった。アルティノワ公が、ぶつかり合う姉妹の視線を断ち切るかのように、ロジィの前に移動したのだ。
アルティノワ公の真後ろに立つ形になったので、上着の背に施されている刺繍の模様がよく見える。ルガール王室の紋章〈
ルガール王族であり、アルティノワ公領の統治者であることを、見る者に一目で分からせる。
「我が婚約者殿は妹姫をことのほか愛おしんでおられます。少々、妬けるほどに」
歌うような口調でアルティノワ公は言った。ロジィは、彼の背後で目を丸くする。
アルティノワ公とレティについて語り合ったことは一度もない。それなのに、なぜ、そこまで訳知り顔で答えているのだろうか……。
「じゃあ、どうして、お姉さまは報告に来なかったのかしら?」
「できるはずがないでしょう」
アルティノワ公はロジィを背に隠したまま、喉を震わせるような笑い声を立てた。
「この婚約が陛下より正式に命じられたのは三日前です。昨日の婚約式のため、私たちはたった一日で支度しなければなりませんでした」
それは誇張ではなく事実だった。
突然の王命を伝えられた驚きに浸る暇もなく、実家から「王家に嫁げ」という手紙が届けられ、とどめに婚約式が翌日だと急かされて驚く気力も失った。
ロジィの与り知らないところで、国王は各方面へ婚姻の根回しをしていたというのだ。
どうやら、ロジィのメルヴェイユ宮殿への滞在が許されたあたりから、フィリップはラルデニア伯家と南方諸侯の双方に働きかけていたらしい。
頑迷な南方諸侯を納得させる切り札となったのは〈アルティノワ公〉だった。
ルガールの王位継承権を持たないアルティノワ公が相手ならば、将来、ラルデニア領がルガール王室に併呑される可能性は限りなく低い。
そして、ロジィとベリエ公との婚約時に取り交わされた約定を、アルティノワ公との結婚でも適用するとルガール王が約束したことも大きかった。
ローゼリアの血を引いた王族に伯家を必ず再興させ、王室の分家として独立させる――という。
これにより、ラルデニアを含むルガール南部の独立性は保たれ、一方で、ルガール王家に南部の血脈を入れることができる。南方諸侯にとっては一石二鳥なので、とにかく婚姻を急ぐようにと、逆にルガール王へ申し入れがなされたという。
こうした政治的事情も絡み、ロジィとアルティノワ公の婚姻は異例の早さで成立する運びとなった。
だが、準備期間があまりにも短かったので支度が間に合わない。そのため結婚式を先送りにして、縁組みの既成事実を周知する〈婚約式〉にした、という裏事情もあった。
懇切丁寧に説明したアルティノワ公に、レティはうんざりした表情で溜め息を落とした。
「忙しかったのはわかってるわ。でも、女官を介して伝えてくるとか、いろいろ方法は……」
「必要ですか」
アルティノワ公の口調には不思議な抑揚がある。韻律にも似た独特の語り口で、聞いている者は自然と、彼の言葉に耳を傾けてしまうのだ。
「ベリエ公妃に対して報告の義務がないことは、陛下が仰せられたとおりです」
それとも理解されていないのですか……?
柔和なアルティノワ公の声音が一変して、あからさまに棘を含んだものに変わる。
昔から、自分へ向けられる悪意に敏感なレティは、すかさず言い返した。
「義務はないとか、必要性がないとか。アルティノワ公は石みたいに偏屈ね。そんな面倒くさいことばっかり言って、あっという間に頑固ジジイになっても知らないわ」
「婚姻前の忙しい時期に挨拶に来いなどと、子供のようなわがままを仰る方よりは、ましでしょう」
「なによそれ。わたしが子供だって言いたいわけ!?」
「ベリエ公妃のこととは一言も。……しかし、ご自覚がおありなのでしたら、そうなのでしょう」
――――このままふたりを放置したら国王の御前で派手な口論が勃発する。
ロジィは、ひとつ息を吐いた。レティが自分を憎んでいるかもしれない……そのことに向き合うことへの怖さはあるけれど。
誰が相手であっても物怖じせずに主張するレティは、嫌いになりきれない可愛い妹なのだから。
「すぐに伺わなかったことをお詫び申し上げます、
肩越しに振り返ったアルティノワ公に、ロジィは軽く目礼する。レティの暴言に対する詫びだ。
「もう、レティって呼んでって言ってるのに、お姉さまったら」
アルティノワ公を押しのけるようにしてロジィの前に立ち、親しげに手を握ってくる態度は子供の頃と変わらない。
あの日、ベリエ公の寝室に向かえとロジィを脅した姿は、幻だったのではないかと思えてくるほど。
「ね、お姉さま。向こうで少しお話ししましょ?」
けれど、こちらを覗き込んでくる若葉色の瞳には、苛立ったような感情が透けて見える。
あの日と同じ、ロジィへの敵意が見え隠れした眼差し。
ベリエ公の言葉が真実であるならば、レティはラルデニアの相続権を欲していた。
だが、ロジィとアルティノワ公の婚姻を南方諸侯が承認したため、相続権はローゼリアに帰属することが決定的となった。永遠に。
――――レティに憎まれても当然だわ。
一度は俗世を離れ、レティに相続権を委譲しようと考えたのに、結局ロジィは現状を維持してしまった。手にした権利を棄てられなかったロジィが、欲深かったのだ。
「ベリエ公妃。我が婚約者殿はこの場の主役。どちらへお連れになるのですか」
アルティノワ公の手がロジィの腰に添えられた。骨張った指が、ぐっと脇腹に食い込む。殿方と不意に密着する形になって、ロジィは目を泳がせた。恥ずかしかった。
レティとベリエ公の睦まじい語らいを耳にすることには慣れたが、それが我が身に降りかかるとは思っていなかったから。
「向こうでお喋りするのよ。ここじゃ音がうるさくて、ゆっくり話せないもの」
「
「あら。ルガールの王宮はそこまで警備不足なの?」
ふたりが、一歩も譲らない気迫を出して、ぎりぎりと睨み合う。
自分の主張を容れてくれない相手に対してレティが辛辣なのはいつものこと。だが、彼女と初対面であるはずのアルティノワ公までもが、冷ややかな態度を取るのはなぜなのか。
婚姻が成立すれば、彼らは〈義兄〉と〈義妹〉になる間柄だというのに、今からこれでは先が思いやられる。どうしたものかと視線を転じ、流れてくる音楽に助けを得た。
「マダム、お気づきですか。〈イリスの乙女〉が奏でられています」
「本当だわ。懐かしいわね」
この曲はラルデニアの民俗舞踊で、
だが、ルガール宮廷は格式を重んじるので、宮廷楽団が辺境の人気曲を奏でることはなかった。祝賀会の主役であるロジィのため、フィリップが楽団に命じたのだろう。
「陛下のご高配に感謝申し上げます」
レティとアルティノワ公が言葉で鍔迫り合いを始めたあたりから、玉座に腰を下ろして成り行きを見物していたフィリップは、ロジィの謝意に軽い頷きで応えた。押しつけがましくない気配りを示すのはフィリップの美徳だ。
「踊りながらでしたら距離も近く、音楽があっても会話ができるでしょう。大広間から出なければ、閣下にご心配をお掛けすることもないかと」
アルティノワ公は、わかりやすく落ち込んだ表情を見せた。
顔を合わせて数日だが、あまり表情を変えない人だと思っていたから珍しい。どうかしたのかと小首を傾げたら。
「……今宵、我が婚約者殿と一番に踊るのは私だと、心待ちにしていたのですが」
「あ」
すっかり忘れていた。この場はロジィとアルティノワ公との婚約披露が目的。
婚約者同士が一番にダンスをしないで、何が披露か。
アルティノワ公は、飼い主に見捨てられた犬のように、人間離れした美貌を曇らせている。慌てて彼の手を取ろうと思ったのだが、伸ばした手はレティに攫われた。
「お姉さまに一番愛されているのは、わたしだもの。最初のダンスは、わたしに決まってるじゃない」
ふふんと勝ち誇ったように不敵な笑みを浮かべたレティに手を引かれ、ロジィは大広間の中央へ進むしかなかった。
「振られたな、ジュスト」
くすくすと聞こえてくる笑い声。いつもなら睨み返すくらいのことはするのだが、今のジュストは婚約者から目を離すわけにはいかなかった。
言葉巧みに姉を連れ出した王弟妃が、踊りの途中でローゼリアを害さないという保証はない。軽快な音楽に合わせて動き回るふたりを、ジュストは無表情の仮面を着けて、目で追った。
お転婆な王弟妃の踊り方は快活だが、優美さに欠ける。一方のローゼリアは、王弟妃ほど軽やかな動きではなかったが、ひとつひとつの所作が丁寧で美しい。
値踏みするようにふたりのダンスを見ている貴族たちも、同じ感想を抱いたようだった。
最初は、派手な動きで踊る王弟妃に目が行く。だが、だんだんと目が慣れてくると、型を崩さない正確な動きをするローゼリアに、いつの間にか視線を奪われているのだ。
「で、結婚式はいつになるの」
踊っているローゼリアたちから視線を外さないまま、ジュストは言葉だけをフィリップに投げた。
「待ちきれないのか」
からかうような返答に感情を逆なでされて、ジュストは冷ややかな声で応じる。
「準備があるからだよ。誰かさんのせいで今回は、たった一日しかなかったからね。……姫がかわいそうだった」
婚約式に着用するローブについては、手持ちのローブに宝石を縫い足すことで盛装の体裁を整えたらしいが、式典用の
昨日と、今日。ローゼリアの身を飾っているパリュールは、アルティノワ公家伝来の品だ。婚約式では実家の宝飾品を身に着けるのがルガールの伝統なのだが、この際は致し方なかった。
「こちらの根回しが終われば、いつでも構わない」
「その根回しがいつ頃終わりそうなのかって訊いてる」
「さあ。それはどうだろうな。交渉は相手があることだから予測が立てづらい」
ペアの踊りがひとまず終わり、大人数で輪を作る踊りに変化した。踊りの終盤なのだろう。ローゼリアの手が王弟妃から離れ、ふたりの距離も遠ざかる。
(危険はない、か)
ローゼリアの左右を取り囲んだのが、政治的にも物理的にも無害な貴婦人たちであることを確認して、ジュストは視線をフィリップに移した。
「まさか、明日、ってことはあるの?」
「明後日の可能性はあるが、一年後のこともあるぞ」
煙に巻いた言い方をするに留めて、フィリップは口を閉ざした。
根回しとやらが具体的に何を意味しているのか、彼はジュストに教えようとしないのだ。フィリップの政略に巻き込まれている自分には、詳細な報告があってしかるべきだと思うのだが。
(そういうところ、フィルは徹底してるからな)
一度〈国王〉の顔をすると、たとえジュストが弟分だとしても、立ち入らせない領域を守る。
これまでは、彼のそうした部分を好意的に受け止めていたが、今回ばかりは事情が異なる。巻き込まれているのはジュストだけではない。
「中途半端な状態で姫を縛り付けるんだ」
「おまえとローゼリア姫との婚姻は決定事項だ。猶予期間が不確定であることに問題があるのか?」
ローゼリアへの気配りが頭から抜け落ちているフィリップに、ジュストは呆れ果てた眼差しを向ける。
「妃と婚約者では立場が違うだろ」
婚姻が成立して王族譜に名前が載ればローゼリアも受け入れるだろうが、現状は曖昧だ。
今回の〈婚約〉は、挙式が間に合わないための救済措置なので「婚約者すなわち妃と同義とする」旨の王命が下されているが、やはり正式には〈アルティノワ公婚約者〉と称される。
妃に見なすことと妃そのものであることは異なるわけで、先ほどのタブレの一件がいい例だとジュストは思っていた。
「婚約者のままだと真面目な姫が無駄に気を遣う。疲れさせる。不憫」
畳みかけるように言い募ると、フィリップは喉の奥でクククと笑った。何がおかしいのかと目を細めると、椅子の肘掛けに頬杖をついた行儀悪い姿勢でジュストを見上げてくる。
「姫にかこつけないで正直に言ったらどうだ。早く結婚式を挙げたいと」
「なんの話?」
「生殺しなのがつらいんだろう」
優雅で偉大なルガール国王が話題にする内容とは思えない。
ジュストは、眼差しを氷刃に変えた。
「下卑た話に持っていかないで」
軽蔑を絵に描いたような声音で非難しても、フィリップは笑顔を崩さない。
「違うのか? 姫が私を見つめるのが気に入らないと言っていただろう」
「フィルが姫にちょっかい出すのが嫌だっただけ」
「ローゼリア姫との結婚は望んでいないと?」
「この結婚は〈王命〉だろ」
結婚を望むとか、望まないとか。そういうことは取り上げる議題にもならない。たとえ相手が産まれたばかりの赤ん坊だったとしても、それが王命なら従うのみなのだ。
「姫を娶ることが嬉しくないのか?」
「無意味な質問をするね」
フィリップは、ジュストが〈アルティノワ公〉に戻ることがルガール王の〈利〉になると言った。
ルガールにとってラルデニアは重要な土地だ。穏便に併呑するには、王族の誰かに将来のラルデニア女伯を娶らせるのが手っ取り早い。候補として最適なのは自分だった。――――そういうことに過ぎないと、ジュストは理解している。……だから。
「王命に臣下の感情は不要でしょ」
ジュストの返答に、フィリップはしばらく沈黙していた。踊っているローゼリアを見つめたまま動かないので、返答を待つのに飽きたジュストも彼女へ視線を向ける。
ローゼリアは、緩やかな円舞曲は無難に踊れるが、軽快なステップを必要とする舞踏は苦手のようだった。それと対照的なのが王弟妃だ。水を得た魚のように、輪の中心で喝采を集めている。
「……確かに、おまえが言うようにこの婚姻は王命だ」
ぽつりとフィリップの呟きが落ちる。ジュストは何も言わず、耳だけを傾けた。
「ならば、王命で破談になっても哀しくないのか?」
「姫の名誉を二度も汚すつもり?」
ジュストは目を剥いた。一度ならず二度までも結婚が白紙になったら、ローゼリアはどれだけ傷つくだろう。……しかも、そのどちらも〈ルガール王家の都合〉なのだ。
そんな身勝手で理不尽な仕打ちをローゼリアにするつもりか……?
「むろん、仮定の話だよ。私は〈王〉だからな。そうした選択をする場合もある。……そのとき、おまえはどうする」
フィリップの榛色の瞳は穏やかだった。意地悪を言っているわけではなく、ただ考えられる可能性を示しているだけ。
(……そう。フィルは〈王〉だ)
ローゼリアの名誉や都合より、ルガールの国益を優先するのは道理。そして、ジュストはルガール王の臣下だ。「姫がかわいそうだから」という感情論で王を非難することは赦されない。
――けれど。フィリップが「仮定の話」として質問するならば、こちらも仮定で返そう。
「そうなったら、ラルデニア伯家に婿入りするのもいいね」
「ルガール王室を棄てるのか」
その言葉にジュストは、少し意地悪く笑った。……棄てる、ね。
「ルガールは最初から俺を必要としてないでしょ?」
王位継承権を持たない王族――それは、王家にいる場合は肩身が狭いものだが、他家の爵位を嗣ぐという点においては優位に働く。
ルガール王室が家系の乗っ取りを企んでいるのではないか、という疑いを抱かれにくくなるからだ。
不要の存在という烙印を逆手に取る日が来ようとは、幼い頃は想像もしていなかった。
「王命に背いてローゼリア姫を娶ると?」
「それで姫を守れるなら」
麗しき貴婦人に心を捧げるのは騎士道の伝統だ。「二度も婚約破棄された姫」という不名誉からローゼリアを守るためなら、王族の身分を棄てても悔いはない。
あくまでも「仮定の話」だが、偽らざる本心でもある。きっぱり言い切ると、フィリップはどこか安堵したような笑みを浮かべた。
「そうか。それを聞いて安心したよ、ジュスト」
王命に背く、という言葉のどこにフィリップが安心する要素があったのか、さっぱり理解できないのだが。――納得してくれたのなら、まあ、いいか。
「破談を命じることはないから心配しなくていいぞ」
「そこは信頼してる。南方諸侯を黙らせておいて破談なんて、そこまで馬鹿なことをする王様だとは思ってないから」
「ああ。大切な弟に幸福を届けるためなら、南方諸侯を説得するくらい容易いことだ」
……ん?
ジュストは、まじまじとフィリップの顔を見た。どうした、と、無駄に笑顔を振りまいてくれる国王に、ジュストは慎重な声で問いかける。
「この結婚は俺の幸福?」
「私はそのつもりだよ」
「…………」
王族の婚姻は愛情より利害。顔も知らずに挙式することもある。
それらの例に比べれば、容貌も性格も、ある程度は知った上で婚約できたことは、幸いと言っていい。……しかし。ジュストは渋面を作った。
――――婚姻による幸福を考慮する相手はジュストだけなのか?
「俺と結婚することが、必ずしも姫にとっての幸福に繋がるとは限らないけど」
「私がローゼリア姫の幸福まで考える必要はないだろう。――姫を幸せにするのは、おまえの役目だ」
そうだろう? と、榛の瞳が悪戯っぽく細められる。
なんだか一本取られた気分になって、ジュストはフィリップから視線を逸らした。
姫の幸せ。
それは果たして、どのようなものを指すのだろう。
宮廷では、法的な配偶者以外に恋人を持つことが嗜みであり、常識とされる。伴侶だけに誠実な愛情を捧げている夫婦を見つけることのほうが難しい。
だが、ローゼリアが生まれ育ったラルデニアは、リジオン教を敬虔に信仰していることで知られていた。
(俺が愛人を作らなければ幸せか? ……作る気はさらさらないけど)
ジュストが生涯、ローゼリアだけに向き合っていれば、それで彼女は〈幸せ〉になるだろうか。
自分にとってのローゼリアは、守りたいと思えるほどには好感の持てる姫君だ。
けれど、姫にとっての自分は、どうなのだろう。
対面してわずか三日。打ち解けるにはほど遠くて、彼女の態度はどこかよそよそしい。せめて、ベルローズに向けていた微笑みくらいは、見せて欲しいところなのだが――。
(……ん?)
舞曲が終わり、踊りの輪に加わっていた人々が、それぞれ散っていく。
ローゼリアもこちらへ戻ってこようとして、王弟妃がまとわりつくように、姫の腕に自分の腕を絡めた。
王弟妃が何事かをローゼリアに囁き、姫の眉が困ったように寄る。姫の返事に軽い調子で頷いた王弟妃は、さらに何かを続けて囁いた。驚いた表情を浮かべたローゼリアに、王弟妃は熱心な様子で喋り続ける。
寄り添い合う美麗な姉妹というのは、絵筆を執りたくなるような美しい光景だ。他者の粗探しが生き甲斐の宮廷貴族たちも微笑ましそうにふたりを見守っていた。
ジュストも、ローゼリアを迎えに行くべきか、語らいの邪魔をしないように待つべきか、少し迷う。
ジュストが見つめる先で、ローゼリアがレティに何かを告げ、足を止めた。
王弟妃もその場で立ち止まり、しばらく言葉を交わしていたが、やがて強張った表情をしている姫に艶然と微笑んで、何事かを告げる。
その瞬間、ローゼリアの顔から完全に表情が消えた。
――――何を言われた!?
思わずジュストは走るように近寄っていた。王弟妃がローゼリアに対して、よい感情を抱いていないのはベリエ公の一件で明らかだ。ローゼリアの肩を掴んで、王弟妃から離れさせる。
「……閣下」
驚いてこちらを見上げる、透き通るエメラルドのような翠緑色の瞳が、頼りなく揺れていた。
「ベリエ公妃と、何を話されていたのです?」
「――――ッ」
尋ねた途端、ローゼリアが固まった。全身を石のように硬直させ、顔色が蝋のように白くなる。
「ローゼリア姫?」
まるで国王の暗殺計画でも聞かされたような顔だ。王弟妃はいったい何をローゼリアに告げたのか。
「いえ、何も……」
覗き込むジュストからローゼリアが顔を背けた。逃げようとする仕草に見えて、姫の肩を掴むジュストの指先に、無意識に力が入る。
「姫」
逸らされた視線を取り戻したくて、ジュストはローゼリアの首に手を伸ばした。顎を掴んでこちらを向かせようとしたとき。
「姉妹の秘密よ、アルティノワ公」
上機嫌な声がジュストの動きを制した。
「でも、そんなに知りたいなら特別だわ。わたしが教えてあげましょうか?」
にっこりと、王弟妃は笑った。同じ顔立ちをしていても、ローゼリアがただの一度も浮かべたことのない艶冶な微笑で。
(真白き天使が聞いて呆れる)
これでは
若葉色の瞳が、ジュストを挑発するように細められた。自身の凄艶な魅力を熟知し、それを武器として明確に操るすべも心得ている様子だった。
ローゼリアとはまるで違う。水と炎。あるいは朝と夜。正反対だとジュストは思った。
もし、艶福家な国王の御代に、王弟妃が一介の貴族夫人だったなら。彼女は、その圧倒的な美貌と艶麗な雰囲気で、宮廷に咲き誇ったかもしれない。
彫像を観察するように王弟妃を眺めていたら、抱き締めているローゼリアが身じろぎした。
肩を掴むジュストの手から、さりげなく逃げようとしている。
「踊っていただけないのですか」
その一言は利いた。ぴたっと動きが止まる。元来が真面目なローゼリアだ。この場で婚約者と踊らない、という選択はできないのだろう。
「お姉さまはダンスが嫌いよ。わたしが替わってあげるわ」
うふふ、と赤薔薇の唇から笑い声がこぼれ落ちる。自分の申し出を断る男など、この世に存在しないと信じ切っている顔だ。
貴婦人からダンスを求められた場合、誘われた貴公子が断ることは宮廷作法に反する。
よって、王弟妃が自信たっぷりにジュストを見つめてくるのは当然なのだが、あいにくジュストは彼女と踊るつもりがなかった。
――――さて、どんな屁理屈で王弟妃を退けようか。
再び離れようとするローゼリアを片腕で押さえ込みながら、体裁よく断れる名句をひねり出そうとしたら。
「セレスティーヌ!」
ほとんど叫ぶような声だった。大音量に驚いた貴族たちが、談笑や踊りをやめ、唖然として扉のほうに視線を向ける。
肩で息をするベリエ公が、そこに立っていた。彼は呼吸を整えることなく、そのまま足早にこちらへと近づいてくる。
抱き寄せているローゼリアの肩に力が入った。ベリエ公が一歩前進するたびに、彼女の呼吸が浅くなる。
(……ベリエ公が恐いのか)
あれだけ激しく自分を殴打した相手だ。恐怖を覚えるのは当然だった。
ジュストは眉をひそめる。できるならローゼリアをこの場から逃がしてあげたいが、祝宴の主役を退場させるのは無理だ。ジュストはそれとなくローゼリアを背後に回して、ベリエ公の視線から遮断する。
そうこうしているうちにジュストたちの前に到着したベリエ公は、王弟妃の手首を掴み、苛立ちを隠しきれない声で言った。
「なぜ、このようなところにいらしているのです、我が天使よ」
「お姉さまの婚約をお祝いしようと思ったの」
「王弟妃が足を運ばれる必要はないと申し上げたでしょう。戻りましょう」
「だめよ。アルティノワ公からダンスに誘われたの」
愛妻を誑かす不埒者の存在を知らされて、ベリエ公の双眸が噴火した。
(誘ってないから)
ジュストは胸中で嘆息する。王弟妃は息をするように嘘をつくのだな、と感心したが、見当違いの嫉妬を向けられるのは遠慮したい。この場にはローゼリアもいるのだ。ベリエ公の逆恨みが彼女に飛び火することだけは避けたかった。
愛妻を誘惑されたと思い込んだベリエ公が、憎き不届き者を罵倒するより早く、ジュストは口を開く。
「そんなに心配なら奥方の首に縄をつけておけ、
「な――、んだと」
「ベリエ公ご寵愛の奥方にダンスを申し込むはずないだろ。仮に申し込んだとして、それはただの社交辞令。意味なんてない」
王弟妃が偽りを口にした――とは、ジュストは言わなかった。
公衆の面前で貴婦人に恥をかかせることは、宮廷貴族としてあるまじきこと。それにおそらく、言った言わないの水掛け論に終始するだろう。ベリエ公が全面的に王弟妃の味方につく以上、論争するのは限りなく不利だ。
「意味もなく我が天使をダンスに誘ったのか」
「社交辞令だって言った。円舞曲が奏でられている中に貴婦人がいて、誘わないほうが無礼じゃない?」
「そこは遠慮しろ」
ジュストは、にこりと笑った。いい口実を見つけた。
「お言葉どおり遠慮するよ。
ジュストが誘ったにしろ、誘われたにしろ。ジュストは王弟妃と踊らなければならない立場に追い詰められていたが、その権利を夫に譲渡してしまえば角を立てずに場を収めることができる。
「ほら。曲が流れた。……どう?」
重ねて誘えば、ベリエ公はしぶしぶながら頷いた。ジュストと口論を続けるよりも、愛妻と踊るほうが魅力的だと理解してくれたらしい。
ベリエ公と王弟妃を送り出し、晴れ晴れとした気持ちでジュストは婚約者に向き直った。
「私たちも参りましょう、ローゼリア姫」
ようやく合わせてくれた視線。ジュストの差し出した掌に重ねられた、華奢な手をやんわりと包んで、広間の中央へローゼリアをいざなった。
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